著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

尾崎 久助

初出:日本建築協会(編)『日本建築協会80年史』日本建築家協会,pp.108-109
発行日:1999年3月

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尾崎 久助

 日本建築協会第三代会長をつとめた尾崎久助70年の人生は,昭和の建築の,実務としての側面を支えてきたのはまさにこのような人であったかと,強く印象づけられるものだ。優秀な構造技術者。謹厳実直を絵に描いたような会社人間。頑固で寂しがり屋の家庭人。こんな男の生き方は,現代では流行らないかもしれない。しかし,戦前・戦中・戦後と,そのときどきの現実が建築に要請する課題に真摯に取り組み,その成果を高度経済成長期へと受け渡したその背景にあったのは,こうした男たちの人生ではなかったか。

 尾崎が在籍した東京帝国大学建築学科の1920年卒業組は,近代建築史上,ブリリアント・クラスとして知られる。日本における近代主義建築運動の嚆矢,分離派建築会がこのクラスから生まれたからだ。このグループは,石本喜久治,滝沢員弓,堀口捨己,森田慶一,矢田茂,山田守の同級生6 人によって1919年に結成された。矢田は夭折したが,建築家,建築学者として後世に名を残すことになる人びとである。芸術としての建築を標榜し,新奇な建築意想図をもって展覧会を開催するその活動は,規模としては東京の一隅の出来事に過ぎなかったが,草創期の岩波書店や建築雑誌の後押しで,ちょっとしたムーブメントになった。

 メンバーの回顧談によると,グループ結成の経緯はこうだ。当時の東京帝大建築学科は,教授が中村達太郎,伊東忠太,塚本靖,助教授が関野貞,佐野利器,講師に内田祥三という陣容。学生は意匠と構造の専攻別にゆるやかに分かれていた。伊東,塚本の講ずる意匠は若い学生には新鮮味がなく,一方,佐野,内田の構造派が勢いを増しつつあった。意匠専攻の3名,石本,山田,堀口はそんな学科の雰囲気に不満で,太平洋画会の研究所にデッサンを習いに行ったり,夜それぞれの下宿を回っては建築のスケッチを見せ合ったりしていた。そういうなかから仲間でなにかやろうということになり,まず滝沢に,ついで森田と矢田に話をもちかけ,分離派建築会が誕生した。

 尾崎について書くべきを,分離派線会に紙幅を費やしすぎただろうか。そうは思わない。つまり分離派の連中は,たかだか十数人の小さなクラスで,尾崎には声をかけなかったということだ。構造専攻だったからか。それをいうなら,森田も矢田もそうだった。学生結婚の新婚家庭だったからか。それは,あるかもしれない。夜おそくまで芸術論を戦わす雰囲気でもなかろう。しかしなにより,分離派の連中は尾崎のことを自分たちとはちがうタイプの人間だと判断していたからだろう。ようするに,尾崎は合わないと考えたのではないか。

 それでは当の尾崎は,どんな学生だったのか。同じ構造専攻で,デザイナー志向の強かった森田慶一は,構造学を原書で勉強していたのは彼だけだったと回顧している。滝沢は,勉強の鬼と評している。人の二倍も三倍も仕事をしてしまうので周りの人間がたいへんだとも。軟派の分離派に対して,硬派の尾崎というところか。高等遊民的な分離派に比して,着実で勤勉な尾崎の学生生活ぶりが感じられる。

 好対照は,彼らのする人物評にもみてとれる。たとえば日本における耐震構造学の開拓者であり,当時政界や実業界にも乗り出した佐野利器について。滝沢は俗人と評し,堀口捨己は当時違和感を抱いたと回顧,その業績は不動のものとしても概して評価は低いのである。これに対し尾崎は「エライ人だったな。あの人は非常に魅力がある。人間として」と評する。一方,芸術家肌の建築家として西陣電話局などの数少ない作品を残しながら夭折した同窓の先輩岩本禄について,尾崎を囲むある座談会で,滝沢や森田がしきりに敬慕の念を表するのに対して,尾崎は「われわれより上(の学年)か?」と問い返す。そもそも知らないのである。

 同じ人物に対する評価・印象がこうもちがう。それは,評する側の建築観が異なるということだろう。端的に述べるなら,分離派建築会にとって建築は,少なくとも結成当初は,理念だった。だから,建築の現実を批判し,実現しなくとも理想を夢見た。しかし,尾崎にとっては,建築は実務だった。それは徹底的に現実的な課題であり,解決できなければ意味のないものであった。

 卒業後の尾崎は,この実務の道を邁進する。最初に勤めた辰野葛西建築事務所時代に関東大震災に遭遇。勤務のかたわら焼け出された写真師をともなって建築物の火災状況を調査してまわる。帝都復興院(のちに内務省復興局)が設立され,建築局長に佐野利器が就任すると,このかつての師に呼ばれて復興院技師となり横浜の区画整理に従事する。復興がいちおうの完成をみたところで復興局を辞し,日本銀行臨時建築部に就職。このときは,佐野利器の耐震構造理論を発展させた当時の早稲田大学教授・内藤多伸の紹介だった。日銀臨時建築部は本店旧館に接続して新館を建てる大増築を担当する部署で,古典主義の大家長野宇平治を技師長に,構造は内藤に委嘱されていた。内藤は自分の下の構造担当チーフとして尾崎を引っ張ったのである。尾崎31歳のときである。日銀の新館建設は大事業だった。尾崎は,周辺建物の取り壊しにともなう地盤の弾性浮上,旧館に近接して深い基礎をつくる必要など,構造上,施工上の難問に立ち向かい,その調査・研究の成果をまとめて工学博士の学位を受けた。

 10年の歳月をかけた日銀の大増築が完成した1938年8月,臨時建築部は解散となった。職を解かれた尾崎は,間をおかず長谷部竹腰建築事務所に入所する。この組織は,住友総本店の工作部にいた長谷部鋭吉と竹腰健造が部員を引き連れて独立してできた事務所である。おりしも日本が国力を中国大陸に及ぼしているこの時期,尾崎は副所長兼東京事務所長という立場で,中国における日系銀行の本・支店の設計監理に働いた。これらの銀行の首脳部には日銀から赴任した人物も多く,尾崎の日銀時代の人脈が有利に働いたという。戦時体制下も末期の1944年,この事務所は住友土地工務株式会社に買収され,尾崎は取締役建築部長となる。敗戦後の財閥解体で同社は日本建設産業に改組,つづく公職追放で当時の社長竹腰をはじめ首脳部が退陣,その結果尾崎は社長となり,社名も日建設計工務と変わる。社業は日を逐って盛大におもむいた。1958年には会長となった。こうした背景について尾崎自身は「他から羨ましがられるほどよい建築の設計監理を沢山受注したが,その多くは多年の友情の自然の賜であった」と述べている。住友財閥のうしろだてに加え,戦後のこの時期には尾崎の復興院時代のかつての知己が地方長官や市長になっていたり,日銀時代の同僚が地方銀行の頭取や有力企業の首脳になっていたからというのである。

 このようにみてくると,尾崎の人生は建築実務エリートの典型とはいえまいか。帝国大学,日本銀行,財閥系企業,大陸での活動……。彼は,明治以来の日本資本主義の発達と,戦後それがこうむった変容に,おどろくべき馬力で伴走してきたのだ。

 1966年5月,尾崎は病のため亡くなった。その2年後に出た追陣集に寄せられた妻志んの随想は,細かな追憶の断片ながら,全体に楚々として不思議な魅力をたたえた文章だ。病院での最期,尾崎は妻ひとりの付き添いを望んだという。「お前一人に居て貰いたいのだ」と。建築学科で構造学を学んでいたころからずっと,このひとは尾崎に付き添ってきたのだ。こんな女の人生も,現代では流行らないのだろうが,彼女もまた,時代の伴走者であったといえるだろう。
(梅宮弘光)


略歴
1896 5月4日静岡県浜名郡に生まれる
1908 家業の満州進出にともない大連に移住
1914 第三高等学校(京都)入学
1917 東京帝国大学工学部建築学科入学
1920 東京帝国大学工学部建築学科卒業
1920 辰野葛西建築事務所技師(~1923)
1923 帝都復興院(のちに復興局)技師(~1927)
1927 日本銀行技師(~1938)
1938 長谷部竹腰建築事務所副所長兼東京事務所長(~1944)
1939 工学博士
1944 長谷部竹腰建築事務所は住友土地工務に合併,取締役建築部長兼東京事務所長
1946 日本建設産業(住友土地工務改称),常務取締役兼建築部長(翌年専務取締役)
1950 日建設計工務取締役社長
1958 日建設計工務取締役会長。日本建築協会会長(~1964年)
1963 日建設計工務取締役相談役
1966 5月22日逝去。享年70歳

作品
1953 長崎県庁舎
1956 広島県庁舎
1957 神戸市庁舎
1959 東京住友ビルディング,日本都市センター(1959年)

長崎県庁舎 1958年 設計:日建設計工務

論文
・「軸応力を無視せざる弾性アーチの解法とその階段形梁への応用」(1932)
・「対称垂直加重を受ける矩形架構における曲能率の,最下層柱脚部の固定状態如何による相違の比較」(1933年)
・「コンクリート構造建物荷重の分析的研究」(1937年)