阪神間モダニズム展実行委員会(編)『阪神間モダニズム―六甲山麓に花開いた文化,明治末期-昭和15年』1997年,淡交社,pp.97-98
清水栄二(1895-1964)は,昭和初期に神戸市土木課初の東京帝大出の技師として,多くの特徴ある小学校を設計した建築家である。昭和8年,39歳の清水は,住宅の設計について,つぎのように書いている。「阪神間の山手が如何に住宅様式の展覧会を実現しても日本が世界の楽土である事を揚言出来ない。それよりも都市の近郊に存する芝居の書割か,ペンキ屋の看板然たる存在こそ我等建築家全部が責を負ふべき国辱ではなからうか」(『建築と社会』昭和13年4月号)。つまり,美しい邸宅ではなく,書割か看板のような存在にこそ建築家は取り組むべきだというのである。そして「民衆愛に生きる若き建築家の多数出現を期待したい」とつけ加える。
清水によれば書割か看板のような存在とは「中産階級以下」の住宅のことなのだが,これが,ちょっと意外である。なぜなら,この中産階級以下が家をもとうとする際の注意として,火災保険,修繕費,女中の給料などの支出を考慮せよと述べているからだ。どうやら清水のいう「中産階級以下」とは,いま私たちが思うところの中流に近いようだ。意外に思ったのは,昭和5年前後を風靡した近代主義建築運動が,民衆をもっぱら無産階級と位置づけていたことが念頭にあったためだ。
この一文を書いた頃の清水は「中産階級以下によき住宅を提供」するための「小住宅月賦提供の小会社」の経営をはじめている。すでに大正15年,彼は神戸市役所を辞め事務所を自営していた。昭和4年には魚崎小学校を,昭和8年には御影公会堂を設計している。しかし,昭和5年以前の活動の華々しさに比べてそれ以降の活動の停滞感は否めない。
建築界の1930年(昭和5)。たとえば,先に触れた建築運動の旗手たちが想い描いた無産者層の住環境改善を挺子にした社会変革の夢は,それが個人の力ではどうにもならないことを露呈していた。一方,そうした構想はむしろ社会事業として官主導の計画に吸収されつつあった(たとえば賀川豊彦『死線を越えて』で知られる神戸・新川スラムの改良住宅計画は昭和六年に開始されている)。かつて役人であった清水にとっては,下流住宅が自営建築家の仕事になりえないことは明らかだったろう。しかし,冒頭の発言にもうかがえるように,スタイルブックを繰るように上流住宅を設計するには,理念的であり過ぎた。したがって彼が中流住宅に照準を合わせたことは,自然ななりゆきに思われるのだ。ただ,この中流住宅をめぐる清水の計画がどれほどの成果を上げたかは,はっきりしない。このようにみてくるなら,代表作といわれる御影公会堂は,むしろ彼の作品の最後の華であった。
魚崎小学校
昭和4 年 神戸市 設計=清水栄二
中央塔屋で強調される垂直性,深い軒で強調される水平性,雨天体操場をはさむ平行配置のプラン。当時の阪神問の小学校建築にあって,あくの強い個性である。
御影公会堂
昭和8 年 神戸市設計=清水栄二
集会室,ホール,ステージのそれぞれに異なる立体を対応させる構成主義的な方法と,それ以上に麟舌な装飾的要素が併存する。