初出:日本建築協会(編)『日本建築協会80年史』日本建築家協会,p.125
発行日:1999年3月
WEB掲載に際して加筆修正,図版追加
東京で生まれた古宇田が関西にやってきたのは大正11(1922)年,新設直後の神戸高等工業学校教授としてだった。このとき43歳。すでに東京美術学校教授として,建築装飾のオーソリティとして一家をなしてからのことである。
来神の事情については,こんなエピソードが伝えられている。大正8(1919)年から足掛け3年に渡る洋行で古宇田が日本を留守にしている間,二つの新設建築科が古宇田の教授獲得に動いていた。京都帝国大学と,1年遅れて設立された神戸高工である。京都の方では,外遊中の古宇田に連絡をとりたくても居場所がわからない。そうこうしているうちに,神戸に決まってしまったというのである。昭和4(1929)年には第二代校長に就任。日本建築協会副会長に推されたのもこの頃である。以来昭和20(1945)年の退官まで,神戸高工の発展を先導,新制神戸大学工学部への橋渡しに尽くした。
古宇田校長をめぐる逸話には事欠かない。中でも多いのが,洒落たいでたちと脱線授業である。ある時はキャメルのマントに赤いリボン,またある時は黒上着に縞ズボン,式典には礼服にサーベルを下げて現れ,学生は腰を抜かしたという。建築史の授業では,さすがにフレッチャー建築史のプレートを使うのだが,年度の終わりでやっとルネサンスの初めといった具合。遅れているので本筋を急ぐといって始まった授業も,いつのまにかイタリアの横丁をうろうろ。脱線の内容も,外国での見聞から食事や骨董品鑑賞のマナーまで多種多様。建築を歴史文化として広く語ろうとしたのだろう。
こういう様相は,昭和10年代後半になると,微妙なニュアンスを帯びてくる。たとえば古宇田が提唱して学校に祀ることになった「高工三社」という神社。その御霊移式に古宇田は神官の正装をまとったという。一方で,国民服を勧め,自らもそれで教壇に立った。またこの頃,しばしば「大楠光精神」とい表現を用いたという。尊皇攘夷思想を現す言葉である。時局柄というのも,もちろんあろう。しかし,単純な迎合だったとも思えない。洋行帰りのハイカラ紳士,正装の神官,そして国民服の校長。これらに,古宇田なりの一貫性を読み取ることもできるのではないか。そしてその源は,古宇田の青春期の建築思潮に求められるように思われる。
古宇田が美術学校の若き教授として活動を始める明治末の日本の建築界における一大関心事は,議院建築計画に端を発する「我が国将来の建築様式」であった。西洋建築の学習時代に終わりを告げ,日本独自の様式創造がまたれていたのである。
この頃,東京帝大建築学科の卒業生グループ「和敬会」が,議院建築をめぐって活発に議論していた。伊東忠太,長野宇平治,塚本靖,大沢三之助,関野貞,古宇田,佐野利器,田辺淳吉,大江新太郎,岡田信一郎らである。この顔ぶれは,まさに前述のテーマで行われた建築学会の討論会における対立する見解双方の発表者たちであり,大阪市公会堂コンペへの参加者たちである。彼らは,それぞれに自分の主張を,後のコンペや実作において具体化しようとした。様式論争における古宇田の主張は新様式創造であったが,大阪市公会堂コンペでの落選古宇田案は,西洋風全体構成の細部を日本の木組意匠で満たそうというものであった。この方向性が具体化されたのが,古宇田の数少ない実作「神戸商工会議所」と「神戸松竹座」である。
こうした独特の作品を前に,古宇田が関西に来ていなかったならと,考えずにおれない。美術学校時代の同僚森井健介は追悼文で,古宇田の神戸高工行きは世間的には栄転だが「美術建築家としての前途をつぶ」すことになり「同情に堪えない」と述べている。高工の校長ともなれば,建築科だけの面倒をみているわけにもいかない。事実,文部省からの予算獲得の手腕もなかなかのものっだったようだ。なまじ実務能力に長けていたことが災いしたというべきか。
この間,関西生活は20年あまり。戦後は鎌倉に住み,当地の文化財保護行政に尽力する一方,梵鐘のデザインなどを楽しんだという。確認されてる古宇田の建築作品は,すべて失われた。今はささやかな小品から,様式論争時代に青春を過ごした明治人の気概を偲ぶのみである。(梅宮弘光)
略歴
1879年1月13日 東京に生まれる
1902年 東京帝国大学工科建築学科卒業。築庭学研究のため同大学院入学。
1905年 東京美術学校教授就任
1912年 大阪市公会堂(現・中之島公会堂)指名設計競技参加
1919年 インド,英国,フランス,イタリア,アメリカ留学。
1922年 帰朝。神戸高等工業学校教授兼任
1929年 神戸高等工業学校校長就任
1930年 日本建築協会副会長就任
1945年 神戸高等工業学校退官。叙勲一等瑞宝章
1950年 杉野学園女子短期大学学長就任
1952年 東京都立大学講師。文化財専門審議会専門委員就任。
1965年 逝去。享年86歳
参考文献
公会堂建設事務所(編)『大阪市公会堂新築設計指名懸賞競技応募図案』公会堂建設事務所,1913年
古宇田實「満十五年記念建築通俗大講演会速記録 開会の辞」『建築と社会』第16輯第1号,1933年1月
「エヂソン記念碑建設々計図案懸賞募集の件」『日本電気協会会報』第141号,1933年9月
「エヂソン記念碑建設地鎮祭」『日本電気協会会報』第143号,1933年11月
森井健介「古宇田さんを偲ぶ」『建築雑誌』第80輯第954号,1965年5月
古宇田温「晩年の父について」『KTCクラブニュース』第18号,神戸大学KTCクラブ,1966年7月
森井健介『師と友ー建築をめぐる人びと』鹿島研究所出版会,1967年
神戸大学工学部創立五〇周年記念事業会(編)『神戸大学工学部五〇年史』財界評論新社,1971年
日本建築学会(編)『近代日本建築学発達史』丸善,1972年
高杉造酒太郎『建築人国雑記』日刊建設工業新聞社事業局,1973年
足立裕司「〈所謂日本趣味〉の一系譜に関する考察」『日本建築学会大会学術梗概集F』1986年8月
足立裕司「大阪市公会堂設計競技にみる〈我国将来の建築〉の構図」『日本建築学会大会学術梗概集F』1993年9月
石田潤一郎『関西の近代建築』中央公論美術出版,1996年
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これまで古宇田實の作品として石清水八幡宮社内「エヂソン記念碑」(京都府八幡市)があげられてきたが,資料調査の結果,同碑の設計は山田正の原案に基づき武田五一が設計したものであることがわかった。同碑については,1933年に計画案懸賞募集が行われ,山田正案が1等当選した。なお,このときの審査委員として古宇田も,武田,安井武雄,本野精吾らとともに名を連ねている。この調査については,社団法人日本電気協会ならびに同協会角崇宇氏,エジソン彰徳会に多大なご援助を賜った。記して謝意を表します。