著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

〈御影公会堂〉見学会配布資料:パトロンが育てた建築家と建築―嘉納治兵衛と清水栄二

日本建築協会・阪急電鉄共同企画〈近代建築は関西がおもしろい〉シリーズ第4回:パトロンが育てた建築家と建築(2004年12月4日)
兵庫県立美術館〈日本の表現主義〉関連イベント 御影公会堂見学会(2009年7月5日)

 

パトロンが育てた建築家と建築―嘉納治兵衛と清水栄二
梅宮弘光[神戸大学]

御影公会堂 嘉納治兵衛と清水栄二

はじめに

 御影公会堂は武庫郡御影町の公会堂として,1933(昭和8)年に建設されました。戦後の1950(昭和25)年,同町の神戸市編入後,神戸市御影公会堂となり今日に至っています。皆さんよくご存じのとおり,公会堂は,野坂昭如「火垂の墓」の中で神戸空襲後の印象深いシーンに登場します(その姿は宮崎駿による同名のアニメにも登場します)。また,阪神淡路大震災にも耐え抜き,頼もしい避難所として活用されたことも忘れられないことです。2 度の災いをくぐり抜け,市民に開かれたパブリックな性格もそのままに,内外ともにほとんど当初の姿を保って今日に至っていることを思うと,近代建築として貴重というだけでなく,なんとも愛おしい建物に思えてきます。公会堂には約1000名収容のホールがありますが,それは1954(昭和29)年に神戸国際会館(先代の建物)ができるまでは,貸しホールとしては神戸最大だったようです。2001年,御影公会堂は,モダニズム建築の保存を進める国際活動ドコモモに呼応した行われた「関西のモダニズム建築20選」に選定されました。

御影公会堂 嘉納治兵衛と清水栄二
御影公会堂 嘉納治兵衛と清水栄二
(左)外観,(右)集会場(出典:『建築と社会』第16輯第7号(1933年7月))

御影という町

 1905年の摂津電気鉄道(現阪神電鉄),1920年の阪急電鉄神戸線の開通に続いて,1927(昭和2)年には阪神国道(現在の国道2号線)が開通。交通インフラの発展により,阪神間は大正から昭和にかけて,住宅地として発展していきます。御影の町は,背後は御影石の産出地,浜側は灘五郷のひとつである中郷があり,その中間にあたる石屋川(公会堂の横を流れる川です)の扇状地は,良好な住宅地として発展していきました。町村制の実施により,1889(明治22)年に御影町が誕生します。

公会堂の建設と嘉納治兵衛

 公会堂の建設に功があったのは嘉納治兵衛(1862~1951年)です。彼の寄付なくしては公会堂はできていなかったでしょう。『御影町誌』(1936年)によると,総建設費が当時のお金で24 万円,そのうち嘉納の寄付金と寄付金利子の合計が約22万9000円。じつに全体の95パーセントが嘉納の出資によるわけです。

 嘉納治兵衛の嘉納家は同地の酒造家・嘉納治郎右衛門の分家で,本家の本嘉納に対して白嘉納を名乗り,今日の白鶴酒造につながります。当主は代々治兵衛を名乗るのですが,公会堂の治兵衛は7代目(正久)。彼は当時の実業家に少なからずみられるタイプ,すなわち灘商業銀行頭取,兵庫県会議員,全国酒造組合連合会会長などを務める実業家,政治家の面と,鶴翁と号す数寄者の面を持ち合わせた人でした。中国青銅器の世界的コレクションを誇る白鶴美術館は1931(昭和6)年に彼が設立したものです。

 公会堂の正面を入った1階突き当たり,薄闇の中にあるほこりだらけの小さな胸像。彼が治兵衛さんです。銘板もついていますが,読む人はどれくらいいるでしょう。その脇に,鶴の大きな置物と,酒瓶の並べられた飾り棚。公会堂の玄関になぜこんなものがあるのか,おわかりいただけたと思います。

御影公会堂 嘉納治兵衛と清水栄二

玄関から1階ホールの奥を望む

御影公会堂 嘉納治兵衛と清水栄二

(左)公会堂竣工記念銘板,(右)嘉納治兵衛

公会堂の設計者・清水栄二

 清水栄ニ(1895~1964年)は武庫郡六甲村の生まれ。1918(大正7)年に東京帝国大学建築学科を卒業。同期には天折の天才といわれる岩元禄,1年先輩には竹中工務店で活躍する鷲尾九郎,1年後輩には東京・大阪の両中央郵便局の設計者の吉田鉄郎,2年下が分離派建築会のクラスです。さてその後,大阪で民間の建設会社に務めたのち,1921年に神戸市役所に招かれ技師,1923年に営繕課が設置されると初代課長となります。神戸市の営繕関係では初めての大卒の技術者だったようです。この神戸市時代に,多くの特徴ある鉄筋コンクリート造小学校を設計しましたが,魚崎小学校(東灘区)の2001年建て替えを最後に,市内にはすべてなくなってしまいました。
 1926(昭和元)年には神戸市を辞し,事務所を自営します。御影町との関わりは,1923(大正12)年に町役場の設計をしています。このときの建設委員には嘉納治兵衛も名を連ねていましたから,それ以来何らかの縁もあったかもしれません。1929(昭和4)年隣の魚崎町で先にふれた小学校の設計もしていましたから,阪神間では知名の建築家だったのでしよう。この頃,設計のかたわら,神戸高等工業学校(現神戸大学工学部)建築科でも教鞭を執っています。
 現在神戸市内で現存する彼の作品は,この御影公会堂以外では,魚崎公民館(東灘区),甲南漬資料館「武庫の郷」(旧高嶋平介商店,東灘区),ワシオ外科(旧尻池公民館,長田区)のみになっています。ちなみに,甲南漬けの高嶋平介も,公会堂建築委員のメンバーでした。高嶋商店は公会堂より早く1930年に竣工しています。

御影公会堂 嘉納治兵衛と清水栄二
御影公会堂 嘉納治兵衛と清水栄二
(左)御影町役場,(右)魚崎小学校
御影公会堂 嘉納治兵衛と清水栄二
御影公会堂 嘉納治兵衛と清水栄二
(左)魚崎公民館,(右)甲南漬資料館(旧高嶋平介商店)

往事の御影公会堂

 竣工当時,日本建築協会の機関誌『建築と社会』に発表されたときの記事を別紙に用意しました。当時の平面図が載っています。部屋名が読みづらいので,できるだけ加筆しました。往事の様子が偲ばれると思います。

御影公会堂 嘉納治兵衛と清水栄二

竣工時の室配置

 現状と大きく異なるのは地階です。当時地階西側には,碁将棋室,球戯室などの娯楽室があったことがわかります。球戯室には台のようなものが描き込まれています。卓球でしょうか撞球でしょうか。2階と3階にはそれぞれ配膳室があって,2基のダムウェイターが地下の厨房と結んでいます。各階貸し室で食事を含む会合が多かったのでしょう。
 本日のシンポジウムで使用する3階の8号室,9号室は「食堂」,その隣の7号室は「控え室」となっています。8号室には西面に装飾の暖炉がついており,南面は床から天井までの大型ガラス開口になっています。今でこそガラス張りの空間はめずらしくありませんが,当時は斬新な空間だったと思います。つまりこの部屋には少々格式をもたせたということでしょう。「食堂」となってはいますが,むしろ宴会場ということかもしれません。神戸芸術工科大学名誉教授の坂本勝比古先生は公会堂で行われた結婚式に出たことがあるとおっしゃっていました。おそらくこの部屋ではなかったでしょうか。
 ちなみに前出の『御影町誌』には,開館の1933年6月から10カ月間の各部屋の使用許可回数データがあがっています。全386の使用許可のうち,第1位は2階の「日本室3号,4号」で57回。ふたつの「食堂」はそれぞれ39と43で健闘しています。少々以外なのが「大集会室」つまり現在の大ホールですが,46回。最近ではあまり利用されていないように思うのですが。

御影公会堂の見どころ

 見て回る前に,公会堂の建物の全体像を,先ほどの図面でざっくりとおさえておくとわかりやすいのではないでしょうか。それは,この建物は大きく3つのかたまりからなっているということです。第一は,国道2号線に面した南側ブロック,地階から3階まで主に貸し室として使われている部分。第二は,窓のない箱状の北ブロック,舞台と舞台上部を納めた部分。そして第三はこのふたつの間の空虚,つまりホール客席がある中ブロック。それではこの3つのブロックにどのようなかたちが与えられ,それらが組み合わされているかを外観からみることにしましょう。

御影公会堂 嘉納治兵衛と清水栄二
御影公会堂 嘉納治兵衛と清水栄二
3ブロックからなる空間と機能

異なる立面意匠:連続と断絶

 御影公会堂は角地に建っています。南側に国道2号線,西側に石屋川。つまり,この建物はニ方向から見えることになるねけです。清水栄ニはそうした立地条件を十分に活かした設計をしているといえるでしよう。
 まずファサードです。ファサードとはその建物の正面のことです。ー般的には玄関のある面,あるいは主要道路に面している面がそれにあたります。公会堂では,国道2号線側です。この面を見る限り,公会堂は―見したところ左右対称の四角い建物に見えます。中央に置かれた玄関,その上のガラス面,さらにに2~3階を連続して覆うガラス面,その上に張り付けられたゴシック風(と思えなくもない)の竪桟状の装飾。これらが一体となって建物の中心を主張している。

御影公会堂 嘉納治兵衛と清水栄二
御影公会堂 嘉納治兵衛と清水栄二
耐震改修(2017年)後のファサード写真

 

 しかし,水平な軒の線に沿わせるように目を左つまり西方に移していくと,端まできたところで途切れず,西面に回り込んでいる。回り込んだところで,ここまで! というふうに水平だった庇を直角に曲げて1階まで袖壁として降ろしてファサードの連続にストップをかける。正面はここまで,というわけです。
 しかし,そのストップしたところはすでに西側の面。視線は正面から西立面に誘導されてきたわけです。西立面は,印象の異なる3つの部分からなっています。その3つというのは,最初にのべたとおり,この建物の主要な3つのかたまりに対応しています。その3つにそれぞれ異なる意匠が与えられている。南側のかたまりには額縁のような太めの桟に縁取られたガラス開口。次は大ホール部分ですが,舞台に向かって下がっていく天井高がそのまま現されて,屋根の稜線は階段状になっています。この西立面の意匠は,ファサードにおとらずおもしろいと思います。というのは,大ホールの外部廊下(「遊歩廊下」)を囲む長方形の枠によって立面を上下に分割して3層構成にしているからです。いちばん下に矩形窓,中間には壁から庇をせり出させて水平線を強調した矩形窓,そしていちばん上は段々に位置を変えながら連なる横に細長い窓です。

御影公会堂 嘉納治兵衛と清水栄二

西立面

 そして北側のかたまりには,上下を貫く縦に細長い窓。これはもともとは壁から三角形に飛び出した,つまりプリズムを縦にしたような窓だったのですが,いつの頃かに壊れてしまい,今はふつうにガラスがはめ込まれています。そのオリジナルのかたちは,清水の別の作品,甲南漬資料館「武庫の郷」(旧高嶋平介商店),ワシオ外科(旧尻池公民館)に健在です。

多用な開口部:様式の混清

 先ほどの立面とも関連するのですが,御影公会堂の開口つまり窓は,いくつかの異なるタイプがあっておもしろいです。ひとつは半円アーチや丸窓,これはどちらかというと古い様式主義のモチーフといえる。次は先にふれたプリズムのような三角断面の窓。これは日本でも1920年代前半に流行った表現主義風建築で好まれたもの。そしてファーサードに見られる大きな全面ガラス。とくに階をまたがってその全面を覆うやりかたは,デッサウのバウハウス校舎(1926年)などが有名ですが,当時としては最新のものでした。
 この頃,全体はシンプルな四角い建物で無装飾なのに,ワンポイントのアクセントのように丸窓を用いた建物がよく見られました。最新のスタイルに惹かれていた当時の若手建築家は,そういうのを見て「様式主義の尻尾がまだとれていない」などと批判しています。しかし,御影公会堂において清水は,そんなことはおかまいなしに,多用な開口部の組み合わせを自由に楽しんでいるように見えます。
 こうした開口部の意匠をみるとき,それを特徴づけているのが,たんに壁に開けられた穴のかたちのみならず,それを縁取っている窓枠,あるいはその延長としての庇の意匠にあることに気づきます。窓枠は,様式主義が消えていくのとともに退化してきた部位ですが,この公会堂ではまだ退化する前の,一歩手前の細部に出会うことができます。
 様式の話になりましたので,ついでに世界の近代建築の中での御影公会堂という視点から見ておこうと思います。影響関係がどうのこうのというのは,はっきりしませんし,そのまま似ているということでもないのですが,庇の扱い方という点で私が連想するのは,ドイツの建築家E.メンデルゾーン(1887~1953)の1920年代の作品,ベルリン日報新聞社(1921年)やヴァイヒマン・シルクハウス(1922年)などです。また,直接似ていると思うのは,いわゆるトロピカル・デコといわれるマイアミのアールデコ建築です。

(左)ヴァイヒマン・シルクハウス(グリビツェ,ポーランド),(右)カーライル・ホテル(マイアミ)

 

 このことについて,もうちょっと書いてみます。公会堂の正面壁はもともと当時流行していた褐色のスクラッチ・タイルでした(現在は吹き付けに変わっています)。そのこともあって,公会堂は茶色い建物という印象があるのではないでしようか。これを,ミント・グリーンやフラミンゴ・ピンクといったシャーベット・トーンに塗り分けたところを想像してみてください。ほとんどマイアミになります。しかし,清水がこれを真似たわけではない。というのも,マイアミのこのての建物ができたのは,御影公会堂より後,1930年代の後半から40年にかけてのことだからです。むしろ,建築の様式性が希薄になっていく過程で,世界中で同時的に現れた現象ということかもしれません。それから,これは強調しておきたいのですが,建築の充実度という点では,マイアミ・アールデコより御影公会堂の方がずっと上です。

屋上の露台

 建物の南西角の屋上部分に不思議なかたちのテラスのようなものが載っています。当時は「露台」と呼ばれていたようです。すでに述べたように,公会堂の正面はこの南西角の部分が曲面になっていて,ぐるりと西面に回り込むわけです。その回転を象徴しているのがこの「露台」です。「露台」と同じ円形は地階食堂の天井にも現わされていて,つまり「この円形の部分が地階から屋上まで円筒として続いていますよ」という表現になっています。それなら,この屋上の露台もガラスで囲んで,1階から屋上まで貫通させてガラスのシリンダーを通せば,口シア・アヴァンギャルド風にもなったのになどと個人的には想像するのですが,とんだおせっかいというものでしょう。いずれにしても,「露台」があるのとないのとでは建物の印象が異なります。国道を南に渡ったあたりから,あるいは写真でもいいですが,手で「露台」を隠して見てみてください。

御影公会堂 嘉納治兵衛と清水栄二

建物の西南隅の屋上に設置された露台(展望台)

 

 この「露台」,なにか用途が想定されていたのか,それとも装飾なのかはよくわかりません。ただ,高い建物のない当時のことですから,ここに上ると南は神戸港から大阪湾,北に連なる六甲山系がよく見渡せたでことでしょう。斜め前の浜手に並んだ白鶴の蔵も見えたはずです。嘉納治兵衛もここに登ったのでしょうか。

階段室

 内部空間で特徴的な部分は階段室でしょう。太い円柱が並ぶ中を階段が続きます。天井はトップライトになっており,現在は素通しですから明るいですが,往事は市松模様のパネルが入っていたようで,今よりは暗かったでしょう。階段の付き方がいささか複雑なようにも感じられますが,これは南ブロックの階高とホールの2 階席・3 階席の階高が異なるため,それを調整しながらひとつの階段室で連結していく必要があったからだと思われます。2階から3階に至る経路などはいささかせせこましくも感じられますが,面積を節約しながらうまくつなごうとした工夫のあとでしよう。

御影公会堂 嘉納治兵衛と清水栄二

2階広間(ホール)
御影公会堂 嘉納治兵衛と清水栄二
御影公会堂 嘉納治兵衛と清水栄二
(左)3階から屋上に至る階段(竣工時),(右)同(1990年代)

おわりに:パトロンたちの阪神間

 住宅地である阪神間におけるパトロネイジは都心における企業活動におけるそれとは異なっていました。それは,住民の福利厚生・教育に関わる部分や,またパトロンたち自身の文化生活に関わるものだったのです。たとえば灘の酒造家資本は,灘中学・高校や甲陽学院などの私立学校や旧魚崎小学校のような町立学校,文人でもあった実業家たちは自らのコレクションをもとに美術館や考古館を創設しました。阪神間にある少なからずの美術館がそうした出自によるものです。また,兵庫区の川崎病院と東灘区の甲南病院はともによく似た建物ですが,これらは当時の川崎造船所社長で後に文部大臣も務めた平生釟三郎(1866~1945年)が創設し,建築家・木下益次郎に設計依頼されたものです。阪神間に点在するこうした建物は,郊外住宅地における文化パトロネイジの下で建築家が存分に腕をふるった成果といえるでしょう。

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