初出:『建築雑誌』第121巻第1546号,日本建築学会 p.19 発行日:2006年4月
山越邦彦による先駆的環境建築 1933~1936年
梅宮弘光 神戸大学助教授/山越邦彦研究会代表
省線の中央線三鷹駅が開設されて3年を迎えようとしていた1933(昭和8)年の春,駅近くとはいえまだ人家もまばらな下連雀に風変わりな家が建った。灰色のボードで覆われた箱形の二階家。1階は玄関と浴室以外はピロティ。2階の大きなガラス窓には雨戸もない。表札にdomo dinamikaとある。
ドーモ・ディナミーカ。エスペラントで「動力学的な家」と名づけられたこの家の主にして設計者・山越邦彦(1900-80年)は,1930年代日本の建築界でモダニズムの先鋭的な論客として知られた建築家であった。1925年東京帝大建築学科卒業後,戸田組入社。勤務のかたわら,伝説のダダ雑誌『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』の同人となり,前衛美術家や詩人たちと交流。昭和戦前期にインテリ層に人気の出版社第一書房社屋を設計する一方,自ら雑誌『建築時潮』を編集。1930(昭和5)年の新興建築家連盟設立に際しては綱領起草の中心人物でもあった。1933(昭和8)年4月,結婚。相手は日本女子大学英文学科卒の才媛で「人形クラブ la pupa klubo」(現人形劇団プーク)の団員。つまり,この家はモボ・モガ夫妻の新居として設計されたのだった。
山越にとって,新婚家庭は生活の実験であり,住宅はその装置だった。当初彼らは都心でアパートを探す。集合住宅は当時もっとも進んだ住形式としてモダニストたちが関心を寄せるテーマだった。その居住体験をふまえて,いずれは自邸を設計するつもりだった。しかしこれはという物件が見あたらない。それならば自ら設計するしかないと土地を探し,けっきょく「色々の条件」から「何を好んで冬期北風の多い,夏期は又大陸的気候に近い暑さの土地を選んだか疑問視される」ような「東京駅から45分もかかる遠方」にやってくる*1。ライフスタイルはもちろん洋装にイス座。夏は「風が足をかすめて吹く」くらいでなくてはと窓台を床上1尺2寸まで下げ,冬は足元からの輻射熱暖房がよいと床下の配管に温水を通す輻射熱暖房を試み「床暖房」と命名。かくして冒頭のような家ができあがった。
したがって,どれほど立地が田園牧歌的環境であろうとも,気分は都会のアパートなのである。主室を2階に置くことについても,自然対流式の床暖房装置に都合がよいとしながら,ふたりとも2階が好きでそうやって暮らす自信もあった,そんなことは「外国の都市生活を考へれば判る」と付け加える。ドーモ・ディナミーカは,あくまで「都市のサラリーマン」のための「アパートに固有する良さを生かした一種型としての住宅」として構想されたのである*2。
設計に際して山越は光や風に意識的である。当時ようやく「パネルヒーチング」と呼ばれはじめていた新しい暖房方式の採用にも,大胆かつ積極的だ。しかし,この傾向が山越ひとりのものだったかというと,そうではない。その後間もなく,土浦亀城,谷口吉郎,村田政眞といった人びとによっても,同様の試みはなされていくからである*3。山越の環境技術導入はたしかに早かったが,彼のエコロジカルな思想とその実践を他から際だたせることになるのは,むしろこのあとの転回によってなのである。
「今迄不便を感じなかった二階居住も,時折矛盾が生ずる。武蔵野の一片を切り取つた様な雑草園にして置く心算であつた庭も手軽に出て園芸がしたくなる。……家を庭に融け込ませたヴオーンガルテンもやつてみたい。……廃物を利用してメタンガスも実験したく,太陽熱を水に吸収させる考案も,天水や暖房の温水の利用等……」*4。1936年頃の心境である。2階が好きだと言っていた頃とはトーンが違う。ここにきて山越は明らかに土と水を欲している。意識が大地に向かいはじめている。
この頃,山越は戸田組を辞め自宅に設計事務所を開いた。その第一作とおぼしき住宅が久我山の広大な野原に建つ。またしても不思議な名前,domo multangla(ドーモ・ムルタングラ)。「多角形の家」と訳せる。それがまさに,山越が先に述べていた試みを実践したものだった。
施主は林要(1894[明治27]年-1991[平成3]年)という。R.ヒルファディング『金融資本論』の訳者として知られていた経済学者だが,同志社大学教授時代にあの滝川事件(1933年[平成8])に絡んで大学を追われていた。1937[昭和12]年12月に内務省警護局が行った言論弾圧では,宮本百合子や中野重治らとともにブラックリストにあげられている。要するに,体制側からすれば危険思想の持ち主ということだ。当人は戦後になってこう記している。「一九三六年,大学を追われ,三八年からは評論等の筆いっさいを禁止されて鍬をとる」*5。その場所がドーモ・ムルタングラだった。
筆を奪われた言論人の心中いかばかりかと思いきや,「鍬をとる」その生活は妙に明るく清々しい。何種類もの野菜や果樹が浄化槽からの水で栽培される。食卓にのぼったあとの切れ端は豚や鶏に供され,その排泄物がメタンガスとなって台所の火を燃やす。サンルームのガラス天井の配管で暖められた水は風呂に送られ,風呂好きの施主は明るいうちから入浴する。寝室では冬の夜にも外気を採り入れる健康法が実践される。ムルタングラ=多角形とは,多角形農業(今日では複合的農業の名が一般的か)に由来している。
こんな暮らしは押しつけられてできるものではない。根本には林の生活信条があったのだろう。それはまた,彼にとって暗い時代を生き抜く術だったのかもしれない。だとすれば,山越の意識が大地に向かった背景には,林との交流があったとも考えられる。ともあれ,ドーモ・ディナミーカで光と風を採り込んだ山越は,ドーモ・ムルタングラで水と土を手にした。ここに至って,山越邦彦の建築思想は,太陽と大地を極とする循環系の全体を視野に納めることになったのである。
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山越没して四半世紀。これまで半ば忘れられた感のあった彼の活動とその意味が,今日改めて気にかかる。そんな思いを抱く者たちで研究会を立ち上げ1年になる。OMソーラーの推進者でもある建築家の野沢正光,環境工学から堀越哲美(名工大),山越のもうひとつのライフワークでもあったドキュメンテーションの観点から土崎紀子(元日本建築学会図書室),そして建築史学から大川三雄(日大),矢代眞己(BiOS),筆者。山越が残した手がかりの混沌の中に,人間と環境をめぐる思考の核を探っている。