著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

宝塚の大衆建築

阪神間モダニズム展実行委員会(編)『阪神間モダニズム―六甲山麓に花開いた文化,明治末期-昭和15年』1997年,淡交社,pp.98-99

【コラム】宝塚の大衆建築


現在隆盛をきわめる宝塚も,もとはといえば「無理にこしらえた都会」である。これは小林一三の言葉だ。「当時ほとんど何もなかつた宝塚の地へ,あんな無理なことをやつたのは,電車を繁昌させなくてはならなひから,何とかしてお客をひつぱろうとしてやったことで」(『宝塚漫筆』)。「あんな無理なこと」というのは,いうまでもなく新温泉(現ファミリーランド)や歌劇をめぐる一連の事業のことだが,小林が無理,無理を繰り返すように,それは相当な力業であった。「何とかしてお客をひつぱ」るために,当然,建築も動員されたのだった。最初にできたのは宝塚駅(明治43年)である。ひなびた温泉町とはいえ,こちらもターミナル,途中の駅舎に比べれば格段の飾り方だ。翌年には本館,つづいてパラダイスが建つ。これは当初室内プールとして計画されたがうまくいかず,少女の歌と踊りを見せるべく劇場に改造された。これが宝塚歌劇のはじまりとなる。観客の増加にともない大正初期に舞酢から和風建築を移築し劇場に流用するが,その後火災により失う。そして大正13年,ついに小林の大劇場主義の具現化である大劇場が建設された。初公演から10年目のことである。さらに新温泉の拡充にともない周辺にも娯楽施設ができた。宝塚ホテル(大正15年),ダンスホールの宝塚会館(昭和6年)などである。これら建築の様式はどれもみごとにバラバラだ。そのさまは,字義どおりのピクチャレスクといえよう。それは,周辺との調和や統一など配慮されていないかにみえる。しかも,その新陳代謝は緩慢で,さまざまな様式の併存は意外に長くつづいた。たとえば最も初期の施設である本館は昭和53年まで,大劇場は平成4年まで使用されつづけている。しかし,こうした状況こそが,むしろ非日常的で祝祭的な雰囲気を作り出していたといえよう


箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)開業当時の宝塚駅

明治43年 宝塚市(写真:「宝塚歌劇80年史」平成6 年)
ゴシック・リバイバル風の外観が醸し出す異国情緒は,人びとをお伽噺の世界に誘うものだっただろう。


宝塚大劇場
大正3年 宝塚市 設計=竹中工務店(写真:「宝塚歌劇80年史」平成6 年)
約4000人収容という規模は当時の日本では例がない。アーチを多用する外観はペルリン大劇場との類似を指摘できなくもないが,内部はいたってそっけないものだった。


パラダイス劇場
明治44年 宝塚市 設計=不詳(写真:「宝塚歌劇80年史」平成6 年)
当初は室内プールとして建設された。今とむってはその色を知る術もないが,ウィーン・セセッション風の外観は華やかで享楽的な印象を与えただろう。


宝塚ホテル
大正15年 宝塚市 設計=古塚正治(写真:「建築と生活」昭和8 年)
世紀末ドイツ建築の雰囲気をもつ外観。切妻屋根にレリーフを施すデザインは,この設計者が好んだ手法のひとつである。