著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

フリーアーキテクトの生き方―古塚正治の建築

阪神間モダニズム展実行委員会(編)『阪神間モダニズム―六甲山麓に花開いた文化,明治末期-昭和15年』1997年,淡交社,pp.96-97

【コラム】フリーアーキテクトの生き方―古塚正治の建築


阪神間の近代建築を調べていると,いたるところで古塚の名前に出会う。そのたびに‘「えっ,これも?」と,驚かされる。作風に一貫性がないからだ。古典主義,スパニッシュ,和風,アールニプコ,国際様式など,およそこの時期に考えられるあらゆる様式を使い分けている。しかも,どれも相応に見栄えがする。にもかかわらずというべきか,だからこそというべきか,彼はこれまで建築史の表舞台に登場することがほとんどなかった。古塚は宮内省匠寮に勤務のあと大正11年,市制施行直前の西宮で設計事務所を自営し,地元の企業や官庁の仕事をよくした。八馬邸(大正15年)や多聞ビル(昭和3年)は酒造業・八馬家関連の建築物であり,西宮市庁舎や西宮市立図書館(同3年)は酒造家・辰馬吉左衛門の寄付により建設されたものだ。宝塚ホテル(大正15年),宝塚会館(昭和6年),六甲山ホテル(同4年)などは阪急電鉄系列の施設であり,大阪梅田のターミナル・阪急ビル(同4年)の建設に際しては施主側の顧問を務めている。また西宮市の施設として,火葬場(同5年),鳴尾第二小学校(同12年)や大社小学校(同15年頃)なども手がけている。こうした活動ぶりからは,古塚が地元の企業や官庁から信望を得,また彼もそれによく応えただろうことがうかがえる。おそらく彼は,作風の確立など考えなかったのではないか。実務,現実を批判せず,自らの技能をその現実に順応させたフリーアーキテクトだったといえよう。

多聞ビル 昭和3 年 西宮市 設計=古塚正治
古塚に「代表作」という言葉は似合わない。しかし,この作品に示された濃密な装飾構成は,大きな振幅をもつ彼の作風のまちがいなく最右翼である。


鳴尾第ニ小学校(現存せず)
昭和12年 設計=古塚正治(写真:『建築と社会』昭和12年2 月号)
多聞ピルを最右翼とするなら,最左翼はこの小学校。標準設計のなかでどれほど腕を振るえたかはわからないが,あえて振るわないというのも,ひとつの見識である。