著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

「帝国の大玄関番」と遠ざかるミナト―神戸税関庁舎

所収:『まちなみ』第29巻第333号(2005年4月),大阪建築士事務所協会 pp.10-13

発行日:2005年4月


〈帝国の大玄関番〉と遠ざかるミナト─神戸税関庁舎
梅宮弘光(神戸大学発達科学部助教授)

遠ざかるミナト

 ミナトコウベが苦戦している。1975年には世界一を誇ったコンテナ取扱量が、2003年には29位。ちなみに横浜港28位、日本一の東京港で7位。一方世界のトップスリーは香港、シンガポール、上海。以下、深圸(中国)、釜山(韓国)、高雄(台湾)。大中華圏の港が上位を独占している。この年、神戸港のコンテナ取扱量は2.6%の伸び。2年ぶりに増加に転じた。ところが、香港、シンガポールの伸び率はその10倍。勝負にならない。
 問題は港湾サービスにあるといわれる。世界トップクラスの港湾設備をもちながら、投資が使用料にはね返っている。加えて、煩瑣な手続き、時間のかかる入出港。震災の痛手も追い討ちをかけた。
 今日、物流の主流はコンテナである。世界の港はコンテナ輸送に対応したハード、ソフトの高度化にしのぎを削ってきた。日本は、国策として整備を急いだ中国・韓国にすっかり水をあけられた。かつてなら神戸港に集まってきた九州・瀬戸内の貿易貨物も、今は釜山経由で輸出した方がトータルで安くつく。かくて、コンテナ輸送のハブ機能は中国大陸沿岸に移っていった。
 苦戦しているのは物流だけではない。人の流れもまた…。2003年に神戸市が東京・仙台・福岡でおこなった「神戸のイメージ調査」によると、神戸のイメージでは「港」(30.2%)が最も高く、次いで「異国情緒」(28.7%)、「お洒落なファッション」(15.6%)、「六甲の山と緑」(11.9%)、「グルメ」(5.9%)と続く。ミナトコウベのイメージ健在と思いきや、「神戸といえばどこを連想するか」という設問では「北野異人館街」がトップ、以下「三宮・元町」「六甲・摩耶」。行ってみたいところの上位は「有馬温泉」「北野異人館街」「六甲・摩耶」「明石海峡大橋」。港にはかすりもしない。
 同様の調査は1977(昭和52)年にも行われたことがある。異人館ブームのきっかけとなったNHK朝の連続テレビドラマ「風見鶏」が放映されていた最中のこと。このときは、最も神戸らしさを感じる場所が、「三宮」(32%)、「神戸港」(23.0%、「六甲」(22.0%)、「北野異人館街」(15.0%)、いちばん行ってみたいところの上位が「六甲」「北野異人館街」「三宮」「神戸港」だった。四半世紀を経て、港の地位は後退したというほかない。異人館も居留地も、そもそもは港に端を発するが、時間的・空間的にも相互のリンクは切れているだろう。
 こうした現象も時の流れではある。物流システムの高度化にともなって、岸壁で行われていた荷役は人工島の向こう側に移っていった。もう艀も引き込み線もいらない。中突堤とメリケン波止場の間にあった艀溜まりは1987年に埋め立てられた。明治以来各突堤に張り巡らされた引き込み線は縮小され、最後の臨港線が2003年に廃止された。
 港が街から遠ざかっていく。見えにくくなる。そのあとの岸壁に、親水空間と称する海辺の公園と物販ゾーンが出現した。物流は熾烈な国際間競争の中でひたすらハードでリアルな港をめざし、親水は抜け殻となったかつての港の空疎を埋めるように、チープで甘ったるいイメージを流し込んでいく。その物流と親水の狭間に、ミナトコウベのイメージがたよりなく漂っている。

興隆期の街

 ミナトコウベのイメージとはなんだろう。それは、開港以来のさまざまな文化集積の総体だとしても、決定的なのはやはり神戸港の興隆期のそれだろう。大正から昭和戦前期にかけて、神戸港は第1期修築時代(1906=明治39年~)と第2期修築時代(1919=大正8~1923=大正12年)によって近代的港湾としての骨格を整え、国の重要港に指定された。現在「新港」と呼ばれている部分である。
 この時代は、神戸の街の興隆期でもあった。1899(明治32)年に租借解消された居留地に日本企業が進出し、栄町通には銀行や保険会社、海岸通には商社や船会社の社屋が建てられていった。居留地は旧居留地となり、神戸の新しいビジネスセンターとなった。
 神戸港の物流の増加は道路整備を促し、1926(昭和元)年には阪神国道(後の国道2号線)が開通。阪神電気鉄道が33年(昭和8)年に岩屋―三宮間を地下で結び、36年に三宮―元町間を開通させると、同年阪急電鉄も神戸側の終着・上筒井から高架で三宮乗り入れを果たした。相次ぐ私鉄の三宮乗り入れに刺激された省線は、山陽~東海道本線の電化を次々と伸延し、長大な流線型急行モハ52を投入。三つどもえのスピード競争が展開された。
 この時代は、日本の客船史上でも黄金時代。第一次世界大戦参戦国の船が軍事徴集により減少すると、太平洋航路は日本船の独占状態となった。日本郵船、大阪商船等の有力船会社は、優秀客船を続々と遠洋航路に投入していった。大戦後に船腹過剰や海運不況があったものの、1930年代に入ると国際情勢の変化で好況に転じ、日本の船腹量は英米に次ぐ世界第3位となった。
 版画家・川西英(1894~1965年)の連作「神戸百景」(1933~36年)に登場する港の風景は、ちょうどこの頃の神戸港である【写真1】。青い海と大型船、クレーン、倉庫群、引き込み線には蒸気機関車、自動車と客待ちの人力車、中折れ帽の紳士と日傘に和装女性のカップル、学生にセーラー服のマドロスたち。空には白い雲と飛行機、船から降りた外国人観光客を乗せて街に向かう人力車、出航の船と岸壁を結ぶ無数の紙テープ・・・。それは海の玄関口にふさわしい活気ある光景。近寄れば猥雑なエネルギーに満ちて、しかし遠目にはエキゾティックでモダンなミナトコウベのイメージである。
 神戸税関の新庁舎【写真2】が新築されたのは、まさにこの時期である。開港と同時に兵庫県が設置した運上所から数えて、都合4代目。業務が大蔵省直轄となった1873(明治6)年、同所にコロニアル様式石造2階建て庁舎を新築し神戸税関と称した。以後、行政事務拡大にともない庁舎周辺に木造庁舎の増築が繰り返される。1922(大正11)年の失火により焼失があっても、大戦景気に沸いて取扱事務は膨張の一途。新庁舎の建設が決められた。
 おりしも神戸港第2期修築工事が完了したばかり【写真3】。敷地は4本の新築突堤のうち第2突堤(現在の第3突堤)の付け根に定められた。2突は、かつての生田川の付け替えによって生まれた南北道路(現在のフラワーロード)の延長上にあたる。引き込み線も整備されると、『神戸税関沿革略史』(神戸税関、1931年)の言うとおり、まさに「帝国の大玄関番たる税関として決して恥しからぬ近世式大庁舎」の計画であった【写真4】。

新生の庁舎

 設計は大蔵省営繕管財局神戸出張所、請負は広島市の森田福市で1923(大正12)年起工、1927(昭和2)年竣工。鉄筋コンクリート造地下1階、地上4階、円筒形の塔屋までで8階。地階はむしろ半地下といえるもので、地上に現れた胴蛇腹部分が北木産の花崗岩粗石積み、その上1階部分の壁は花崗岩切石積み、2~4階の壁面は味わい深いテクスチャーをもつ淡褐色のタイル(大田川製陶製)。最上階の軒蛇腹の上下部分と屋上パラペットおよび塔屋は擬石塗り。
 様式をあえていうならゼツェションということになろうか。それは19世紀末にドイツ語圏で起こった芸術運動の総称。、建築では、左右対称を基本とする様式主義の大枠は崩さずに、細部におけるユーゲント・シュティル(=アール・ヌーヴォー)的要素の幾何学的変奏を特徴とする。日本においても明治末期から大正期に流行。
 そうした建物を私たちが見るとき、無意識のうちに探しているのは、後者のユーゲント・シュティル的細部と、その変奏の妙であろう。しかし、神戸税関庁舎にそれを求めても無駄である。あるのは前者のみ、つまり建物隅部の玄関を格式づけるために両脇のツメで挟む構成、粗石・切石・タイルからなる立面の3層構成、末から元まで同寸のまっすぐな円柱、軒蛇腹(コーニス)。これらはみな、簡略化された様式建築の大型パーツである。
 その極めつけが、北東隅部の塔屋だろう。この塔、庁舎4階から専用エレベータがついている。円形のエレベータ・シャフトの外周に螺旋階段。たしかに絶好の展望スペースではある。しかし、たとえば監視など税関業務に用いられるわけでもなかったらしい。竣工当時の平面図を見ても室名はない。時計台や雨水タンクが設置されていたが、それとてなくてはならぬというものでもない。つまりこの塔の主たる機能は、象徴以外にはないのだ。
 様式主義建築の場合、中央に搭を据えて左右に翼を延ばし両端部を少し前にせり出させるという左右対称一文字型平面(たとえば国会議事堂のような)は一般的だ。その一文字を、塔を中心として向こう側に90度以上曲げる。そうすると神戸税関のような隅部ができる。その立面に4本の付け柱とその間の3連アーチをつけると北東角のファサードになる。南東側も同様。しかしこちらには、塔屋がない。付け柱も2本、アーチもひとつ。おのずと、正副の関係ができる。いうまでもなく、ランドマークとしての存在感と威厳はこの塔屋によって生まれている。いわば税関の顔。港の大玄関の番人は街の方を向いて立っているわけだ。
 こうした簡略化された様式性と象徴的な塔の組み合わせは、大正中期から昭和初期にかけて、官衙建築の典型だった。ここで関西におけるいくつかのヴァリエーションを紹介しておこう。大阪税関(1928年、大蔵省)【写真5】。エントランスにペア・コラム(2本1組にされた柱)が用いられてバロック風だが、塔頂部は直線的な装飾でゼツェション味が勝る。兵庫県会議事堂(1921年、兵庫県営繕課)【写真6】。エントランスは古典的で、塔はルネサンスを加味したゼツェション。兵庫県立第一高等女学校(1922年、兵庫県営繕課)【写真7】は塔をつけなかった場合。こころもち和やかさが増すように見える。反対に、塔がなくても押しを強くできるという例が三宮警察署(1923年、兵庫県営繕課:置塩章)【写真8】。
 もうひとつ、ある年代より上の諸兄姉ならば、神戸税関とよく似た建物を懐かしく思い出されるのではないか。昔の刑事ドラマにきまって登場したアレ。通称、桜田門。警視庁庁舎(1931年、大蔵省)【写真9】である。時代が下るだけあって立面の様式的構成はさらに希薄になっているが、ちょっとした装飾によって隅部や出入り口を特化するやり方は同じ。こちらの場合は、ゴシック風のリブによる。
 閑話休題。内部を見る。エントランスを上がったところに円形のホール【写真10】。ここが塔屋の下の部分。3層の吹き抜けが8本の八角柱で支えられている。床にはモザイク・タイルで8つの円を重ねた幾何学的構成。質実剛健な外見からすれば華のある空間。変形の四角形平面は、大きな執務空間を中央にとり、周囲に廊下を巡らせ、さらに外側に諸室を配置するというもの。各階において、この円形ホールが結節点となる【図1】。
 ファサードにおける玄関の上、つまり円形ホールに面した2階東側の四分の一扇形は貴賓室である【写真11】。寄せ木細工の床、フルーテイング付きの柱、ペア・コラムで装飾された鏡、窓にはゴブラン織風のカーテン、縁飾り付きの天井、チーク材の枠に唐草の型ガラス。バロック調にまとめられた艶のある空間である。
 円形ホールの奥が2層吹き抜けの大執務スペース。その周りに巡らされたカウンターは岡山の万成産の御影石。さらに外側に公衆溜【写真12】。税関での手続きには、さまざまな人がやって来る。送り主、受け主、船会社、代理店、運送業、倉庫業、銀行、役人、旅行者…。この空間は、かつての銀行を思わせる。

再生とノスタルジア

 しかし、この空間は今はない。1996(平成8)年から2年にわたる神戸税関再生計画において、本庁舎と西側にあった戦後の3棟が統合され、新庁舎(1998年、国土交通省近畿地方整備局営繕部、日建設計)が完成した。この計画の中で、かつての執務空間は中庭に変わった【写真13】。今はかつての執務空間の名残をとどめるように、独立柱やカウンターがオブジェとして配置されている。
 この再生計画における保存・再生問題については、足立裕司氏が建築史学の立場から的確な分析と論点の指摘を行っておられ(「リサイクル・アーキテクチュア 近代建築の保存と再生1 神戸税関」『建築知識』2002年9月号)、筆者などが言えることはなにもない。ただ最後に、この再生計画に払われた多大な努力に敬意を表しながらも抱かざるを得ないある種の感慨についてふれておきたい。
 それは、かつての執務空間だった中庭を眺めながら「あー、ここでも」という思いである。ミナトは遠くなったと改めて思う。不在となった〈ミナト=かつての執務空間〉のあとに〈公園=中庭〉が挿入されている。この一文の前半で述べた図式である。ここでも、神戸港全体と同じ図式が繰り返されているのだ。
 今日、物流高度化の切り札のひとつとして電子タグが注目されているという。識別データを記録した超小型の集積回路内蔵の荷札で、バーコードより膨大な情報を記録でき、無線でデータを読み取る。箱から荷物を出さなくても識別や生産履歴、物流経路などを瞬時に把握できる。荷物のすり替えも監視できるので、テロ対策にも有効だとされる。
 一方、通関業務も電子化が進んでいるという。コンピュータ・ネットワークで税関・銀行・関係会社・中央官庁を結び、輸出入申告を迅速かつ性格に行うシステムはすでに導入されている。これで入出港・船卸/船積・申告・許可・引き取りの一連のプロセスすべてを処理できるという。
 つまりペーパーレス化の進展である。当然、紙媒体と人手に対応した空間は変わらざるを得ない。かつての執務空間が不要になるのは時の趨勢である。では、そのあとはどうなるのか。
 空間の高度利用、安全、バリアフリー、経済効率…。たしかに配慮すべき点は多い。一方、テレビのリフォーム番組などでは、記憶をべつなものに変換するのが大流行だ。それで癒されるのだという。
 違和感がある。へんにいじってほしくない、もとのままがいい、との思いを捨てがたい。現実的でない。たしかにそのとおり。単なるノスタルジアだ。私もそう思う。だけど、ノスタルジアはいりませんか? それは大人の特権だと思う。

謝辞:神戸税関庁舎見学に際し神戸税関広報室室長・浜本賢治氏にたいへんお世話になりました。記して謝意を表します。

 

キャプション:
【写真1】川西英「突堤」(「神戸百計81)1936年
【写真2】正面から見た神戸税関庁舎
【写真3】1927年の神戸「新港」
【写真4】竣工時の神戸税関庁舎とその周辺
【写真5】大阪税関庁舎 1928年
【写真6】兵庫県会議事堂 1921年
【写真7】兵庫県立第一高等女学校 1922年
【写真8】三宮警察署 1923年
【写真9】警視庁 1931年
【写真10】玄関ホールの吹き抜け見上げ
【写真11】扇型平面の貴賓室
【写真12】竣工当時の1階執務スペース
【写真13】新館から中庭を介して旧館を臨む
【図1】竣工時の1階平面図

略歴
梅宮弘光(うめみや ひろみつ)
1982年近畿大学工学部建築学科卒業。83-87年鹿島出版会『都市住宅』『SD別冊』編集部。89年京都工芸繊維大学大学院修士課程修了。94年神戸大学大学院博士課程修了。94年神戸大学発達科学部講師。98年より現職。近著に『ナショナリズム/モダニズム』(共著、せりか書房)、『建築史論聚』(共著、思文閣出版)。