著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

甲子園ホテルと国際ホテル

阪神間モダニズム展実行委員会(編)『阪神間モダニズム―六甲山麓に花開いた文化,明治末期-昭和15年』1997年,淡交社,p.100

 【コラム】甲子園ホテルと国際ホテル


この二つのホテルは対照的である。外見も規模もロケーションも,そしてその後の運命も。甲子園ホテル(昭和五年,西宮市,設計H 遠藤新)は,阪神電鉄の主導で計画が進められ,当時帝国ホテルあいさくの支配人であった林愛作を迎えて建設・運営計画がまとめられた。設計は,帝国ホテルの設計者フランク・ロイド・ライトの弟子の遠藤新。帝国ホテルと類似の材料と表現を用いてまとめられている。棟瓦には滴を模した装飾が付き,この滴が屋根を伝い落ちるさまが,庇を支える腕や,窓の装飾ガラス,バンケットホールの天井装飾などに繰り返し形象化される。武庫川沿いのなだらかにくだる広大な敷地に建ち,南には大きな池を隔ててゴルフコースとテニスコートがつづいていたという。全体に豊餓な装飾に満ちて平原に建つ甲子園ホテルとは対照的に,国際ホテル(昭和十二年,芦屋市,設計H 竹中工務店,現存せず)は芦屋六麓荘の傾斜地中腹に建ち,塔屋や入り口の取り方にみられる非対称性,柱の外側で廻す横長窓など,小規模ながらインターナショナル・スタイルに典型的な表現が採用されている。こうした典型的な事例は,日本ではむしろ少数派なだけに注目されてよい。この両者ともにホテルとして使われた期間は長くない。甲子園ホテルは戦中・戦後には接収され海軍病院や将校クラブなど用途を転々と変え,昭和四十年に武庫川学院に払い下げられて後,復元工事によって元の姿を取り戻した。一方,国際ホテルの建物も戦後進駐軍に接収され,解除後は学校法人芦屋学園の所有となり校舎として使われていたが,阪神大震災後取り壊された。(梅宮)


甲子園ホテル
昭和5 年 西宮市 設計=遠藤新
北側から東翼を見る。塔は低く広がる静かな対称性を強調しつつ,その静かさを破ってー種の強さを与えている。


国際ホテル
昭和12年 芦屋市 設計=竹中工務店 (撮影:山本徹男)
最上階南側は増築されているが,竣工時の雰囲気をとどめていた。