著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

加古川市立加古川図書館について

「加古川市立加古川図書館の保存活用に関する要望書」に付す見解書(案)として執筆
------------------------------------------------
要望書(加古川市長宛,2015年07月15日付)
「加古川市立加古川図書館の保存活用に関する要望書」
一般社団法人日本建築学会近畿支部 支部長 門内輝行
「加古川市立加古川図書館についての見解」
一般社団法人日本建築学会近畿支部 近代建築部会 主査 笠原一人
https://www.aij.or.jp/scripts/request/document/20150717-1_kinki.pdf
------------------------------------------------


加古川市立加古川図書館について

 加古川市立加古川図書館の施設は,1935(昭和5)年10月に当時の加古郡加古川町公会堂として加古川市加古川町木村に建設され,1972(昭和47)年まで公会堂として利用された。1973年(昭和48)年からは加古川市立図書館に転用され,2006年(平成18)に加古川市立中央図書館が新在家に開設されて以降も市立図書館4館のうちのひとつ加古川図書館として継続活用され,現在に至る。
 このように本建物は施設としての変遷があるため,現在の加古川図書館について
述べるためには,当初の加古川町公会堂に言及する必要がある。そこで以下では,
まず建設当初の公会堂について述べ,ついで図書館転用に際しての施設内容の異同
に触れた後,今日における加古川図書館としての建築史学上の価値と存在意義を述
べることとする。

加古川市立加古川図書館

1)建築の概要

1-1)公会堂建設の背景

 旧加古郡加古川町は東播平野の中枢に位置する交通の要衝であると同時に,官庁・公署が集中する同郡の中心地域であった。とくに1899年(明治32)の日本毛織加古川工場操業開始以降,商工都市として長足の発展をみた。同町の集会施設としては,1922年(大正11)に加古郡より無償提供された郡公会堂があったが,1927年(昭和2)春に焼失。新たな施設が求められたものの,当時の同町は都市化にともなう基盤整備が急務で公会堂新築に着手できず,元小学校講堂を仮施設とした利用が続いた。しかし,1932年(昭和7)に至って,同町のみならず周辺地域からの集会需要も増す一方で,施設の狭隘と腐朽いよいよ耐えがたく,ついに同町は積立金と起債を充てて新公会堂の建設を決めた。
 この頃の同町の発展ぶりを,『大阪朝日新聞神戸版』(1933年1月1日付)は,次のように伝えている。「東播第一の商工業の中心加古川町では昭和八年を迎へて今年着工の施設事業多数を計画して,一大飛躍をなさんとしてゐる,即ち今春より約七万円の予算をもつて工事に着手する公会堂をトツプとして農業倉庫の設立,上下水道の完成,道路の改修,庶民病院誘致問題,五月ごろ県主催の〈工産品展覧会〉を同町で開催すべく(中略)加古川町の計画事業は尨大である。(中略)なほ夏には加古川堤防で花火大会やさきに商工会の斡旋で作った新民謡加古川節の披露を兼ねた盆おどりを大大的に開催して,外来客を集める計画を目論むなど昭和八年の加古川の飛躍は物凄い勢ひである」。
 加古川町公会堂は,まさに同町近代化の先陣を切る象徴的建物として誕生したと言えよう。

1-2)設計者・置塩章と施工者・前川俵次

 新公会堂の設計は建築家・置塩章(おしお・あきら,1881-1968年)による。置塩は,1910年(明治43)年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業した。同期生に,東京タワーをはじめ多くの高塔を設計した内藤多仲,大阪瓦斯ビルヂングの設計者・安井武雄,逓信省営繕課で各地の電信局庁舎を設計した和田信夫らがいる。卒業後は,陸軍省技師を経て1920年(大正9)に兵庫県庁に入り,営繕課長などを歴任するなかで県会議事堂をはじめ県内多くの公共建築を設計した。1928年(昭和3)に兵庫県技師を退官した後は神戸市栄町通りに置塩建築事務所を開設,活動の場を全国に広げて旺盛な設計活動を行った。旧加古川町公会堂は,この時期の作品のひとつである。ほかの現存作品に,旧茨城県庁舎(1930年,現・茨城県三の丸庁舎),旧国立生糸検査所(1932年,現・デザイン・クリエイティブセンター神戸),宮崎県庁舎(1932年)などがある。
 施工者は前川俵次が加古川を本拠に明治末期に創業した前川組(現・前川建設株式会社)である。同組は,河川改修,浚渫,築堤,鉄道など土木系工事の請負から出発し,昭和初期に近代建築施工へと事業を拡大し今日に至る。同組の加古川町公会堂の施工担当は,コンクリート建築物がいまだ少なかったこの地域において,それまでの実績を背景に総合建設業に飛躍を図ったこの地元企業にとって,記念的事業であったと思われる。

1-3)公会堂の施設内容

 立地である加古川町木村は山陽本線加古川駅の南西に位置し,国道2号(旧山陽道)をはさんで日本毛織加古川工場に隣接する。公会堂北側に隣接する寺家町には加古郡役所,加古川町役場が,南側には第一小学校(現・加古川小学校)があり,寺家町を東西に貫く商店街は大いに栄えたという。当時のこの地域は加古川町の行政および商業の中心であった。
 公会堂は,正面を南東に向けて建つ。置塩建築事務所による「加古川公会堂新築工事設計図」に基づくと,施設内容の概要は次のとおりである。鉄筋コンクリート造2階建・小屋組(屋根)は鉄骨トラス造。建築面積は1階約587㎡,2階約569㎡,塔屋約7㎡,合計約1163㎡である。平面は当時の公会堂建築の典型を示している。すなわち,1階に複数の集会室,2階に大会堂を置き,1階ではその前後に車寄せをもつエントランスとホール,裏玄関と「小使い室」などのサービス空間を配する。2階では,表側に喫煙室および広間,裏側に舞台と控え室などを配する。1階の集会室の半分は,裏玄関からアプローチする内玄関と次の間を備えた48畳敷の「宴会場」であった。大会堂は約700名収容で,装飾的なプロセニアム・アーチ(額縁)をもつ間口10mの舞台と映写室を備えていた。
 意匠面では,施設の顔とも言える主要立面中央にステンドグラスを入れた大アーチと塔を配し,玄関周りにのみスクラッチ・タイル(表面に針で引っ掻いたような模様を付けたタイル)を貼り,その周辺はモルタル塗りに石造を模した仕上げを施している。この主要立面に比して,他の立面は極めて簡素である。正面をはじめ,全体の軒,内部の柱頭飾り,門柱にはゴシック建築由来の要素を幾何学的に単純化した装飾が付されており,そのエッジを効かせた造形が建物に明瞭な陰影をもたらしている。

加古川市立加古川図書館

加古川市立加古川図書館

1-4)図書館転用に際しての改変と現況

 公会堂の図書館転用のための改築工事は1973年(昭和48)10月着工,翌1974年(昭和49)5月完了。翌6月に新図書館として開館した。改築によって,1階の「宴会場」と集会室は間仕切りと天井が新設され,開架室,一般閲覧室,学習室,書庫等が設けられた。2階の大会堂では,舞台とプロセニアムはすっかり取り払われ,児童閲覧室,事務室,会議室,館長室,倉庫となった。
 転用は大きな機能転換であるため,改築によって内部の大部分は公会堂時代の面影を留めていない。しかし,1階の「玄関」,「広間」および2階に続く階段は往時の様相がそのまま残す。さらに大アーチのステンドグラスの内側にあたる2階の「喫煙室」「広間」は,現状ではそのまま新聞閲覧室および児童閲覧室前のホールとして使われている。これらは,来館者が自由に出入りできる範囲にあり,本図書館の大きな魅力となっている。2階大会堂の舞台は取り払われたものの,言わば舞台裏部分には公会堂時代の様相を伝える箇所がある。ただし,これらは倉庫や職員通路等の管理機能として用いられ,一般の眼に触れる部分ではない。
 本図書館敷地と隣地公園を囲み大木に成長したクスノキが,本建物のたたずまいをいっそう魅力的なものにしていることも付記したい。

加古川市立加古川図書館2階ホール

2)建築史学上の価値

 日本建築学会は2007年(平成19)年に「建造物の評価と保存のガイドライン」を提案した。そこでは建造物に込められている基本的な価値として,①歴史的価値,②文化・芸術的価値,③技術的価値,④景観・環境的価値,⑤社会的価値の5つが示された。これをふまえて,加古川市立加古川図書館を以下のように評価するものである。

2-1)意匠的価値(歴史的価値,文化・芸術的価値)

 加古川図書館の意匠的価値は,なによりまず正面立面によって担保されていると言える。1階の玄関,2階開口部の大アーチ,その上に伸びる塔を中央に大きなボリュームで配し,この両側に「事務室」「携帯品預場」「側玄関」「便所」「階段室」などの諸室を小さなボリュームで左右対称に置く。そのうえで,装飾要素を,中央には集中的に左右には適宜配する。この装飾要素はゴシック建築出自であることが窺えるものの幾何学的に単純化されており,そのエッジを効かせた形状が,大小ボリュームの構成と相まって,正面立面に充実感と緊張感をもたらせている。同様の装飾要素は,前面道路際に立つ門柱や玄関ホールの柱頭飾りにも繰り返されている。
 こうした意匠上の特徴は,同時に,予算の制約から導かれたという側面もあったと推測される。公会堂建設資金は,総額7万円のうち6万円を起債で賄う必要があった。「昭和七年加古川町会議事録」中の「町公会堂再建の起債理由書」には「之ガ建設ハ,単ニ本町ノ文化施設トシテ外観ノ美ヲ誇ラントスルモニ非ズ」とある。起債理由の説明であるから当然としても,町議会としては建設自体が最優先で外観にまで意を払う余裕がなかったことが窺える。予算は如何ともし難いとはいえ,市民の期待に応える必要もある。官庁営繕部門の経験豊富な設計者・置塩章はこうした状況をよく理解していたであろう。本来ならば石材やテラコッタ(素焼きタイル)を用いたいところをモルタルや人造石に代え,その加工上の制約を逆手にとって思い切った単純化を施すという置塩の設計手腕であった。
 過去の建築様式を幾何学的に単純化して翻案することで新味を醸し出す方法は,1930年前後に世界的に流行をみるアール・デコ建築の特徴であり,置塩作品の特徴でもある。建築史家の石田潤一郎氏は,この点を設計者・置塩章の特質として次のように指摘しておられる。「彼はネオ・ゴシック様式を好んだが,スクラッチ・タイルを貼った壁面,アール・デコの影響をうかがわせる細部装飾といった要素はこの時期の市街地建築と共通しており,なにより〈街によりそう優しさを共有する〉」(石田潤一郎『関西の近代建築』中央公論美術出版,1996年,p.81)。
 こうした意匠上の特徴によって,本建築は,親しみのあるスケールのなかに公的施設としての格式や威厳と町の近代化を表現する新味とが調和した,新公会堂にふさわしい意匠となった。その価値は,同じ社会教育施設として図書館転用後も,知識情報を蓄積し市民に提供するフロントとしてふさわしいものと言えよう。さらに,とくに正面の装飾は全体的に欠けや崩落もなくよい状態が保たれており,これまで適切に保守管理されてきたことが窺われる。管理者に敬意を表したい。

2-2)近代化遺産としての価値(社会的価値,景観・環境的価値)

 加古川町の近代化と公会堂建設との関係については「1-1.公会堂建設の背景」において述べた。本項ではそれに続く時代,すなわち戦後の加古川市の文化施設拡充を背景にした加古川市立図書館の発展を述べ,加古川図書館の存在が,当地の近代化遺産として,戦前の加古川町公会堂の社会的価値を継承しながら高い価値を有することを述べたい。
 加古川市では1971年4月に図書館設置管理条例を制定し,市立公民館内に設置されていた図書「室」を廃して図書「館」とした。しかし,施設形態が公民館内の一室であることに変わりなく,独立した図書館の開設が俟たれた。一方,1973年(昭和48)に加古川町北在家に大・小二つのホールを備えた市民会館が誕生し,公会堂機能が移管された。これにより公会堂の図書館転用が可能となり,1974年(昭和49)6月の加古川市立図書館会館に至る。
 加古川市の図書館行政は,戦後の市制施行直前の加古川町公民館図書室開設に始まるが,大きな飛躍は1971年4月に図書館設置管理条例の制定以降,新図書館の開館をはさむ1970年代前半期である。この時期に,貸し出し方法「ニューアーク方式」(連合国軍総司令部民間情報教育局図書館採用で日本に普及)の採用,「ブラウン方式」(練馬区立練馬図書館が1964年に初めて導入)への変更,図書館協議会の発足,シンボルマーク制定,自動車移動図書館の運用など,制度の整備・運用が進んだ。またこの時期には,地元加古川寺家町出身の高名な演劇評論家・三宅周太郎(1892-1967年)や加古川別府町に本社を置く多木化学株式会社の文化振興会からの受贈により特色ある収蔵資料が拡充された。
 以上のように,公会堂から図書館へという施設変遷は,加古川の近代化とともにあり,その建物は,1930年代と1970年代における文化行政発展の二つのピークを,同じ一つの建物として象徴するものである。


 本建物が公会堂として利用された期間が約40年,そして図書館となってすでに40年が経過した。開館間もない図書館を小学生として見上げた子どもたちも,今や壮年から中年である。さらに若い世代にとっては,この建物は初めから図書館であった。このかんに当地の環境も変化した。近代建築に限っても,日本毛織加古川工場のレンガ工場群(1899年~),加古川日本毛織社宅群(1899年~),旧JR加古川駅舎(1910年),旧加古川町役場(1923年)の一部あるいは全部が失われていった。こうした状況にあって,加古川市立加古川図書館は,加古川の近代化に貢献し,その過程を物語る近代化遺産として高い社会的価値を有するものとしてまことに貴重である。