著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

甲子園球場

阪神間モダニズム展実行委員会(編)『阪神間モダニズム―六甲山麓に花開いた文化,明治末期-昭和15年』1997年,淡交社,p.99

【コラム】甲子園球場


甲子園といえば,まず球場名であり,そして地名でもあるが,何よりも高校野球の代名詞である。したがって,甲子園の主たる空間は中央の空洞にほかならない。甲子園といえば,全面を覆うッタが思い浮かぶが,その下がどのようになっているのか印象がない。これほど,建築物としての甲子園球場は希薄な存在なのであ甲子る。園球場は,阪神電鉄によって大正13年に西宮市の南部,武庫川支流の廃川敷に建設された。すでに阪神は,阪急豊中球場でおこなわれていた全国中等学校優勝野球大会を自社運営の鳴尾運動場に誘致することに成功していた。さらに盛り上がりをみせる野球大会のために,本格的球場の建設が急がれた。同社が収集しつつあったアメリカのポロ・グラウンドや建設途上のヤンキース・スタジアムの資料を参考に設計がまとめられた。同年8月の野球大会開催はすでに決定していたから,着工から4カ月半の突貫工事だったという。そのために開場後も内外に未仕上げ部分が残った。外壁の打ち放しもそのためだった。これにツタを這わせるという方針は完成直後に決まったようで,造園業者により施工された。このツタは昭和に入る頃には,建物のかなりを覆うまでになっていたという。建設当時の球場周辺は人家もまばらだったが,現在では住宅地のなかにむしろ埋没している。一方,甲子園野球は新聞,ラジオ,テレビといったメディアによって拡散している。都市とメディアの近代化のなかで,建築としての甲子園球場はますます希薄になっているように思われる。

建築中の甲子園球場
大正3年 西宮市設 計=阪神電鉄,大林組(写真:阪神電鉄提供)
木製足場や牛馬の使用に時代が偲ばれる。阪神電車の窓からは日ことに建ち上がっていくメインスタンドの威容がよく見え,車内の話題をさらったという。