著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

神戸市立 御影公会堂

所収:兵庫県教育委員会事務局文化財室(編)『兵庫県の近代化遺産―兵庫県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書』2006年3月 p.220


※WEB掲載に際して図版を追加した。


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神戸市立 御影公会堂
分野:その他公共施設
所在地:神戸市東灘区御影石町4-4-1
設計者/施工者:清水栄二/大林組
構造:RC・階数3~B1
竣工年:昭和8(1933)年5月20日


 旧武庫郡御影町の公会堂として建設され,同町が神戸市に編入された1950年以降,市立公会堂として現在に至る。当時24万円の建設資金のじつに95パーセントが,青銅器コレクションによって白鶴美術館を創設したことでも知られる白鶴酒造の七代目,嘉納治兵衛(鶴翁)の出資になる。近代の阪神間において地元酒造家による文化パトロネージの例は多いが,その代表と言える。

神戸市立 御影公会堂

 敷地は神間の幹線道路である国道2号線と小幅の都市河川・石屋川が直行する角地に位置する。施設は,玄関,ロビー,集会室群からなる南側部分,舞台とフライタワーからなる北側部分,それらに挟まれるように中央の550名収容の大ホール客席からなる。また地階には設備関係の機械室や倉庫のほか,公衆食堂と厨房,囲碁・将棋室や球技室といった娯楽室が置かれていた。ファサードは南側で,左右対称を基調としながら南西隅部のみが湾曲しており,この曲線に導かれるように川に面した西側立面へと連続していく。西側では前述の3部構成が外観にも反映して,南側のファサードとは異なる趣をもつ。南西隅の屋上には,外壁の湾曲と呼応するように円形のテラスが置かれており,外観の重要なアクセントとなっている。外壁は淡褐色のスクラッチ・タイルで覆われ,出の深いコンクリート庇や,窓周りの分厚い縁取りが陰影のある立面を生み出している。

神戸市立 御影公会堂

 設計者の清水栄二(1895-1964年)は武庫郡六甲村の出身,大正7(1918)年に東京帝国大学建築学科卒業,神戸に戻り発足間もない市役所営繕課に初の大卒技術者として入り,ほどなく営繕課長。多くの鉄筋コンクリート造校舎を手掛けるも大正15(1926)年に辞職,以後神戸で設計事務所を営んだ。彼の学生時代は日本におけるドイツ表現主義の流行期で,その影響は清水にも色濃い。たとえばドイツ表現主義の建築家E.メンデルゾーンの1920年代初期の作品に通じるところがある。また仮に,淡褐色のタイルをシャーベーット・トーンの塗装に置き換えたイメージを想像してみるなら,1930~40年代のマイアミ・アール・デコにも近い。さらに,川に面する西側立面は客船のデッキを模しており,1930年前後の流行も採り入れられている。

神戸市立 御影公会堂

 いずれにせよ,そこには日本の近代建築が西洋の新傾向にそのつど想を仰ぎながら様式主義から脱していく過程が見て取れる。それは,清水栄二という個性によりアレンジされ,独特でしかも濃い意匠の混淆として現存する,今や全国でも希有な例であろう。
 昭和20(1945)年夏の空襲により窓ガラスは割れ火災で天井が焼け落ちたが,焼け野原に矩躰は残った。その様子は野坂昭如『火垂るの墓』にも描かれている。戦後は,堂長が司る簡素にして厳粛かつ安価な結婚式場としても賑わい,2万組を超える門出を祝した。平成7(1995)年冬,阪神淡路大震災に耐え,避難所として多くの人びとを庇った。まさに公会堂の字義どおり,一貫して人びとに寄り添う建物であり続けてきた。周辺環境は大きく変わったが,立地が幸いしてか竣工当初とさして変わらぬ姿が角地のランドマークとなっている。(梅宮弘光)


参考資料
日本建築協会 1933『建築と社会』第16輯第7号

 

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