著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

戦前期日本のモダニズム建築運動におけるアンビルト―夢想からリアルへ

埼玉県立近代美術館+新潟市美術館+広島市現代美術館+国立国際美術館(編)
インポッシブル・アーキテクチャー』2019年,平凡社,pp.60-62

インポッシブル・アーキテクチャー

※WEB掲載に際して図版を補った。

戦前期日本のモダニズム建築運動におけるアンビルト―夢想からリアルへ
梅宮弘光

アンビルトが生まれるとき

 施設の構想が生じ,実施に向けて動き出す。建築家は施主の意向を汲んで設計する。設計の実際とは,このようなものであろう。ともあれ,構想は建築家のあずかり知らないどこかで生まれ,建築家のもとに流れてくる。この所与の連続を断ち切り,建築家自らが構想の源流に立とうと欲するならば,構想の全体を理念化せずには行えない。そのとき浮かび上がるのが,理念化された社会である。そのような社会においてはじめて,彼は建築構想の主になれるのである。

 この状況は,しかし,現実とは大きくかけ離れている。建築家という職能に求められるのはあくまで構想にもとづいた設計であって,構想そのものではない。現実の社会に彼に好きにさせてくれる篤志家はいないし,独力で理想を実現する力もない。実際と理念の乖離は,あまりに大きい。

 そんなとき,ひとは夢見がちになる。夢のなかでなら,建築家は施主であり設計者であるばかりか,自身の設計を享受して喜びに満ちる民にもなれた。すなわち,「アンビルト=建てられることのなかった建築」とは,建築家によって理念化された理想社会の空間的表象の謂いである。

夢の中へ―分離派建築会

 明治期の青年建築家にとって,西洋建築の習熟は自己を同一化するに足る課題だった。しかし,それが一定の達成をみた1910年代,大正デモクラシーのなかで自己を形成した青年建築家にとって,建築の価値は功利性や有用性のみで定められるものではなくなっていた。彼らが建築に求めたのは真・善・美といった先験的で普遍的な文化主義的価値であり,その標識とされたのが「芸術」である。

 ここにきて建築は,近代化のための技術から哲学的思索の対象に転換した。しかし,この動向を代表する後藤慶二や岩元禄がいずれも中央省庁の技術官吏であったように,モダニズム建築運動は,この段階ではいまだ実務における個人的営為にとどまっていた。

 こうした状況を背景に登場するのが,さらに若い東京帝国大学建築学科の学生たちによって結成(1919年)された分離派建築会である。「建築は一つの芸術である/このことを認めてください」とは分離派建築会のひとり石本喜久治の「建築還元論」 *1の冒頭の一節だが,彼らが建築=芸術という命題によって意図したのは,建築=実務という既成の文脈を断ち切ることであった。その手段として採られたのが,本来は美術の方法,つまり市街にあるはずの建築をタブローとして展覧会場にもち込むことだった。モダニズム建築運動の季節は,このように始まった。

 この時期の青年建築家のリアリティは,目的合理性が支配する官製近代化路線の現実社会にではなく,創作することと生きることが直接結びつくような価値合理的な内面世界にあった。いくつかの作品のタイトルには,そうした意識がよくあらわれている。いわく「精神的な文明を来らしめんために集まる人人の中心建築への試案」(堀口捨己,1920年)*2 【図1】 ,「或る音楽礼拝堂の設計」(川喜田煉七郎,1924年)*3 【図2】 ,「Club in Utopia」(金沢庸治,1924年) *4 【図3】。いずれも田園牧歌的環境における精神的コミュニティー構想を建築設計の形式で表現したアンビルトである。

【図1】堀口捨己「精神的な文明を来らしめんために集まる人人の中心建築への試案」1920年(出典:『分離派建築会宣言と作品千九百二十』岩波書店,1920年)
【図2a】川喜田煉七郎「或る音楽礼拝堂の設計」(霊楽堂)」1926年頃 ドローイング(出典:『建築新潮』第8年第3号,1927年3月) 【図2b】同模型(2009年再制作,神戸大学梅宮研究室)
【図3a】金沢庸治「Club in Utopia(ユートピアの倶楽部)」1924年,立面図 【図3b】同前,平面図 (東京藝術大学大学美術館所蔵,出典:『躍動する魂のきらめき―日本の表現主義』東京美術,2009年)

 彼らは,自らの精神的内面を建築の形式で表出することこそが建築創造だと考えたから,その反発は官製近代化路線,わけてもその西洋歴史主義様式に向けられた。それは自己の外部から押しつけられるものだったからである。他方,彼らの気分に好ましく映ったのは当時のヨーロッパの新傾向,ゼツェシオンから表現主義への展開である。日本の建築の近代化には,西欧の新傾向にそのつど想を仰ぎながら何らかの美的近代性を探求するという側面があるが,歴史主義から脱しつつあったその自由な造形は,彼我の差を超えて,青年期の気分を受け止めるものだった。

 分離派建築会の姿勢に建築界の既成権威への反抗が見て取れるとはいえ,そもそも西洋の新様式と新技術を同時に追求するのが明治期以来の官製近代化の既定路線だったのだから,もとより同会の志向と決定的に対立するものではない。そこはエリートの再生産機構のなかでのこと,老大家に疎まれることはあっても,卒業後はメンバーの多くが逓信省営繕課や大手建設会社設計部に就職し,残ったメンバーも当時準備中だった平和記念東京博覧会の臨時建築部に職を得ていった。

 エリートたる所以というべきか,彼らの設計が実現する機会は早々にやってきた。平和記念東京博覧会のパビリオン【図4】,電信局庁舎や百貨店などの大規模施設【図5】【図6】として,つい前年までは製図板の上にとどまっていた分離派建築会スタイルがたちまち姿を現わしていったのである。そうした施設が建つ現実の社会は当初彼らがイメージしたものではなかったとしても,建物の様式に限るならば,受け入れられる余地はあったのである。つまり,彼らには夢から現実へ戻る梯子が用意されていたということだ。

【図4】(左)堀口捨己「平和記念東京博覧会 池塔」 (右)「同 動力館および機械館」1922年(出典:『平和記念東京博覧会事務報告 上巻』1924年,東京府庁)
【図5】東京中央電信局 1925年 設計:山田守(逓信省営繕課)(出典:山田守建築作品集刊行会(編)『山田守建築作品集』1967年,東海大学出版会) 【図6】白木屋百貨店(第1期) 1928年 設計:石本喜久治(出典:大東京絵葉書)

リアリティを求めて―創宇社

 分離派建築会が示したアンビルトという方法は,夢の世界への階梯であった。それに誘われて後に続いたのが,創宇社である。その中心人物,岡村蚊象(山口文象)は逓信省営繕課の技手(製図工)で,職場の上司であり分離派建築会の創設メンバーでもある山田守の推挙により,「丘上の記念塔」  *5で分離派建築会第4回展(1924年)に迎えられていた。【図7】

 

【図7a】岡村蚊象(山口文象)「丘上の記念塔」ドローイング(出典:『分離派建築会の作品 第三』1924年,岩波書店) 【図7b】同模型(「躍動する魂のきらめき 日本の表現主義」展2009年のための再制作)

 これに先立ち,岡村は逓信省営繕課の技手仲間とともに創宇社建築会を立ち上げ,分離派建築会に倣って展覧会を主催してアンビルトを発表する活動を開始した。分離派建築会とちがっていのは,その境遇である。彼らの仕事は建築家の設計図面を清書することだったから,現実社会において自らの記名で発表できる作品がない。それだけに,自身の名前で作品を発表できる展覧会の意義は,より切実なものだった。この夢の世界のほうにこそ,ほんとうの自分を見出すことができたのではなかったか。

 創宇社は1923年から1930年まで計8回の展覧会を開催し,そのかん1929年と1930年に2回の講演会を主催するなど,旺盛な活動を展開した。この過程で制作された創宇社のアンビルトが具体的にどのようなものであったかを伝える資料は多くない。しかし,当時の建築雑誌に掲載された小さな図版 *6 を見る限り,単純な立体を組み合わせた素朴な石膏模型である。【図8】【図11】しかし,1927年12月の第5回展前後にそのタイトルが変化する。それ以前に散見された「コムポジション」「面と線」「建築構成」といった抽象的なものに代わって「印刷工場」「労働会館」「労働診療所」「無料図書館」「消費組合食堂」「紡績工場の女子寄宿舎」「無料宿泊所」など具体的な施設名が増加するのだ*7  。【図12】【図15】

(左より)【図8】岡村蚊象「音楽堂」(『建築新潮』第5年第2号,1924年2月) 【図9】小川光三「会館」(『建築畫報』第16巻第9号,1925年9月) 【図10】岡村蚊象「ある建築草案」(『建築新潮』第7年第12号,1926年12月) 【図11】山口栄一「住居」(同前)

(左上より)【図12】渡苅雄「硝子製品工場」(『建築新潮』第9年第1号,1928年1月) 【図13】梅田穣「労働会館」(同前) 【図14】海老原一郎「労働者診療所」(『建築新潮』第10年第4号,1929年4月) 【図15】野口巌「労働保険館」(『建築畫報』第21巻第2号,1930年2月)

 このことは,建築家の目的意識が,新しい建築様式の創造から社会変革へと移ったことを示している。それらのタイトルに示された施設は,彼らが現実の社会に望みながら,いまだ実現していないものなである。背景には,マルクス主義の影響とプロレタリア文化運動の高まりがあった。
 たとえば「印刷工場」(今泉善一,1929年)*8は,1926年に発生した共同印刷株式会社における労働争議を連想させる。この争議には演劇人や美術家が連帯を表明し,渦中にいた徳永直はその経験をもとに小説「太陽のない街」(1929年)を書いた。翌1930年には村山知義演出により築地小劇場で上演されてもいる。

 創宇社の「印刷工場」は単なるビルディングタイプの事例ではなく,プロレタリア革命実現後の理想の工場なのである。彼らは,同時代の社会状況に呼応し,それを建築の主題に取り込むことによって,現実社会とのリアルな関係を確認しようとした。

 この変化を総括したのが,岡村蚊象の講演「合理主義反省の要望」*9である。ここで岡村は,建築における自然科学偏重の合理主義に対して,社会科学的な検討の重要性を主張する。理想の社会にどのような施設が必要かをアンビルトによって示し,その実現の方法を探求することこそが建築家の実践であるという。

 こうした創宇社の主張を,川喜田煉七郎は「科学性の乏しい小児病」と批判した*10。言うまでもなくレーニンの著作『共産主義における左翼小児病』(1920年,邦訳出版は1926年と1928年)から引いたものだ。レーニン主義のいう「小児病」とは,客観情勢を無視して目的を実現しようとする急進主義を批判するのに用いられた語だが,川喜田の批判は,創宇社のアンビルトがその具体的内容を示そうとせず,すなわち建築を成立させる客観的情勢を等閑に付したまま,題目のみに頼ってイデオロギーを主張している点に向けられたものである。

 この川喜田もまた,分離派建築会フォロワーのひとりであった。分離派建築会第6回展(1927年1月)に「或る音楽礼拝堂の設計(霊楽堂)」 【図2】,続く第7回展(1928年9月)に「浅草改造案」*11と題したアンビルトの大作で入選を果たし,1929年4月に東京高等工業学校附設教員養成所建築科の後輩とともにAS会を立ち上げ,「映画館兼かげえ劇場」【図16】「十万人野外映画館」【図17】といったアンビルトを精力的に発表していた*12。川喜田にとってのアンビルトは,続出する新しい科学技術によって可能となる建築の新しい形式の発明であったから,その機構を徹底して説明するものだった。風変わりなタイトルの前者は映画と実演による動く影絵を同時にスクリーンに映し出す新しい上演施設であり,後者はひとつの映像を一時にどれだけ多くの観客に供給できるかというマスメディアの試みである。

【図16】川喜田煉七郎 浅草改造案(『建築新潮』第9年第11号,1928年11月) 【図17】民衆映画館兼かげえ劇場(『建築畫報』第20巻第7号,1929年7月) 【図18】十万人野外映画館(同前)

 川喜田の技術志向は,しかし,創宇社側には超階級趣味と映った。マルクス主義における生産関係の基本は生産手段の所有関係なのだから,人間相互の関係である階級を無視して建築生産を問題にすることはできないというのである*13

アンビルトの解体―新興建築家連盟

 アンビルトに対する態度が政治的であれ非政治的であれ,それがアンビルトであるかぎり,そのリアリティには限界がある。重要だというのに,いつまでも建たないのなら建築とは認められない。1928年以降のモダニズム建築運動には,現実への帰結の回路が閉ざされたまま,運動の内部でリアリティを高めることが求められていた。

 この閉塞感は,やがてアンビルトと展覧会という方法論への懐疑を生む。1930年1月,前出の川喜田は次のように書いた。

 我々が建築発表の形式に於て先づ要求するものは、所謂〈提案〉でも〈設計〉でもない。〈何がこれを計画せしめたか〉をはっきりと大衆に直接に知らしめる事である。在来の作品展覧会に於てその模型やパースベクテイヴの裏にかくれて見えなかったものをしっかりと掴みだし、在来の実験室の特殊な報告にすぎなかったものをあく迄一般化し、方向づけていく事である 。


 川喜田はそれを「レポート」と呼ぶ。「我々の団結的な分担綜合による他には,このレポートの形式を満足せしめ得ない事が明瞭になつて来る。同時に,個人の作家や研究者の名はかゝるレポートから明らかに完全に消滅すべき運命にしかない」*14【図19】

【図19】「レポート」の一例 竹村新太郎「サナトリウム」(『建築新潮』第12年第2号,1931年2月)

 岡村蚊象の「丘上の記念塔」にしても,川喜田煉七郎の「或る音楽礼拝堂の設計」にしても,今日の眼からすれば,突出した才能の産物というほかない。しかし,1930年の時点で,当の本人がそれを認めるわけにはいかなかった。自分たちが推進してきたモダニズム建築運動が否定してきたものこそ,そうした天才や個性であり,目指してきたものこそ一般性や普遍性だったからである。

 アンビルトは建築的総合の似姿かもしれないが,今やハリボテでしか見えなかった。必要なことは,結果としての総合を解体し,その過程を共有すること。これが運動の担い手たちが到達した認識であった。

 その実現のために,アンビルトと展覧会に代わる,新たな方法と体制が求められていた。それが,1930年7月に結成された新興建築家連盟だったが,「大衆赤化歳末闘争」の一環と報じられ*15,たちまち解散に追い込まれる。運動を現実に帰結させるプログラムは、始動することなく頓挫した。連盟の解散以降、 運動の機運は一気に衰退する。運動の季節の終わりであった。

ummy.info



 

*1:『分離派建築会宣言と作品』1920年,岩波書店

*2:同前

*3:『建築新潮』第8年第3号(1927年3月)「分離派建築会第六回展覧会号」

*4:『建築新潮』第5年第6号(1924年6月)

*5:『分離派建築会の作品』1924年,岩波書店

*6:『建築新潮』第9年第1号(1928年1月),『建築畫報』第19巻第2号(1928年2月)

*7:創宇社展の出品作題目は『建築家山口文象 人と作品』1982年,相模書房,pp.65-68による。

*8:『建築新潮』第11年第5号(1930年5月),p.21

*9:『国際建築』第5巻第11号(1929年11月)

*10:川喜田「仁壽生命保険会社の新建築を見て」『建築新潮』第10年第8号(1929年8月),同「建築の展覧会とその作品 創宇社の感想」『建築世界』第24巻第2号(1930年2月)

*11:『建築新潮』第9年第11号(1928年11月

*12:『建築畫報』第20巻第7号(1929年7月)

*13:竹村新太郎「建築実践とは」『建築新潮』第11年第5号(1930年5月)

*14:RRRRRRR生「所謂〈レポート〉の形式について」『建築新潮』第12年第1号(1931年1月),「RRRRRRR生」は川喜田の筆名

*15:『読売新聞』1930年11月13日7面