所収:深川雅文,杣田佳穂(監修)『開校100年 きたれ、バウハウス―造形教育の基礎』アートインプレッション
発行日:2019年8月
※WEB掲載に際して若干の加筆修正を施し,図版を追加した。
山脇巖の建築の仕事
梅宮弘光
戦後建築史における山脇巖
日本の近代建築史において山脇巖(1898~1987年)の名は,日本人として二人目のバウハウス留学生とし知られている。それは,一人目の留学生,東京美術学校助教授だった水谷武彦(1898~1969年)が戦後の情報発信に必ずしも積極的ではなかったのに対し,日本における窓口役を積極的に務めたことや,留学が夫婦揃ってのものであったことが作用していよう。
山脇は学生時代より当時の先端文化であった新劇運動にかかわり,その舞台美術や演出への関心を,モンタージュ写真やその技術を展開した写真壁画,さらにはディスプレイ・デザインへと展開させていった。
日本において,1920年代から30年代にかけて台頭する建築のモダニズムのなかに,従来的な建築の範疇を超え出て行くこうした傾向が現れるのはしごく当然のことで,こうした山脇の志向は,バウハウス経験の中で補強されていったと思われる。1939年のニューヨーク万博における国際部日本館の会場構成【図1】は,その結実である。
しかし,近代建築史におけるモダニズム叙述は,このような拡張傾向を自らの歴史に組み入れる回路をもたなかった。結果として,山脇のそれ以外の活動,つまり建築の仕事は,日本近・現代建築史の図ではなく地のなかに埋没していったように思われる。
バウハウスから帰国後の1930年代後半,山脇はモダンスタイルの住宅を精力的に発表したにもかかわらず,それらに十分な眼が向けられないまま多くが失われていった。そのエッセンスともいえる画家・三岸好太郎(1903~34年)の画室が注目されるのは,1990年以降のことである*1。【図2a-b】
戦後,山脇は近代数寄屋に類するモダンな和風住宅を少なからず設計した。俳優座劇場や桐朋学園大学校舎,日本大学芸術学部キャンパス総合計画など比較的大規模なものもある。自営建築家として設計を続ける一方で,日本大学芸術学部で長く教職を務めたから,彼に直接関わった人びとにとっては大きな存在であったことは想像に難くない。にもかかわらず,山脇の戦後の仕事の印象は希薄というほかない。
山脇の作品は,竣工のたびに建築雑誌に紹介されることはあった。しかし一般論として,建築家がその作品とともに後々まで語り継がれるには,突出した存在として歴史叙述や評論に取り上げられたり,個人の名のもとに作品集が編まれるなどの二次的キュレーションが必要なのだ。そのためには建築家自身も雑誌に新作を発表するだけでは不足で,尖った作品を尖った言葉でアピールする必要がある。しかし,山脇はそのような活動をするタイプではなかった。
1960(昭和35)年に刊行の始まった『世界建築全集』(平凡社,)は,日本で初めて近・現代の都市と建築をテーマ化した建築全集である。全14巻のうち,第9巻(1961年)が「近代―ヨーロッパ・アメリカ・日本」,続く第10~14巻がすべて「現代」。近・現代に重点を置いた意欲的な企画である。この「近代」の巻に一箇所山脇が登場している。しかし建築家としてではない。フォトモンタージュ「バウハウスへの打撃」(1932年)の作者としてであった。
『世界建築全集』に続く建築全集が,1971(昭和46)年刊行開始の『現代日本建築家全集』(三一書房)である。文学者・詩人の栗田勇(1929~2023年)監修による,少々アクの強い,しかしこれもまた充実したエディトリアルだ。大家はひとりずつ,中堅は2人,若手は10人ひとまとめに,ほぼ世代順に建築家が並べられている。第1巻はアントニン・レーモンド(1888-1976年),第24巻「現代作家集Ⅱ」におさめられた最若手が坂本一成(1943年~)であった。ここにも山脇の名前はない。
さらに続いて,1979(昭和54)年から刊行された『日本の建築〈明治・大正・昭和〉』(全10巻,三省堂)は,タイトルが示すとおり歴史叙述の意志に貫かれた画期的全集である。適材適所の研究者による論考,写真家増田彰久(1939年~)による高品質の写真,それまで見たこともなかった貴重な図像資料と,近代建築史を学ぶ者に日本近代建築「史」の全体イメージを提供することになった。山脇が登場するとすれば,第10巻「日本のモダニズム」だが,ここにもその名はないのである。
前述の『世界建築全集』で近現代を扱う第9~14巻の担当編集委員が,1950年代60年代の建築ジャーナリズムで健筆を振るった浜口隆一(1916~95年)と神代雄一郎(1922~2000年)だ。その評論の基調は建築の社会性に焦点化したもので,ときに政治イデオロギーの色合いを帯びた。ただ,それはこの両者に限ったことではない。この時期の建築ジャーナリズムもまた,政治の季節のなかにあったのである。
その神代が別のところで次のように山脇巖に言及している。
それ(1940年:筆者注)から25年ほどのちの現在,そのころを思い起こして感じる疑問は,なぜフランスのコルビュジエに学んだ前川や坂倉が戦後の隆盛をとげ,ドイツのバウハウスに学んだ山脇巖や水谷武彦が,影をひそめてしまっているかということである。もっともこれに対しては,わたくしはわたくしなりに回答をもっていて,なるほどバウハウスはコルビュジエと同様に日本では大評判になったのだけれど,バウハウスには実は建築教育はなかったのだと考えている。・・・グロピウスにしてもブロイヤーにしてもローエにしても,建築の教育をはじめたのはアメリカに渡ってからではなかったろうか。山脇巖は戦前にわずかに,ニューヨーク万国博の日本館(昭和14年)で名前をみせているにすぎず,再評価のしようもない。*2
神代がこのように書いた1964年は,後に山脇が自らの代表作としてあげる*3桐朋学園大学校舎は竣工したばかり,日本大学芸術学部キャンパス総合計画は始まったところであった。神代がこれらを認知していれば評価はまた違っただろうか・・・。憶測だが,変わることはなかっただろう。神代にとって建築における近代性は闘い取るものであり,モダニズムを標榜する建築家は闘士でなければならなかった。そうした眼に,戦後の山脇は凡庸な設計事務所の所長と映っていただろう。憶測を重ねるならば,山脇が有楽町日本劇場の壁面に掲げられた百畳敷きの戦意昂揚写真壁画「撃ちてし止まむ」(1943年)【図3】の監修者であったことが引っかかっていたのかもしれない。
山脇は,自作の発表に際して理念を振りかざすようなタイプの建築家ではなかった。建築構想で闘う設計競技にも参加したことはなかった。建築論を著すこともなかった。これでは,ジャーナリズムの俎上にも,全集のセレクションにも載りにくいのである。
山脇巖の建築作品
山脇巖の経歴書3種*4と作品掲載誌にもとづいて,設計作品をリスト化した【表】。年代については,設計完了・竣工時期のデータを欠いており特定は難しく,雑誌掲載時期も混在しているため,時系列化のおおよその目安にとどまっている。総数はさらに多いと思われるが,今のところこれ以上の手掛かりがない。
こうした設計活動について,山脇自身は次のように記している。
戦前にはアメリカやヨーロッパでの仕事も可なりやった。当時は一年のうち3ヵ月位は海外で仕事をした。
戦争を中にはさんだだめ年数の割に建築作品の数こそ少ないが変ったものが多い。六本木の俳優座劇場や,日本でも珍しい完全な設備を持った調布の桐朋音楽大学,また約延べ七年かかって日大芸術学部の全館七棟とその環境整備も完成さした。その他に珍しいホテルや大きな観光旅館,事務所建築の計画などが多い。茶席や茶庭を含めて個人邸宅だけでも二百戸以上は手がけた。*5
「アメリカやヨーロッパでの仕事」とは,ニューヨーク万国博覧会(1939年)における「国際館カヴァードスペース日本部」とサンフランシスコ・ゴールデンゲイト博覧会(1939年)における日本政府出品に関わるものである。ここでの山脇の仕事は写真壁画構成と展示デザインであった*6。山脇はアメリカの主催者からあてがわれた施設(カヴァードスペース)の外壁に若干の造作を加えるなどしているものの,建築設計とわけて考えるべきだろう。続いて1939年には,ローマ万国博覧会(1942年開催予定)に向けて日本政府建造物に関わる調査でイタリアに赴いているが,この万博は大戦勃発により中止となった。
以下では発表当時の雑誌記事にもとづいて,ビルディングタイプごとに山脇の建築の仕事を紹介したい。
住宅作品―「白い家」から「モダン・リビング」へ
バウハウスの閉鎖決定を受けて,山脇夫妻がデッサウを去ったのは1932(昭和7)年10月,イギリスとオランダへの小旅行を経て12月の末に帰国,翌1933(昭和8)年1月には東京銀座の徳田ビル(土浦亀城設計)に居を定める*7。3月に籍があった横河工務所を依願退職し,5月には設計事務所を開設した*8。【図4a-c】
翌1934(昭和9)年から1939(昭和14)年までに,山脇は建築雑誌に14件の住宅を連続発表している。設計や施工に要する時間を勘案すれば,帰国を待ち構えるように設計依頼が続いたことになる。いずれも木造ながら,外壁にモルタルを塗り,江口・宮舞踊研究所(ダンススタジオ併設の住宅)*9を除いて屋根を亜鉛引き鉄板葺きの緩傾斜とすることで,地上から見る限りは陸屋根に見えるようにしたものである。
1930年代初頭には,日本において従来の日本家屋とはとは異なるこうした箱形の住宅が,若手建築家の設計によって出現し始めた。その外見は,欧米の新傾向と通じるもので,インターナショナル・スタイルと呼ばれる。たとえば雑誌『国際建築』は,こうした日本の事例を海外の事例に並べて掲載することで,日本の建築も欧米の新潮流に含まれることを編集を通じて表現していた。
そうした傾向が,1934(昭和9)年を迎えて若干変化してきていると,建築家・市浦健(1904~81年)は次のように書いている。
新建築精神表現の近道としての住宅の作品も・・・白い塗壁と広い硝子窓,ペンキ塗りの造作とパイプの手摺りと家具。梗概の交通機関から多く見られる「豆腐」の大部分はこの条件を欠いて居ない。只夫等が稍々以前と変つた事は,違棚様の造付棚や和紙貼の壁や照明器具の介入した事である。然し此だけで「日本」を入れ了せた事にはならない事を此等の建築家たちは強く意識しなければならない。*10
市浦の指摘は,若手建築家のなかにインターナショナル・スタイルに日本らしさを融合する試みが出始めているがいまだ成功していないということである。この時期の山脇設計になるインターナショナル・スタイルの住宅には,施主の要望なのか,そのほとんどに数寄屋風和室を含む。それらはインターナショナル・スタイルの全体性のなかに,独立した内部空間としてインストールするように設えられたもので,先に市浦が指摘するような両者の融合を意図したようには見えない。この点は,後述する戦後のホテル・旅館建築における山脇の設計手法とも共通すると思われる。
一方で注目したいのは住宅各部の色彩である。インターナショナル・スタイルの住宅には,ル・コルビュジエ設計の一連の住宅やヴァイセンホーフ・ジードルング (1927年)に代表されるように,白色の外壁をもつものが多い。このことから,この種の住宅は「白い家」などと呼びならわされるようになり,日本の同傾向の作品も「日本の白い家」などと呼ばれることがある*11。
たしかに当時の写真や印刷はモノクロであり,竣工時のたたずまいが今日まで保たれている事例はごくわずかなため,外観は無彩色の印象をもちがちだが,実態はそうでもない。こと山脇は雑誌発表時に各部の色彩を細かく説明しており,無彩色のものもあるとはいえ,むしろ多くが,外壁に淡黄色,淡青色,淡緑色が塗られており,なかには「派手なサルモンピンク」(歯科治療室をもつ住宅)もある。また扉,窓枠,庇下などの木部には濃青色,暗褐色,暗紅色,朱色,階段などの金属部は銀色であった。このように,山脇設計の住宅は,総じてヴィヴィッドな印象である。
こうした特徴が集約的に現れているのが,三岸好太郎アトリエ【図5】であろう。それぞれ独立したアトリエ部分と居室部分を接合する形式は,夫婦のアトリエと居室を分離した山脇自邸と共通するが,三岸アトリエは規模が小さいこともあり,大きなガラス開口(窓枠は濃青色)をもつ白色の立方体という明快さが際立っている*12 。
先に引用したとおり,山脇は住宅を200戸以上設計したというが,戦後に雑誌発表された住宅作品は管見の限り10件で,すべて木造である。これら少数例をもって山脇の戦後住宅作品全体を云々できないが,次の点が興味深い。
まず,戦前期の作品に共通していた箱形のインター・ナショナルスタイルは姿を消す。かわって登場するのが,緩やかな切り妻の大屋根(片野邸)やバタフライ屋根(N氏邸)の下で和室と洋室をのびやかに一体化した住空間である。こうした傾向は,戦後に活躍の始まる山脇より若い世代,たとえば吉村順三(1908-97年),清家清(1918-2005年),増沢洵(1925-1990年)が切り拓き,いわゆる「モダン・リビング」として一定の普及をみるものである。ここで興味深いのは,戦後に活躍を始めるこうした建築家の作風に,戦前世代である山脇のほうが接近していくように見える現象である。
いまひとつは,山脇の場合,こうした住宅スケールにおける「モダン・リビング」的空間が,ホテルや旅館における平面計画やインテリアデザインに活用されていることである。この点については,後に改めてふれたい。
劇場建築―原点としての舞台空間
山脇は,自身の代表作のひとつに俳優座劇場(1953年)【図6】をあげている。劇場建築としては,これに先立ち1950(昭和25)年にテアトル・セント(仙台劇場)【図7】を設計している。また,晩年の大作といえる桐朋学園大学音楽学部校舎や日本大学芸術学部校舎には音楽ホールや講堂などの劇場的要素が含まれる(後述)。
こうした劇場建築の設計について,山脇自身は多くを語っていない。しかしその背景には,演劇から出発して,やがて写真壁画や博覧会展示デザインへと展開する総合的な視聴覚環境デザインへの大きな関心と,その関心を育んだ大正期新興美術運動における人間関係があった。しかもその経験は,バウハウス留学以前の東京美術学校在学期に遡る。すなわち山脇は,この当時の活動をとおして,留学以前にバウハウス周辺の新しい芸術動向に間接的に接していた可能性もある。そこでまず,テアトル・セントと俳優座劇場の建築的内容をみるまえに,こうした背景を確認しておきたい。
日本における舞台美術の先駆者のひとりである田中良(1884~1974年)の回顧のなかに,東京美術学校在学中の山脇の名が次のように登場する。田中は東京美術学校西洋画科卒業(1910年)で,専攻は異なるものの山脇の先輩にあたる。
大正一二年の関東大震火災の為め東京の主な劇場が全滅した時,私達は一先づ机に帰つて不休の研究を続けることに決意し,遠山静雄,伊藤熹朔,小川昇,小松栄,佐原包吉,繁岡鑑一,山脇巖(旧姓藤田)其他の諸氏と共に舞台美術研究会を組織して盛に模型舞台による研究を行ひ・・・*13
田中の述べる「模型舞台による研究」とは,上演に先立って舞台装置模型を製作して効果を検討するもので,「縮尺によつて原寸を想起すると云ふ習慣がなかつた為」め当時の日本では一般的ではなかったが,「近時有らゆる生活の科学化,合理化の重要性が要述されてゐる際,舞台装置の如き複雑な要素による綜合的効果を発揮せむとするものに対しては矢張り科学化を必要とする」というものだった*14。同文中に名前のある美術家に加えて,東京高等工業学校電気科卒で後に日本における舞台照明の先駆者となる遠山静雄(1895~1986年)や,建築専攻の山脇が加わっているのも,こうした流れがあったからだろう。
これと同じ時期,舞台美術家の伊藤熹朔(1899~1967年),その妻・智子,熹朔の弟で演出家・俳優の千田是也(1904-1994年)らを中心に人形劇グループ「人形座」が結成される。築地小劇場で行われたその第1回公演「操り人形劇〈誰が一番馬鹿だ?〉」(ウイットフォーゲル作)において,山脇は「舞台装置」を担当している(このときの「人形遣い」には美術学校在学中の平松義彦(1905~1980年,建築家)も参加している)*15。
このあと山脇は人形座を離れ,1926年に美術運動グループ「単位三科」に参加した。翌1927(昭和2)年6月に開催された「三科形成芸術展覧会」に「建築構想」と題したオブジェを出品している*16。このときバウハウスに向けて離日する3年前,山脇は「三科運動に就て」という文章*17を建築雑誌に発表しているが,新しい芸術精神を説くその熱い語り口は,後の『欅』(1942年)に収められた随想群とは異質のものである。
同展には,山脇以外にも,山越邦彦(1900-80年)や山口文象(1902-78年)らの創宇社建築会メンバーなど,青年建築家が参加して建築構想案を出品していることが特徴である。とくに山脇は前述の立体作品のみならず,同展期間中に開催された「劇場の三科」(1927年6月,朝日講堂)において,作・演出・舞台・衣装をひとりで手がけた仮面劇「零(ヌル)」を発表してもいる*18。
この単位三科は,五十殿利治によると「畑違いの専門家たちを動員して諸芸術領域を結合していこうとする姿勢を打ち出し」*19たものであり,その活動領域として絵画,彫刻,建築,映画,印刷,演劇を掲げていた。メンバーから選ばれた「常務委員」は,村田実(1894-1937年,映画監督),仲田定之助(1888-1970年,美術家),中原実(1893-1990年,画家/歯科医),大浦周蔵(1890-1928年,画家),岡村蚊象(山口文象,1902-78年,建築家),玉村善之助(方久斗,1893-1951年,画家),山崎清(1901-85年,画家/歯科医)といった多彩な顔ぶれである*20。この中に名前のある仲田定之助は,もちろん建築家・石本喜久治(1894-1963年)とともに日本人として初めてバウハウスを訪問し,紹介記事を書いた人物である。
青年時代のこうした新興美術運動の経験やバウハウス留学時代にドイツで親しく交わった千田是也*21との人間関係が,彼が創設の中心メンバーであった劇団俳優座が創立10周年事業として計画した俳優座劇場の設計につながったことは想像に難くない。竣工に際して山脇は,その設計過程を次のように振り返っている。「舞台と奥行と客席の収容人員を要求通りに割りつけると・・・前面歩廊は,昔の築地小劇場と大した差がなくなってしまった」*22,「適時参集して深夜に到る迄討論し,伊藤熹朔氏等豊富な体験からの注文は各照明・舞台・設備関係者の意見と相俟つて,皆非常によい勉強になつたと思はれる」*23。
俳優座劇場は最大収容人員427名の「新劇」のための劇場で,鉄筋コンクリート造地下1階,地上2階建て,そのファサードの意匠について山脇は次のように述べる。「商業劇場でなく,どこまでも俳優自身の実験劇場らしい性格を外観に持たせようとした」*24。この外観意匠を特徴づけている隅部のカーテンウォールは,三岸好太郎アトリエに現れていたものだが,論理的には鉄筋コンクリート造にふさわしいものである。この意味で,木造の三岸アトリエには構造と意匠の間に乖離があった。住宅の項で,三岸アトリエに代表される箱形の「白い家」が戦後は姿を消すことを指摘したが,住宅に代わってテアトル・セント(1950年)や俳優座劇場(1953年)の鉄筋コンクリート造建築として現れてきたことは,興味深い。
旅館・ホテル―住宅設計の外延
「政府登録国際観光旅館」,今やいささかノスタルジックなひびきのあるこの名称は,1949年施行の「国際観光ホテル整備法」に基づいて,一定の要件を満たした宿泊施設に掲げられたものである。この法律は「ホテルその他の外客宿泊施設について登録制度を実施するとともに,これらの施設の整備を図り,あわせて外客に対する登録ホテル等に関する情報の提供を促進する等の措置を講ずることにより,外客に対する接遇を充実し,もつて国際観光の振興に寄与すること」(総則第一条)を目的とするものだった。戦後,内外の観光客が増加,それは1964(昭和39)年の東京オリンピックを前にしてさらに上昇傾向をみせていた。しかし,多くの宿泊施設は旧態依然で,新しい意匠・機能が求められていた。こうした趨勢において,温泉地や観光地に新たに出現し始める鉄筋コンクリート造の大規模旅館が出現することになる。
一方,時を同じくして日本でもユースホステルが誕生する。ユースホステルは,20世紀初頭のドイツで開設が始まった青少年向けの宿泊できる施設だが,日本でも1951(昭和26)年に日本ユースホステル協会が発足し,民営ユースホステルの設置が始まる。この動きは1958(昭和33)年から運輸省(当時)の助成のもとに地方公共団体を主体とした公営ユースホステルの建設へとつながっていく。それは「青少年少女の旅に安全かつ安価な宿泊場所を提供」するという,それまでの日本にはなかった新しいビルディングタイプであることから,建築界からも注目されることになり,日本建築学会は1959年に「高原に建つユースホステル」を課題に設計競技を行う。その際の審査委員長が山脇だった*25。山脇の旅館・ホテルに関わる仕事は,こうした趨勢のなかにあったと考えてよいだろう。
わけても当時の山脇は,この分野の権威のひとりとみられていたふしがある。それというのは,1960(昭和35)年に刊行の始まる『観光設備シリーズ』(井上書院)の第5巻「建築設計」は山脇の監修・執筆になるのだが,その編者である国際観光設備協会(現公益社団法人国際観光施設協会)は1953(昭和28)年に任意団体として発足しているが,1957(昭和32年)の法人化にあたって,山脇は理事に就任しているのである。さらに1959(昭和34)年,1960(昭和35)年には,日本観光協会(現公益社団法人日本観光振興協会)の審議委員,専門委員を歴任しているのである*26。
この国際観光設備協会は,その目的として,ホテル・旅館など観光施設の整備・改善および観光地の活性化,ホテル・旅館への技術支援,観光交流空間全般の調査・研究を掲げ,観光事業に関わる製造業,流通業,設計・施工の関係者を会員とし,旅館,レストラン事業者からの相談に応じるとしている。前掲書の巻末には,同協会の関連企業と思しき「国際観光施設株式会社」の広告が掲載されており,業務内容として「旅館・ホテルの設計,施工,備品 新築並びに改装のご相談」とある【図8】。おそらく,往時の状況から推測すると,国際観光設備協会あるいは国際観光施設株式会社が,建築家との直接的な縁をもたない旅館・ホテル事業者を建築家や設計事務所に仲介することによって,特色のある新しい宿泊施設が生まれることになり,また建築家にとっても新たな業務開拓となったのではないか。
山脇の仕事も,こうした事情と無縁ではなかっただろう。前掲書では,事例の大部分が自身の設計になる川治温泉ホテル(栃木県川治温泉)【図9a-c】,ホテル白河(栃木県鬼怒川温泉,後述)からとられている。そこでテーマは伝統的宿泊施設である旅館の近代化であり,そのための手法が,構造上では鉄筋コンクリート化であり,意匠上では和風意匠のモダナイズであった。同書ではその事例が,門・塀,玄関,客室,グリル,浴場,厨房などの建築部位ごとに分割してあげられているが,こうした建築部位はすなわち住宅とも共通するものにほかならない。山脇はそこに戦前期以来の住宅設計で培われたモダン・リビングの手法を投入した。それは,住宅設計の外延だったといえるだろう。
キャンパス総合計画―堅実な実務の集大成
1960年代に入って,60歳代半ばの山脇は二つの大学キャンパス総合計画を手掛ける。
桐朋学園の計画【図10a】は,4年制大学開学(1961年)に合わせたもので,第1期が1961(昭和36)年に,第2期が1964(昭和39)年に完成している。当初の構想では,大学音楽学部の計画に加え,中・高部教室棟と体育館,野外ステージなどが含まれていた。大学校舎では音楽練習室やステージを備えた大講義室の室内音響特性を考慮して壁面が雁行しており,これが外壁にもあらわれ意匠上の大きな特徴となっている。中・高等部教室棟ではラーメン構造と2層分をつらぬく大きなブレーズの重なりが壁面全体の表情を生み出している。中高等部体育館は,折版構造により大空間を覆う計画【図10b】で,その折り紙細工のような意匠が興味深いものだが,これらは実現しなかったようである。
山脇は1949(昭和24)年4月に日本大学芸術学部教授に就任し,美術学科主任教授を務め,1968に定年退職となるが,その後も講師をして教鞭をとり1977年には名誉教授の称号を受けている。このかん。1962年には同学部代表教授選出,1963年には同学部図書館分館長任命,1965年には代表教員に再選されてもいる*27。日本大学芸術学部総合計画【図11a】は,こうした立場において1966(昭和41)年から1971(昭和46)年にかけて進められたものである。
全体計画は正門から学生ホールを結ぶ南北軸を広場として扱い,その両脇に学科棟を配置,それらが回廊やピロティにより関連づけられている。「大講義室」は中央の平土間の3面を階段席が囲む劇場のような形式で,その収容人数は1200名にのぼる。ほかに,500名収容の「中講義室兼実験劇場」,450名収容の「小講義室」などは,講義室という名称ながら,ともにステージを備えた劇場の形式をもつ。1971(昭和46)年の図書館棟(地下1階地上6階)竣工により,総合計画が完成した。【図11b】
現存作品と『オランダ新建築』(1934年)―むすびにかえて
竣工時に雑誌発表されている山脇作品のうち,2019(平成31)年3月時点で筆者が現存を確認した戦後作品が3件ある*28。すべて栃木県日光市におけるもので,川治温泉ホテル(現リブマックスリゾート川治,1958年,川治温泉),ホテル白河独立湯(現ほてる白河湯の蔵,1958年,鬼怒川温泉),藤原町役場庁舎(日光市藤原支所,1960年)である。川治温泉ホテルは改変されているがホテルとして存続。ホテル白河独立湯は,現在は使用されていないもののたたずまいは保たれている。藤原町役場は2006年の日光市編入後も支所庁舎として使用されてきたため改変・増築が著しく,残念ながら往時をしのぶことは困難。新支所庁舎の建設にともない閉鎖され,近く取り壊し予定である。
このうち,ホテル白河独立湯と藤原町役場庁舎は,山脇の戦前期の著作『オランダ新建築』を参照するとき興味深いので,最後に紹介しておきたい。
山脇は,1932年10月に帰国の途につく前にイギリスとオランダに小旅行を企てた。バウハウス教師の建築家ルートヴィヒ・ヒルバーザイマーの紹介状をもってロッテルダム市建築課にJ.J.P.アウトを訪ね,このときアムステルダム,ヒルフェルスムほかを巡ってオランダの新しい建築を見て回る。『オランダ新建築』(洪洋社,1934年)は,この短い旅の見聞をまとめた20ページほどの冊子である。【図12】
山脇はこの旅行の意図を「新しいオランダ建築を見直し」(同書p.3)と述べている*29。ここで彼が「新しい」に対置させて念頭に置いているのは,おそらく同書の10年前に堀口捨己(1895年~1984年)が『現代オランダ建築』(岩波書店,1924年)で紹介した,レンガと茅葺きによる独特の意匠のアムステルダム派の建築群であろう。これらに対して山脇が注目するのが,明快な架構と大胆なガラス・カーテンウォールを採り入れた,いわゆるロッテルダム派,今日ではダッチ・モダニズムと称される建築群である。
中央の一本柱から伸びる十字型のキャンチレバーが2つ連結されたホテル白河独立湯【図13a-e】の架構には,オープンエア・スクール(1930年,J.ダウカー設計)の,全面的なガラス・カーテンウォールによる藤原(ふじはら)町役場庁舎【図14a-e】の透明性には,ファン・ネレ工場(1931年,J.ブリンクマン設計*30のエコーをみることができる。1960(昭和35)年,鬼怒川温泉のこの二つの建物の設計中の山脇には,30年前のオランダで見た光景が甦っていたのではなかったか。
しかし山脇は,これらの作品の前にも後にもダッチ・モダニズムの様式に固執することはなかった。むしろ,この系譜に連なるのは戦前ならば帰国直後の住宅作品,戦後ではシアター・セント,俳優座劇場,そして前述の2件のみで,むしろ例外ともいえる。
あるいはこの様式が一貫されていれば,その後の山脇評価は違ってきたかもしれない。20世紀後半の建築史や建築評論は,建築家の個性とその表現を評価する方向に向かうからである。しかし,山脇は建築の様式において個性の確立を目指すタイプの建築家ではなかった。誤解を恐れずに言うならば,ヴァルター・グロピウス(1883~1969年)がそうであったように。
1959年,『建築と社会』のアンケートで作家としての転機とこれからの方向を尋ねられ,山脇は次のように答えている。
別に難かしい動機はなにもありません。ただ考えたものを紙の上で計画しては実際に作りたいだけです。「バウハウス・デッサウ」へ出かけたのも,このままではいけないと考えただけ(中略)これからの建築の方向などあまり力んで考えるとかえって類型的な形式を生みます。成長していく自分の考えと進んでいく社会生活に歩調をそろえて日本人として正直にまとめるだけです」*31
謝辞
鬼怒川温泉における山脇巖作品の調査について,日光市藤原行政センター地域振興・防災係長・細井正史氏,ほてる白河湯の蔵代表取締役・荒川達哉氏にご高配と貴重なご教示をいただきました。記して謝意を表します。
*1:三岸好太郎アトリエに対する注目については,次を参照。北海道三岸好太郎美術館特別展示「バウハウスへの想い―デザインからアトリエまで」(1990年6月)。「時代を越えた住まい1930~1960年代第2回三岸好太郎アトリエ」『住宅建築』第252号(1996年3月)。
*2:神代雄一郎「新建築40年の再評価」『新建築』第39巻第6号(1964年6月:創刊40周年記念特集号),p.158
*3:山脇巖『欅―続』井上書院,1973年,p.105。復刻版『叢書・近代日本のデザイン 昭和篇』第49巻,2012年,ゆまに書房。
*4:「履歴書」(日光市藤原支所蔵)記載内容から1959年頃のものと思われる,「経歴書(杣田佳穂氏提供)1969年頃のものと思われる。「山脇巖経歴書」,小澤智子「山脇巖と造型美術学園」『武蔵野美術大学を造った人びと』武蔵野美術大学出版局,2014年,所収。
*5:山脇『欅―続』,p.105
*6:山脇のこうした仕事については,次の研究に詳しい。川畑直道「写真壁画の時代―パリ万国博とニューヨーク万国博国際館日本部を中心に」,五十殿利治(編)『「帝国」と美術―一九三〇年代日本の対外美術戦略』国書刊行会,2010年。山本佐恵『戦時下の万博と「日本」の表象 』森話社,2012年。江口みなみ「1930年代を中心とする日本美術の〈展示デザイン〉に関する研究」筑波大学博士学位論文,2013年。
*7:山脇道子『バウハウスと茶の湯』1995年,新潮社,p.115
*8:注4「経歴書」
*9:施主である江口隆哉(1900~77年)と妻の宮操子(1909~2009年)は1933年にマリー・ウィグマン舞踊学校でノイエ・タンツを学び1934年に帰国。日本におけるモダンダンスの先駆者とされる。
*10:市浦健「一九三四年展望」『国際建築』第10巻第12号(1934年12月))p.475
*11:「状況Ⅱ―1935-1945―〈白い〉家と日本的なるもの」『昭和住宅史』1977年,新建築社,p.78。石田潤一郎「日本のモダン・ムーブメント―〈白い家〉が見い出されるとき」『新建築』第56巻第14号(1981年12月臨時増刊)。
*12:三岸好太郎アトリエに関しては次の論考がある。苫名直子「バウハウスと三岸好太郎―機械美に魅せられたロマンティスト」『バウハウスへの想い―デザインからアトリエまで』北海道三岸好太郎美術館,1990年。片山和俊「訪問記」『住宅建築』第252号(1996年3月)。速水豊「三岸好太郎の芸術思想―前衛画家の弁証法」『兵庫県立美術館研究紀要』第6号(2012年3月),岡山理香「東京物語―三岸好太郎」『建築東京』2017年1月,東京建築士会。
*13:田中良『舞台美術』1944年,西川書店,p.72
*14:同前,p.71
*15:滝沢恭司「〈美術〉の進出―人形座にみる大正期新興美術運動の様態」『立命館言語文化研究』第22巻第3号(2011年1月)
*16:口絵『建築新潮』第8年第7号(1927年7月)
*17:藤田巖,『建築新潮』第8年第6号(1927年6月)
*18:五十殿利治『大正期新興美術運動の研究』1998年, スカイドア,pp.707-759
*19:同前,pp.730-731
*20:同前
*21:山脇道子『バウハウスと茶の湯』1995年,新潮社,pp.26-30
*22:山脇「舞台と観客との生活的なつながりを」『国際建築』第21巻第4号(1954年4月),p.48
*23:山脇「完成に当って」『近代建築』第8巻第7号(1954年7月)p.8
*24:同前
*25:このときの審査委員中の建築家は,山脇のほかに村田政真(1906-1987年),吉阪隆正(1917-1980年),芦原義信(1918-2003年)であった。
*26:前掲,山脇「経歴書」
*27:山脇の教育活動については,小澤「山脇巖と造型美術学園」『武蔵野美術大学を造った人びと』(前掲)のほか,次の資料参照。『日本大学芸術学部五十年史』1972年,日本大学芸術学部。「戦後美術教育の再建―帝国美術学校から武蔵野美術大学へ」『武蔵野美術大学六〇年史―1929-1990』1990年,武蔵野美術大学,pp.60-85。
*28:小澤「山脇巖と造型美術学園」『武蔵野美術大学を造った人びと』(前掲)は,著者による関係者へのヒアリング(2012年4月)にもとづいて「日本大学江古田校舎の一部保存を除き,現存する山脇が手掛けた建築作品・展示等はないとされる」としている。筆者としては,本文にあげた3作品以外にも残存しているものがあると考えるが,竣工当初の状態からは大きく変化しているとの感触を得ている(一例として葛飾区柴又の川魚料理「川千家」)。
*29:この旅行について道子は「短い旅行で,しかも巖が建築を見るのが主な目的だったので,あまり記憶に残っていません・・・」と述べている(山脇道子『バウハウスと茶の湯』1995年,新潮社,p.116)
*30:山脇は『オランダ新建築』において,設計者について「ロッテルダムの生んだ新進のブリンクマン,フアン・デル・フルークトの二人」(同書p.3)としているが,レイナー・バナム(石原達二,増成隆士訳)『第一機械時代の理論とデザイン』(鹿島出版会,1976年)〔Reyner Banham, Theory and Design in the First Machine Age, The MIT Press, 1960〕の出版以降,後にバウハウスの第三代校長となるマルト・スタムの関与が指摘されてきたことが知られている。矢代眞己はファン・ネレ工場の設計過程と設計者について詳細に検討した結果,「設計を委託されたのはファン・デル・フルフト=ブリンクマン設計事務所であるが,担当者としてスタムの名を,構造設計指導としてヴィーベンハの名を,それぞれ共同者として明記すべき」としている。矢代眞己『建築家マルト・スタムの事績と建築理念に関する研究―近代ヨーロッパ建築史上の評価』日本大学博士学位論文,1996年,pp.86-101。
*31:「アンケート」『建築と社会』第40輯第4号(1959年4月),p.35