著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

阪神間の公共建築―ポピュラリティーの表象

阪神間モダニズム展実行委員会(編)『阪神間モダニズム―六甲山麓に花開いた文化,明治末期-昭和15年』1997年,淡交社,pp.92-96

ポピュラー・アーキテクチャーとしての公共建築

 阪神間の近代建築について,まずもって重要と考えられるのは,住宅地形成を背景とした邸宅建築であろう。富裕層による明治末以来の邸宅建築は,豊かな趣味性を背景に,自己完結的で濃密な空間を形成していた。そこでは,装飾性を否定したインターナショナル・スタイルでさえも,吟味された材料を手工芸的に磨き上げることで格式を与えられたのである。

日本の近代建築における西洋受容は,様式の崩壊過程という側面をもつが,こと邸宅建築に関しては,その自己完結性ゆえに,様式の少なくとも格式の部分は温存されたのである。しかし,その後の近代建築の普及過程を考えるなら,むしろこうした邸宅建築は特例であろう。量的な普及を可能にしたのは,様式の質的な深度よりも,直裁なわかりやすさと親しみやすさを生み出す表層性ではなかったか。そうした動きをになったのは,むしろ公共建築や商業建築といったポピュラー・アーキテクチャーであった。

洋風受容におけるポピュラリティー

 日本の近代化は,西欧からの衝撃のもと,上からの近代化政策によって進められた。それは西欧の近代諸国を手本に追いつけ追い越せと進められたから,西欧化という性格が強い。こうした性格は,建築では外見を西洋風にすることとして現れた。そこでは,すでにあった建物を西洋風に変えること以上に,新しい建物が西洋風の外見で建てられていった。

 ここでいう西洋風の外見は,明治期にはもっぱらゴシック様式,ルネサンス様式,古典様式など西洋歴史主義建築のそれであった。しかし,大正期中頃から昭和初期にかけては,セセッション,アール・ヌーヴォー,表現主義,アール・デコ,インターナショナル・スタイルが加わった。すなわち,近代化をめざして歴史主義建築の外見を追いかけていく延長に,西欧における世紀転換期から20世紀初頭の近代主義建築の成立過程の外見をなぞっていったのである。

 こうした様式の変化は,歴史主義様式の崩壊過程とも建物のかたちの抽象化過程ともみえるが,いずれにしてもセセッションやアール・ヌーヴォーを画期として,その前後に違いがある。それは端的にいうなら、大衆にとって前者よりも後者のほうがわかりやすくまた親しみやすいことだろう。歴史主義建築は、西欧社会の宗教や歴史といった文化的背景をもち、それらとの照応関係において理解されるものだったから、日本人にとってそもそもわかりにくいものだった。それに比べ、装飾が簡略でグラフィカルに処理されたセセッションや自然をモティーフにしたアール・ヌーヴォーなどは、より親しみが感じられた。装飾性を抑えた様式も、合理性や明朗性といった新時代の生活信条に馴染むものと映った。ポピュラリティーは大衆レベルの洋風受容における鍵だったのである。

ポピュラー・アーキテクチャーの出現

 建築様式におけるポピュラリティーの増大は,より大衆に近い施設の出現と連動している。近代化はなによりも社会システムの変革であったから,新しいシステムのための新しい施設を必要とした。中央集権国家においてこのシステムはヒエラルキーをなしていたので,施設もまたこの構造に従うことになる。たとえば,廃藩置県というシステムは中央官庁とその出張所としての県庁舎や地方役場を生んだ。学制というシステムは当初全国を大・中・小の学区に分け8大学,256中学,5万強の小学校を設置しようとする計画であった。ここに顕著なように,ヒエラルキーの底辺にいくほど数が増えるので,個々の密度も連動して減少する。この中央と地方の格差は,上からの近代化のグラデーションとなって現れる。

 大正時代に入ると,大正デモクラシーの社会・文化状況を背景にして都市中間層の市民意識が高まりをみせる。市・町村制で認められた自治事務は非権力的なものに限定されていたが,公共施設や営造物の管理は市・町村単位でおこなわれた。議会は実質的には地方名望層に支配されていたとはいえ,彼らはまた公共施設の建設に私財を投入する篤志家でもあった。彼ら自身の利益にとっても地域振興は不可欠だったからである。こうして,上からの近代化のグラデーションが薄くなる部分が,下からの近代化の力によって底上げされることになる。

 上からの近代化の底辺は,同時に下からの近代化の前線でもあった。ポピュラー・アーキテクチャーが現れるのは,まさにこのような場所だった。

ポピュラー・アーキテクチャーの阪神間

 日本の近代化過程でポピュラー・アーキテクチャーが出現する時期は,阪神間では都市化に拍車がかかる時期である。鉄道や私鉄の敷設など明治初期以降順次進められてきた阪神間の交通路整備は,昭和2年(1927)の阪神国道開通で基本的骨格が完成する。こうした基盤の上に,ポピュラー・アーキテクチャーとしての公共建築が出現するのである。

 御影公会堂(昭和8年,設計= 清水栄二)は,千人収容のホールに,貸し室,食堂,浴場,娯楽室,屋上露台などを備えた武庫郡御影町立の施設である。建設費の8割以上が,同町の酒造家で,県会議員,灘商業銀行頭取などを兼任した七代目嘉納治兵衛の寄付による。その意匠は竣工時の記録によれば「近世式」とされるが,一言では形容しがたい。前面の壁を覆う大きなガラス面,船楼の意匠を思わせる丸窓,表現主義的なパラボラ・アーチや出窓。水平線を強調する軒。エントランスを象徴する簡略化されたゴシック風装飾。要するに,今世紀初頭の西欧の流行様式が,独自の構成感覚で組み合わせられているのだ。その要素ごとの造形といい組み合わせ方といい,そこには一種の稚拙さがあるが,この建築家の作品が共通してたたえている親しみやすさは,まさにそこに由来しているように思われる。

 甲南病院(昭和9年,設計=木下益次郎)は,当時川崎造船所社長でのちに文部大臣を務めた平生釟三郎によって設立された総合病院である。計画にあたっては合理性と功利性が旨とされ,ドイツの病院視察をおこない,アメリカの専門雑誌が参考にされたという。医療機器のみならず,電光掲示板や医師・看護婦の呼び出し装置など,当時としては最新設備を備えるものであった。建物は全体がクリーム色のタイル張りで,玄関まわりや全体構成に多少の様式性を残すものの,装飾性はほとんどない。タイル張りの無装飾な外観は当時の新しい病院建築の流行で,日本赤十字社京都支部病院など同時期の病院建築にもみられる。新しい内容を象徴するにふさわしい外見について,京都帝国大学医学部付属病院の設計者・大倉三郎はつぎのように記している。「そこには近代科学の産物がその雰囲気に醸す理智的な簡素,明朗さの気分が第一に望ましいと思ふ。……すべて機能上の必然からきた無理のない,素直な形態,清楚,簡潔さが望ましい」(「医院建築の諸問題」『建築と社会』昭和9年10月号)。それはまた,病院に対する大衆の期待を反映してもいたはずである。

 急激な人口増加にともない,昭和期に入ると阪神間でも多くの鉄筋コンクリート造の小学校校舎が建設された。その設計が基本的には標準化されていたのは,すべての子どもの就学を求め,階級,男女,貧富の差のない単一的な教育課程がめざされた小学校という制度に沿うものだった。小学校という施設は,教科書やカリキュラムと同様に国民化のための装置だからである。阪神間の小学校校舎の設計には,清水栄二や古塚正治といった自営建築家も関わっていて個性的な意匠もみられるが,そうした微差をはるかに超えて国家規模のポピュラリティーが覆っていたのである。

ポピュラリティーの行方

 これまでにみた事例にうかがえることは,これらの施設がポピュラリティーの表象として街のなかにたち現れていることである。その存在のわかりやすさ親しみやすさは,個別の作品世界を求心的に形成する方向とは正反対に,近代的な感覚のなかに霧散し解消されていくものである。ポピュラリティーたるゆえんは,薄く拡散されて,ことさら意識されることなく,またそれだけに根強く定着するところにあるからだ。その意味で,公共建築は阪神間の風景の移り変わりにおいて,大衆的フロンティアの一翼をになうものだったといえよう。

 

【写真】
御影町役場
大正3年 神戸市 設計=清水栄ニ
「御影町史」(昭和II年)より屋根中央にダッチ・ゲイブル風の大きな破風が揚がる。頭のほうが重たい意匠は,この建築家の特徴。

芦屋郵便局電話事務室
昭和4 年 芦屋市 設計=逓信技師・上浪朗
前面道路に面する連続アーチの内側は,執務スペースとの問に半屋外的な中廊下があり,口マネスク的な雰囲気を高めている。設計者は東京帝国大学建築学科卒業で,同じ逓信技師・山田守の三年後輩にあたる。

芦屋警察署
昭和2 年 芦屋市 設計=兵庫県営繕課
玄関のアーチは御影石。要石に彫られたミミズクは夜問警備の象徴か。しかし,その表情に威圧感はない。

甲南病院
昭和9 年 神戸市 設計=木下益次郎
外観全体をタイルで覆う意匠は当時の病院建築の流行。それは,衛生を,ひいては近代性を象徴するものであった。

山手小学校
昭和8 年 芦屋市 設計=和田建築事務所
この小学校がランドマークになりえているのは,塔屋の造形に負うところが大きい。管制塔や船橋の形態を採り入れるのは,モダンスタイルにおける当時の流行だった。

小林聖心女子学院
昭和2 年 宝塚市 設計=レイモンド・サイキス建築事務所
薄い庇や細い付け柱,微妙に折り重なる壁面,ところどころに現れる曲面,対称性と非対称性など,造形に持ち込まれている要素は意外に多い。

用海小学校
昭和2年 西宮市
今日ではあリきたリの小学校にみえるかもしれない。しかし,木造校舎からこのように変化した時の新鮮さに思いをいたらすなら,この形式の新しさが理解される。

灘中学校
昭和4 年 神戸市 設計=宗建築事務所
ルスティ力積みを模した腰壁,口ンパルディア帯の短片,ゴシック風窓枠。単純化された様式築モティーフのアップリケ。

甲陽中学校(旧校舎は現存せず)
昭和4 年 西宮市 設計=竹中工務店(写真出典:『健築と生活』昭和8 年,朝日新聞社)
縦長窓,開口・軒まわりのモールディング,対称性をもて)ブランなどは様式主義的だが,カーテンウォールからスロープを透かして見せる新しい表現も獲得されている。

西宮球場
昭和2年 西宮市 設計=中尾保 構造設計=阿部美樹志
装飾のない白亜の建築。昭和初期にはすでにツタで覆われていたという甲子園と好対照をなしている。設計者はかつて日本インターナショナル建築会のメンバー。

摩耶倶楽部
昭和5 年 神戸市 設計=大林組 今北乙吉(写真:『建築と社会’』昭和6 年2 月号)
どちらかといえば垂直方向が強調される様式主義に対して,庇と窓下のモールディングによって水平線を強調する表現は,この時代の新しい手法だった。