初出:デザイン史フォーラム(編)『国際デザイン史―日本の意匠と東西交流』思文閣出版 pp.92-97 発行日:2001年5月
※WEB掲載に際して若干の加筆修正と図版追加を行った。
1930年代日本の国産鋼管家具とバウハウス周辺
梅宮弘光
20世紀の傑作
レイナー・バナム(1922-1988)は『第一機械時代の理論とデザイン』において片持ち梁式の鋼管椅子を「20世紀の傑作」と評している*1。しかし,その意味は,傑作という言葉から連想しがちな,存在の唯一性ではない。「このデザインはたちまち受け容れられ。鋼管椅子の完成したデザインとして長足の勢いで広範に広まっていった。ショワジイのフライングバットレスのように,それはあたかも,しぜんに生み出された名もない〈時代精神〉の産物のようである」*2。すなわち,この鋼管椅子の意義は,その唯一性,特殊性にあるのではなく,無数の類例を生み出すことになる思想的多産性とその源泉となった形式として「傑作」だというのである。
この椅子のオリジナルについてはいくつかのエピソードが輻輳しているが,オランダ人建築家マルト・スタム(1899-1986)のアイデアが基となって,マルセル・ブロイヤー(1902-1981),ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969)が,L&Cアルノルト社や曲木椅子で知られるトーネット社の協力を得て製品化したとされる*3。【図1】
オリジナルは誰かという問題もさることながら,バナムに従えば,むしろ注目すべきは,この片持ち梁式鋼管椅子の原理とそれを生み出した時代精神の方であろう。
それを概括すればモダニズムであり,デザインにおけるモダニズムとしてこの時期もっとも重要と考えられるのは,「形成(Gestaltung)」という概念であろう。それは,機能,材料,衛生,経済,生産といったモノと人間をめぐる諸要素を組織化することであった。形成は,バウハウスにおいてもその内部に変節を含みながら重要な概念であり続けたが,バウハウスのみならず同時代の全ヨーロッパのアヴァンギャルドにも共有されたものだった。
アヴァンギャルディズムとしてのデザインは,現実的な生産サイクルにのって大量生産され,モノを通して世界を再編していくものと考えられたから,メーカーとの協働態勢は必須であった。前述のL&Cアルノルト社,トーネット社をはじめスタンダード家具会社,デスタ社が,建築アヴァンギャルドたちのデザインに基づいて鋼管椅子を生産するようになった。
1926年12月に竣工したデッサウのバウハウス校舎や,そのしばらく後の1927年7月に開催されたヴァイセンホーフ・ジードルング展などを通じて,鋼管椅子は耳目を集めるようになる。この時期になると,ヴァイセンホーフ・ジードルング展で示されたような新しい住まい方とその装置としての住宅や家具の新しい形式が,とくに左翼知識層で流行した。しかし一方,中間層や労働者層には一般に不評だった。彼らにとって金属製の家具は病院や戸外で使われるものという先入観が根強くあった。事実,スタムが最初に試作を持ち込んだL&Cアルノルト社の主要製品は庭園や病院用の金属家具だったし,アメリカで1922年に特許申請されたハリー・ノランによる鋼管椅子は,その名も「ローン・チェア」(芝生庭用の椅子)だったのである*4。
鋼管椅子は,アヴァンギャルド,メーカー,大衆のそれぞれの思惑が絡まりながら,ともかく今日のような一定の普及をみた。それは先端思想の普及過程のひとつのパタンを示していよう。
日本にとっての鋼管椅子
鋼管椅子は,ほどなく日本にも入ってくるのである。西洋近代受容においては,日本的伝統との間にさまざまな軋轢がある。こと椅子についていえば,それはユカ座/イス座という起居様式に関わるものであった。
大正期から昭和戦前期にかけて,事務所,学校,工場,劇場など効率性が重視される場面ではいちはやくイス座が導入された。しかし,昼間そういうところで洋服を着てイスにすわって仕事をする人も,夕方家に戻れば和服に着替えて畳の上で暮らすというのが一般的だったのである。この時期には,住生活の近代化を掲げる生活改善運動のなかで,西洋風のライフスタイルの提唱も行われ,椅子の導入も図られたが一部にとどまった。民衆レベルで生活の全般に椅子が入り込んでくるのは,第二次世界大戦後といわれる。
鋼管椅子が日本に最初に紹介されたのは,1928年の3月から5月まで東京府美術館で開催された「佛蘭西装飾美術家協会展覧會」だったとされる*5。ルイ・ソオニョ作の鋼管椅子が展示された。そのすぐ後にこの展覧会の様子を伝えた『建築畫報』7月号は,ソオニョ作の交換椅子の対向ページにヴァイセンホーフ・ジードルングの室内におかれた鋼管椅子の写真を掲載した。おそらくこのふたつによって,日本人建築家や工芸家たちの多くは鋼管椅子を知ることになったと考えられる。
したがって,日本にとっての鋼管椅子という問題は二重構造なのである。すなわち,日本の住文化にとっての椅子という相と,椅子の変革としての鋼管椅子という相である。後にもふれるバウハウス留学中の建築家山脇巖(1898-1987)が,ドイツから日本の建築雑誌に送ったレポート「独逸に於ける鋼鉄家具の傾向」*6でまず腐心するのは,椅子の種類の説明だった。ドイツ語の名称に訳語を当てるにも一苦労といった感がある。このことは鋼管家具が,民衆レベルでのイス座文化が未成熟な段階で一足飛びにやってきたことを示している。
アヴァンギャルドへの影響
日本人建築家がデザインした鋼管椅子で早い例のひとつは,バウハウスから帰国した水谷武彦(1898-1969)が1931年3月に発表したものがある。水谷は,バウハウスの予備課程でモホイ=ナジ(1895-1946)とヨゼフ・アルバース(1888-1976)に学んだ後,家具工房でブロイヤーに学び1930年1月に帰国,母校東京美術学校の助教授として教鞭を執っていた。鋼管椅子に接したのは,ブロイヤーのもとでだったという。同年11月以来,丹波屋商店の依頼で鋼管椅子数種と机をデザインし横浜船渠での製造を監督,試行錯誤を経て発表に至った*7。これらは,同年5月に開催された「家庭用品改善展覧会」(生活改善同盟・大日本連合婦人会主催)でも展示された*8。【図2】
いまひとつの早い例としてあげておくべきは,建築家土浦亀城(1897-1996)の実践である。土浦は1931年に竣工する谷井邸,自邸(第一)以降,乾式構造(トロッケンバウ;Trockenmontage Bau)で次々と住宅設計を行っていった。それらの室内に置く椅子として,当初水道管を用いて試作するが,強度と弾性が得られる失敗した。しかし,その後の一連の住宅には必ず鋼管椅子が用いられた。【図3】
日本における乾式構造は,ヴァイセンホーフ・ジードルングでグロピウスが試みた組み立て住宅に刺激されて試みが始まった。グロピウスの作品は鉄骨の骨組みであったが,日本では技術的にも経済的にも金属骨組みは実現せず,もっぱら木造骨組みが用いられた。これに外壁,内壁,屋根,床とそれぞれの部位ごとに適材適所の材料を取り付けることによって完成させる方式である。各部位に,工業生産により性能が高く価格は低い材料を用いるなら,高品質低価格の住宅が実現できる。それが民衆のための理想的な住宅だという考え方である。
1930年代前半には,一群の若手建築家によってこうした乾式構造の住宅が試みられた。先の土浦のほかに,蔵田周忠(1895-1966),市浦健(1904-1981),山越邦彦(1900-1980)らである。そして,これらの住宅には,必ず鋼管椅子が組み合わされた。鋼管椅子は,鋼管による骨組に革,布,籐など必要に応じた素材が座や背に組み合わされる。すなわち,乾式構造の住宅と鋼管椅子は同じ設計理念によっているのである。
こうした実践には,ひとつには日本の住宅建築や住文化の改革に向かう志向が認められよう。しかし,日本におけるモダニズム受容の観点からここで筆者が注目したいのは,前述したような設計理念を支えているアヴァンギャルドに共有されていた時代精神である。
たとえば市浦健は乾式構造を説明するのに「建築構造学」とう概念を用いる。そして「建築構造学」とは従来の構造力学ではなく「構造力学と材料学とを建築構成へと結びつける工学」だという*9。また山越邦彦は,建築における力学的エネルギーを扱う「構造力学」,光や熱や音といったエネルギーを扱う「遮断学」,材料の物理的・化学的特性を扱う「耐構学」の三部門を統合する「構築」概念を提唱する*10。さらに川喜田煉七郎は,1920年代末に蓄積したバウハウス情報に加えて,ラッシュ兄弟による著書"Wie Bauen?" 1928の翻訳(『構築』1931年*11)や"Der Stuhl" 1928)を参照*12しながら「構成教育」と呼ばれる造形教育活動を展開する*13。
「構造」といい「構成」といい「構築」といい,1930年代前半に日本の建築アヴァンギャルドが提唱した「構」という文字をめぐる新概念は,デザインを成立させる諸要素が理想的に組織化された状態を指す。そうした理念は,彼らがグロピウス時代からハンネス・マイヤー時代までのバウハウスの変節をたどりながら辿り着いたものにほかならない。片持ち梁式の鋼管椅子は,そんな彼らにとって構成の理想状態の端的な形象と映ったのである。
国産メーカーの動向
1930年代初頭には,すでにいくつかの国産鋼管家具ブランドがあった。横浜船渠製造,丹波屋商店取扱の水谷武彦デザインによるものについては,すでにふれた。これ以外にYSY,SSSというブランドがあった。ほかに日本鋼管が製造していたという記述*14があるが実態は不明である。
YSYブランドは日本金属加工株式会社(本社大阪)の製造する鋼管家具である。『国際建築』の記事「YSY鋼管家具の製作」*15で同社社長湯浅譲が述べるところによれば,YSY商標の鋼管椅子が製品化される経緯は次のようである。湯浅は日本金属加工株式会社の前身である湯浅伸銅株式会社から銅や真鍮パイプの新用途調査の命を受け,1920年にヨーロッパに渡る。ドイツで真鍮パイプでつくられた家具を知り,工場を見学し「種々材料を集め」1923年に帰国する。翌24年から「日本で初」めて「パイプを使用した家具」の製造を始める。この辞典では,真鍮パイプを用いた単純なものだったようである。その後,滞欧中に知り合った吉田享二(1887-1951,早稲田大学教授,材料工学)の技術指導のもと1928年の春に鋼管家具を製作する。これが日本で製作された鋼管家具の最初だという。
SSSブランドは東京建材工業所のものである。『スチール家具産業史』*16によれば,1924年創立で,鋼鉄家具,ベニシアン・ブラインドを製作していた。1939年に東京建材株式会社となる。当時「鋼鉄家具」という場合は,おもに薄鋼板をもちいたキャビネットや積層書架を指す。1930年代中頃のものと思われる同社のカタログによれば,1924年よりドイツ製の「鋼管湾曲機」を導入して鋼管家具を製作し始めたとあり,創立当初より鋼管家具を製作していたことになるが,それらがどのようなものだったかは手掛かりがない。
筆者はかついてこれら両ブランドの製品を検討したことがある*17。その結果,YSYではほぼ半数,SSSでは約三分の一についてオリジナル・モデルが特定できた。それらのデザイナーは,スタム。ブロイヤー,ミース,ル・コルビュジエ(1887-1965),アンドレ・リュルサ(1894-1970),アントン・ローレンツ(1891-1964),ルックハルト兄弟(ヴァシリー;1889-1972,ハンス;1890-1954),エーリッヒ・ディークマン(1896-1944)であった。なお,前述のYSYのカタログ表紙の意匠には,トーネット社の1930~31年モデルを収録したカタログの模倣がみられることから,同社の影響があったことが推測される。【図4】
大衆のなかの鋼管椅子
最後に,鋼管椅子が大衆のなかでどのように捉えられていたのか,若干の手掛かりについてふれておきたい。
日本における椅子の普及状況については先に述べた。それを考慮するなら。アヴァンギャルドたちが設計した乾式構造の住宅やその室内の鋼管椅子は,あくまで例外的な存在だったと言うほかない。一方,前述のSSSのカタログには,納入実績を示すためであろう,鋼管椅子が設置された伊勢丹デパートのパーラーとボールルーム・フロリダの室内写真が掲載されている。大衆が鋼管椅子に出会う場面は,むしろこうした先端的な都市風俗においてだっただろう。このようなモダン風俗の象徴としての鋼管椅子は,1930年代の絵画にも登場する。太田聴雨(1896-1958)《種痘》(1934)【図5】,谷口富美枝(1910-2001)《装う人々》(1935)【図6】,吉岡堅二(1906-90年)《椅子による女》(1931年)【図7】,由里本景子(19006-2000年)《望遠鏡》(1940年)【図8】,中村研一(1895-1967)《瀬戸内海》(1935)【図9】。日本画,油画ともに鋼管椅子の形状や金属の質感が主要なモチーフとなっており,それは,好む好まぬは別にしても多くの人が鋼管椅子に対して抱くであろう新味を前提として成立する主題といえる。
昭和戦前期の日本が,ドイツから発した時代精神の波をどのように受けとめたかを具体的に示す国際鋼管椅子の実物は,今日ほとんど残っていない。そもそも生産量が少なかったのか,品質が悪いために壊れたのか,いくつかの要因が重なっていると思われるが,1942-43年の金属回収例の影響も小さくないだろう。金属に代わって登場したのが竹である。この時期,竹は日本が誇る優れた材料だと喧伝された。1941年,商工省貿易局の招きで来日したフランス人女性デザイナー,シャルロット・ペリアン(1903-1999)が,かつてル・コルビュジエとともに鋼管でデザインした寝椅子を,竹でリ・デザインしたことは,この間の状況の変化を象徴している。
謝辞 川畑直道氏に貴重な資料の提供と有益な助言を賜りました。記して謝意を表します。
*1:Reyner Banham, Theory and Design in The First Machine Age (2nd ed.), The MIT Press, 1980, p.180
*2:Ibid. p.198
*3:矢代眞己,近江栄「マルト・スタムによる〈鋼管製片持ち方式椅子〉について」『平成3年度日本大学理工学部学術講演会論文集』pp.371-372。矢代眞己『建築家マルト・スタムの事績と建築理念に関する研究』日本大学博士学位論文,1996年
*4:Otakar Macel, From mass production to design classic ; Mies van der Rohe's metal furniture, Vitra Design Museum(ed), Mies van der Rohe : Architecture and Design, Skira, 1998, p.26
*5:川喜田煉七郎「佛展のアンサンブルにて」『建築畫報』第19巻第7号(1927年7月),松本政雄「金属家具の発達及其の形態」『国際建築』第8号第3号(1932年3月)
*6:『国際建築』第8号第3号(1932年3月)
*7:水谷武彦「鋼管家具」『帝国工芸』第5巻第5号(1931年5月)
*8:川喜田煉七郎「家庭用品改善展覧会の設計に関連して」『建築畫報』第22巻第7号(1931年7月)
*9:市浦健「住宅と乾式構造」『国際建築』第8巻第3号(1932年3月)
*10:山越邦彦『耐構学(金属篇)』(『建築学会パンフレット』第5輯第6号)pp.2-3
*11:ハインツ,ボード・ラッシュ,川喜田煉七郎(訳)「構築」1~17(『建築畫報』第22巻第8号から第24巻第6号まで断続的連載)
*12:川喜田煉七郎『家具と室内構成』洪洋社,1931年
*13:拙稿「川喜田煉七郎によるデザイン教育活動の消長」『デザイン理論』29号(1990年),同「川喜田煉七郎によるデザイン教育活動の展開方法について」『日本建築学会大会学術講演会梗概集F』1991年
*14:松本政雄「金属家具の発達及其の形態」『国際建築』第8巻第3号
*15:同前
*16:八木朝久『スチール家具産業史』株式会社近代家具,1976年
*17:拙稿「YSY商標とSSS商標の鋼管椅子について」『日本建築学会大会学術講演会梗概集』1999年