「六甲山ホテル旧館の建物の保存活用に関する要望書」に付す見解書(案)として執筆
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要望書(一般財団法人甲南会理事長宛,2016年1月22日付)
「六甲山ホテル旧館の建物の保存活用に関する要望書」
社団法人日本建築学会近畿支部 支部長 門内輝行
「六甲山ホテル旧館の建物についての見解」
一般財団法人日本建築学会近畿支部 近代建築部会 主査 笠原一人
https://www.aij.or.jp/scripts/request/document/20160122kinki.pdf
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※WEB掲載に際して図版を追加した。
1.建築の概要
1-1.建設経緯と変遷
兵庫県神戸市灘区六甲山町南六甲に位置する六甲山ホテルの旧館は,1928(昭和3)年11月に「宝塚ホテル別館」として着工した。宝塚ホテルは,阪急電鉄が開発・運営する宝塚新温泉と宝塚少女歌劇を中心とした娯楽施設の発展を見込んで,同社と地元有力者・平塚嘉右衛門との共同出資により設立されたものである。翌1929(昭和4)年7月10日の開業に際して,その名称を「六甲山ホテル」とした。当初は避暑目的の観光客を対象として7月から8月の夏季二ヵ月のみ営業するリゾートホテルが誕生することになった。設計者は古塚正治(1892-1976年),施工者は竹中工務店である。
神戸の市街と六甲山系山上を結ぶ公共交通機関としては,1925(大正14)年に阪神電鉄系列の摩耶鋼索鉄道が摩耶ケーブルの営業を開始していた。阪急電鉄も1931(昭和6)年9月に六甲登山架空索道(六甲登山ロープウェイ,1944年に不要不急路線指定で廃止)を敷設し,六甲山登り口駅(現在の新六甲大橋付近)から六甲山ホテルに隣接する六甲山上駅を結ぶ営業を開始した。さらに1932(昭和7)年には阪神電鉄系列の六甲越有馬鉄道(現・六甲摩耶鉄道)による六甲ケーブルが開通し,市街地から六甲山上への交通利便性は一層高まることになった。
1943(昭和18)年7月,太平洋戦争激化にともない六甲山ホテルは営業休止を余儀なくされたが,戦後の1951年に夏季営業を再開,阪急電鉄は株式会社六甲山ホテルを吸収合併して六甲山経営株式会社を設立し,六甲山上開発を推進することとなった。
1956(昭和21)年に表六甲ドライブウェイが開通,山上観光客の増加に対応して同社は,リゾートホテルとしての性格に加えて,宴会,会議,結婚式,飲食利用を可能とするため,1962(昭和37)年に鉄筋コンクリート造7階建ての新館を建設した。これにともない,当初の木造建物は旧館と称されることとなった。
2007年には経済産業省の「近代化産業遺産」に認定されている。
1-2.施設内容
当該建物の木造地上2階・地下1階である。地階はドライエリアを備えた半地下で,これを基礎として,その上に1階と2階が載る三層構成となっている。開業時の施設は34室(特等・上等客室を含む)に大食堂,ビリヤード室であった。意匠上の大きな特徴は,外観とインテリアの洋風山小屋(ロッジ,ヒュッテ)の趣にある。
建設当初は,この各層の外壁に異なる仕上げがなされており,これが建物の立面を特徴づけていた。すなわち,第一層は御影石の粗石貼り,第二層はログキャビン風の丸太積み,第三層は柱と梁の材木を表面に装飾的に顕わしてそのあいだを漆喰塗りとしたハーフティンバーである。さらに,各窓辺には木製花置きが備えられていた。現状では,これらのうち第二層全面と第三層の白色漆喰部分が淡褐色のモルタル吹きつけ壁に変更され,花置きは撤去されている。しかし,第一層の石積みと第三層のハーフティンバーに変更はなく,往時の趣は健在である。とりわけ正面中央の玄関には,木材を用いた特徴的な意匠が集中しており,当初の状態が良好に保たれている。
平面は,共用スペースを中央に,その左右に客室を配する対称形である。当初は,1階がホールと客室(13室),2階がビリヤード室と客室(18室),地階が大食堂,厨房,客室(3室),ボイラー室であった。現在では地階が大きく用途変更され,売店と衣装室となっているものの,2階と3階の共用部分にはオリジナルのインテリアがよく保たれている。
客室はその後の各時代に合わせて改修が重ねられ10室に減じているが,そのインテリアは当初の趣向を踏襲し,施設全体として開業当初のイメージがよく保たれ,クラシックホテルの面目が躍如としている。
1-3.設計者・古塚正治
古塚正治(1892-1976年)は,大正期から昭和戦前期にかけての関西建築界で精力的な設計活動を展開した建築家である。その経歴を川島智生博士の「建築家古塚正治の経歴と建築活動についての研究」(『日本建築学会計画計論文集』522号)によって記せば,次のようである。古塚は,1892(明治25)年に西宮に生まれ,1909(明治42)年に兵庫県立工業学校機械科を卒業(1909年)して阪神電鉄に入社した。その後,早稲田大学高等予科を経て同大学建築学科に学び,1915(大正4)年に卒業,宮内省に入省してその営繕部門である匠寮に配属された。同省を辞して後,地元の実業家・八馬家の奨学制度により1920(大正9)年から2年間,フランス,ドイツ,イギリスに滞在し、アメリカを経由して1922(大正11)年に帰国した。
1923(大正12)年,市制施行直前の郷里・西宮に戻った古塚は建築事務所を開設し、自営建築家としての活動を開始した。このかん,八馬家関連企業や阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の建築顧問のほか,神戸高等工業学校(現・神戸大学工学部)建築学科の講師を務めている。
その設計業務は,在関西の企業社屋や銀行,実業家の自邸,公共建築,娯楽施設など,多岐に渡っている。六甲山ホテル以外の代表作に次のものがある。宝塚ホテル(1926年),西郷小学校(1926年),本山小学校(1927年)、宝塚旧温泉(1928年)、多聞ビルディング(同前),西宮市庁舎(同前)、西宮市立図書館(同前),六甲山ホテル(1929年)、宝塚会館(1930年)、西宮市火葬場(同前)、尼崎信用組合本店(同前)、八馬邸(1934年),鳴尾第二小学校(1937年)など。
以上のように,民間の自営建築家が未だ少なかった当時において,古塚は関西において,精力的な活動を展開し多くの建築物を設計したフリー・アーキテクトであった。このことは,彼の建築家としての確かな能力に加えて,実業界や地方自治体から寄せられた信頼を物語っていよう。
2.建築史学上の価値
2-1.意匠的価値(歴史的価値,文化・芸術的価値)
六甲山ホテルは山上のリゾートホテルとして誕生した。前述したように,その外観・内部の意匠に洋風山小屋の趣が採り入れられたのは,それが立地にふさわしいイメージと考えられたからであろう。じじつ,設計者・古塚正治は『建築と社会』1930(昭和5)年1月号(第13巻第1号)掲載の記事「ホテル建築の一考察」において,ホテルの「営業目標」を「社交」「旅宿」「月宿」「遊興地及季節」に四区分した上で,次のように述べている。
六甲山ホテルなり,雲仙ホテルは単にシーズン・ホテルとして別個の解釈を附すべきであらうと考える。
同文中で古塚の言う「シーズン・ホテルとして別個の解釈」こそ,立地にふさわしいリゾート気分とでも言うべきものであろう。古塚はそれを,洋風山小屋の全体イメージのもとに,粗石,丸太,ハーフティンバー,暗褐色に塗られた太い化粧梁といった野趣に溢れる木造建築の要素に,ステンドグラスやアーチなどの西洋古典様式の石造建築の優雅な要素を組み合わせることで実現している。具体的には,スクラッチタイル(表面に引っ掻き模様を施したタイル)梁のアーチや,木製梁の両端に付された装飾的なハンチ(梁と柱の接合強度を増すための補強部材)などの西洋古典主義建築の要素が組み合わせられた1階ホール。天井全面を覆う簡素なステンドグラスを通過した柔らかな光に満たされて親密な雰囲気を醸し出している2階のライブラリー(当初のビリヤード室)などである。
加えて特筆すべきは,玄関の外部意匠である。ペアコラム(2本一組の柱)と2本のピラスター(壁に半ば埋め込まれた付け柱)がアーキトレーブ(水平梁材)を支えるという西洋古典様式における石造の要素が,基礎こそ石材が用いられているものの,あとはすべて木材で表現されている。しかも,その柱の形状は,元が細く上方に向かうにつれ太くなる。アーキトレーブも同様に上方に向けて迫り出している。こうした上方に向けて広がる形状は,西洋建築史においては,古代ギリシアをさらにさかのぼるミノア文明のクノッソス宮殿の柱などに見出される。こうした意匠は他に類例を見ない独特のものだが,古塚は宝塚ホテル(1926年)や宝塚旧温泉(1928年)でも用いており,古塚作品の特徴のひとつと言えそうである。
ところで,先に引用した文中で言及されている「雲仙ホテル」とは現在の雲仙観光ホテル(1935年,設計:早良俊夫/竹中工務店)のことだが,古塚の記事執筆時点では,いまだ計画段階であった。同ホテルは,外国人観光客誘致による外貨獲得を目的にした国策のもとに鉄道省観光局が建設を推進した外国客向けホテルのひとつとして建設されたものである。
知られるように雲仙は「三峰五岳の雲仙岳」と称される景勝地として知られる。明治期には西洋人により避暑地として見出され,1913(大正2)年にはゴルフ場が開業,1934(昭和9)年には雲仙国立公園(現・雲仙天草国立公園)として日本初の国立公園に指定された。こうした過程で開業した雲仙観光ホテルもまた,丸石貼り,丸太積み,ハーフティンバーの外壁をもつ,洋風山小屋をモチーフとした建物である。同様の設置背景と意匠の傾向は,クラシック・リゾートホテルとして人気の高い,上高地ホテル(現・上高地帝国ホテル,1933年,設計:高橋貞太郎)や軽井沢万平ホテル本館アルプス館(1936年,設計:久米権九郎)とも共通するばかりか,六甲山ホテルはその先駆をなすものなのである。
以上のとおり,六甲山ホテルは,洋風山小屋の全体イメージのもとに野趣に富む要素と古典主義の優雅な要素を,古塚正治独自のデザインセンスにより統合した意匠をもち,日本における山岳リゾートホテル典型の先駆をなす,価値ある建築物である。
2-2.「地方の建築家」古塚正治作品としての価値
古塚正治は,先に見た経歴のとおり,阪神間を主たる活動の場とした建築家であった。またその作風は,施設の立地と性格,あるいは施主の趣味によって,古典主義様式,スパニッシュ様式,和風,アール・デコ,モダン・スタイルなど多様な様式を使い分けた。しかも,それらのいずれもが巧妙で上出来なのである。この器用さにこの建築家の特徴がある。
しかし,彼がこれまでの日本近代建築史の通史的叙述に登場することはなかった。これまでの通史は,全国規模で設計活動を展開したとか,個性の突出した建築家によって叙述される傾向が強い。古塚のようなタイプの建築家に対する評価は,概して低いのである。
とはいえ,日本の近代建築がそうした一部の建築家たちのみによって担われていたわけでは,当然ない。むしろ,近代建築の普及過程において,各地域の近代化は,それぞれの地方の状況に対応して活動を展開した当該地域の建築家たちによって担われた部分が少なくないのである。
こうした地方の近代建築とそれを担った建築家たちの活動に対して,日本建築学会における研究発表でも1990年代初頭頃より,「地方の建築家」あるいは「地方における建築活動」というキーワードのもとに研究成果が蓄積されつつある。このキーワードの適否については議論の余地もあろうが,ともあれこれまで注目が不十分であった対象が明らかになることの学術的貢献は,学会においても当該地方においても,ひいては我が国の文化形成においても重要であることは,論をまたないであろう。
古塚正治の設計作品は,日本建築学会による全国調査に基づいて発刊された日本建築学会(編)『日本近代建築総覧―各地に遺る明治大正昭和の建物』(技報堂出版1983年)にいくつかリストアップされている。しかし,より注目されることとなったのは,1997(平成9)年に開催された「阪神間モダニズム―六甲山麓に花開いた文化,明治末期―昭和15年の軌跡」展(兵庫県立美術館,西宮大谷記念美術館,芦屋市立美術博物館,芦屋市立谷崎潤一郎記念館)とその図録の出版(淡交社,同年)以降であろう。同展は,大阪と神戸の二大都市に挟まれた郊外を舞台に展開した美術,建築,文学,音楽などの文化を同地におけるライフスタイルとを関連づけて「阪神間モダニズム」の名のもとに包括的にとりあげたもので,「阪神間モダニズム」という呼称が一般化する契機となったものである。
今日,「阪神間モダニズム」という語は商業誌にも登場し,若い世代の人口にも膾炙するようになっている。このように一般化が進む一方で,その概念は曖昧となり,さらにその実体は希薄になってゆくように感じられる。実体から切り離されて,「阪神間モダニズム」という耳当たりの良い語感だけが心許なく漂っている。こうした傾向は,人間と等倍のスケールを備えた環境である都市や建築において顕著である。建物が失われると,それが生まれ使われてきた状況に遡行する筋道が見えにくくなり,その設計者が当時の時代状況にどのように対応したのかも,わからなくなるからである。
この意味において,六甲山ホテルは古塚正治の代表作であると同時に,古塚の活躍した阪神間と彼が生きた時代を後世の私たちに語りかけてくる,価値ある存在と言える。
2-3.近代化遺産としての価値(社会的価値,景観・環境的価値)
六甲山ホテルは,六甲山上がリゾート地として近隣の一般人にも身近な場所になっていく,いわば大衆化の初期状況を今日に伝える,貴重な近代化遺産である。
六甲山系は,中世より山岳修行の霊地や宗教施設が点在してはいても,明治期までは森林資源の供給地ででしかなく,樹木の乱伐や山火事により山肌が顕わになるほど荒廃し,土砂災害の原因となっていた。この状況に対して,防災と上水道の水源地保全のために,1902(明治35)年より,大規模な砂防植林が開始された。したがってこの時期までは,六甲山上は,阪神間で生活する日本人にとっては関わりの少ない場所であった。
しかし,1868(明治元)年の神戸港開港にともなってやって来た外国人たちにとって,市街地の背後に連なる六甲の山々は,狩猟や登山そして避暑や保養のための恰好の場であった。神戸オリエンタルホテルの経営に携わっていたイギリス人A.H.グルーム(1846-1918年)は,1895(明治28)年に六甲山上の土地一万坪を借り,その一隅の三国池のほとりにまず自身の別荘を建て,他を外国人用別荘として分譲した。このグルームの別荘が,六甲山上の最初の人家と伝えられる。
六甲山上に形成された外国人コミュニティからゴルフ場建設のアイデアが生まれ,それが日本最初のゴルフクラブとなる。1903(明治36)年に開場した「神戸ゴルフ倶楽部」である。当時,六甲山上に別荘を構えたのはイギリス人を主とする外国人で,別荘地は「外人村」と呼ばれた。彼らはそこで,夏はゴルフや水泳,冬は登山やスケートを楽しんだ。
こうしたライフスタイルは,やがて第一次世界大戦の好景気を背景にした日本人富裕層にも徐々に身近なものになっていった。大正期に入ると阪神間在住の外国人や日本人富裕層の別荘が続々と建設され,1920(大正9)年の阪急電鉄神戸線の開通により,大阪方面からの登山客も増加した。1925(大正14)年には摩耶ケーブル開通により摩耶山天上寺の参詣客も加わり,六甲山上は市街地に近いリゾート地,観光地としての発展が始まった。
こうした六甲山上の大衆化の兆しに着目した阪急電鉄社長の小林一三は,1925年(大正14)年に,登山者向けとして六甲山上に100名収容の食堂と宿泊施設「六甲阪急倶楽部」を開設した。これが六甲山ホテルの前身である。この後の推移については「1-1)建設経緯と変遷」で述べたとおりだが,要するに,六甲山上への交通アクセスと山上開発も,阪神電鉄と阪急電鉄のライバル競争に牽引される一面があった。すなわち,阪神間モダニズムと称されるライフスタイルの成立とも関わりの深い市街地の沿線開発をめぐって展開された様相が,六甲山上をめぐっても生じていたのである。
六甲山上のリゾート開発,観光開発は,前後のモータリゼーションの発達によってさらに加速された。しかし,このアクセスビリティの向上によって,かつての六甲山上がもっていたある種特別なリゾート感覚が希薄化することにもなった。今日,六甲山上を訪れる人びとのうち,この場所の成立に思いを致す人は多くないかもしれない。しかしだからこそ,その歴史を風景として語り,空間として訴えかける実体が重要である。六甲山ホテルはそれ自体が近代化遺産として貴重であるだけでなく,W.M.ヴォーリズの設計になる神戸ゴルフ倶楽部のクラブハウス(1932年)やいくつかの別荘,あるいは,グルームゆかりの場所とのネットワークによって,六甲山上の環境的価値を高める役割を果たしているのである。