著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

桑沢洋子と川喜田煉七郎―「桑沢洋子 ふだん着のデザイナー展」パネル解説

学校法人桑沢学園東京造形大学創立40周年記念
桑沢洋子 ふだん着のデザイナー展
会期:2006年11月3日(金)~12月2日(土)
会場:東京造形大学附属美術館
主催:東京造形大学


桑沢洋子と川喜田煉七郎―「桑沢洋子 ふだん着のデザイナー展」パネル解説

新建築工芸学院―日本のバウハウス

 建築家川喜田煉七郎(1902-75年)が東京・銀座のビルの一室で主宰したデザイン私塾。1932年、商業美術家浜田増治主宰の商業美術学校別科新建築工芸科として開設。独立して何度か改称しながら1935年末頃まで存続した。
 1930年初頭、川喜田は友人たちと自宅で新建築工芸研究所なる勉強会を組織。また、かねてよりバウハウスに注目していたことから、日本人として最初にバウハウスで学び帰国したばかりの水谷武彦や先の浜田らとともに生活構成研究所を結成。そこでバウハウスの予備課程をアレンジした基礎造形講習会と欧州建築界の新動向を紹介する展覧会を開催した。これらの活動が学院の設立につながる。
 当初の指導者は川喜田、市浦健、牧野正己、土浦亀城といずれも建築家。まずは建築・家具の設計教育が目指されたが、最盛期の1934年には演劇、織物、洋裁、絵画、工芸美術、構成教育を加えた7科編成にまで拡張される。
 川喜田はさらに学院の機関誌ともいうべき雑誌『建築工芸アイシーオール』を編集。これをメディアに地方の読者や工房と連携をはかり、学院でデザインした製品の生産・販売も試みられた。基礎デザイン教育を中心に編成されたデザイン諸分野、そして教育と生産の連動。日本のバウハウスといわれる所以である。
 指導者には、水谷に次いでバウハウスに学んだ山脇巌・道子夫妻、建築家の岡田哲郎、デザイナーの橋本徹郎、美術家の宮本三郎や新海覚雄、舞台演出の園池公功や林和、演劇学の野崎韶夫ら当時の新進気鋭が名を連ねる。ただし、学院の運営は不安定かつ短期間だったから、その関与実態も一様ではなかったと思われる。一方、生徒の中には桑沢洋子、亀倉雄策、剣持勇、水原徳言、松村正恒、河野通祐らデザイン・工芸・建築の各界で後世に名を残すことになる人びとの若き日の姿があったわけだが、もちろんそのときには互いに知るはずもなかった。
 そんなひとり、デザイナーの渡辺力は、東京高等工芸学校に在学しながら学院に通っていた。その動機をこう振り返る。「ただデザインの勉強がしたかった」。既存の教育に飽き足らず新しい何かを求めていた若い意欲に、進むべき方向と具体的な方法を示してみせたのがこの学院であった。

【図版1】新建築工芸学院のあった三ツ喜ビル(撮影:1984年、現存しない)

新建築工芸学院のカリキュラム―構成教育

 「〈構成教育〉とは我々の学校で実験的に実践している技術教育・技術の共同研究のメソードです」。新建築工芸学院を軸に展開した教育活動を、主宰者川喜田煉七郎は「構成教育」と呼んだ。構成教育といえば、今日ではバウハウスの予備課程に由来する基礎デザイン教育を指すことが多い。色彩・形態・材質などの造形要素を抽象的に扱う造形訓練のことである。しかし、川喜田のいう構成教育はそれだけではなかった。
 川喜田は「構成」を二つに分ける。ひとつは「生産構成」。実用的な目的をもつ人間の行為全般のことで、学院のカリキュラムでは建築、工芸、織物、絵画、演劇といった専門分野がこれにあたる。いまひとつは「抽象構成」。これは実用的な目的をもたない基礎的な造形実習で、今日小・中学校などの美術科教育で行われる「構成」はこちらである。
 この両者の関係は、「抽象構成」は「生産構成」の「手ならし的間接的な予備練習」でしかないとされる。たとえば、「抽象構成」の中心概念として彼がさかんに用いたシュパヌンクspannung(原義は「緊張」)は、カンディンスキーのバウハウス叢書"Punkt und Linie zu Flache"(『点と線から面へ』)からの援用だが、ここでは絵画の構図あるいはその構図に潜む力の流れを意味する。「抽象構成」で行う名画の構図分析練習をとおしてそこに潜むシュパヌンクがつかめるようになったところで現実の生活世界に目を移せば、人やモノや情報の間にあるはずの直接かたちとしては見ることのきないシュパヌンクが認識できるようになる。そうした関係性を操作することこそがデザインの本質なのであり、花を単純化したり、その花模様で白地を飾ったりすることではないはずだ、と。「構成教育」の核心にあるのは、こうした機能主義的デザイン理念である。
 したがって、「構成教育」で重点が置かれるべきは「生産構成」のはずだった。しかし実際に世の中に受け入れられ学院の終焉まで継続されたのは「抽象構成」のほうだった。それは、イッテン、カンディンスキー、アルバース、モホイ=ナジといったバウハウス予備課程の初期から末期までの多様な要素の混淆だったが、川喜田はそれらを独自に配列し巧みな解説を付して、まとまりある造形教育のパッケージ・ソフトに仕上げたのである。
 亀倉雄策はこの抽象構成の経験の新鮮さを、晩年に次のように語っていた。「いろんな材質のものを触らされたあと、その感触を紙に描いてみろと言われる。次にそれらを切って自由に並べ変えろ、今度はそれを色に置き換えてみろ、と。そうすると……、なんだかしぜんにクレーみたいなのができちゃうんだよ」。

【図版2】和歌山師範学校で開催された構成教育講習会(1932年12月)

桑沢洋子と川喜田煉七郎―戦後デザイン教育の礎

 桑沢が川喜田に初めて出会うのは1933年の春、ひとに教えられて新建築工芸学院を訪ねたときである。桑沢23歳、川喜田31歳。この時点で桑沢に川喜田についての予備知識がどれほどあったか。自伝では、このシーンで当時の川喜田の活躍ぶりが説明されている。ウクライナ劇場国際設計競技で入賞(グロピウス、ペルツィヒ、ブロイヤーより上位だった)した「新鋭建築家」、商店の設計を多く手掛けている。しかし、状況の前後関係から推測するに、おそらく彼女は川喜田について何も知らなかった。つまり実態は、銀座に「めずらしい夜学」があるというので行ってみたら「肥った先生」がいて、いきなり「バケツ、洗面器」を「がんがんたた」き、「今のリズムをあなたの感じたまま」に描いてごらんと言われたが、「ただ目をみはるばかり」だった。
 インパクト十分な出会いのあと、桑沢は学院の夜間部に通い始める。この時期の学院は、いまだデザイン分野別のカリキュラム編成になる前で、「抽象構成」と呼ばれる基礎デザイン実習が月・水・金曜の昼夜二部制で展開されていた。桑沢は、「独特」で「ユーモアがあ」り「わかりよ」い川喜田の解説によって「幼稚園の生徒になったような無邪気な気持」で勉強を続け、時間を工面しては「未知の新しい造形の世界が渦巻いている」ような川喜田の事務所でむさぼるように本を読んだ。
 「昼間も私のところで勉強しませんか」。同年の初夏、桑沢は川喜田から声をかけられる。この頃川喜田は、雑誌『建築工芸アイシーオール』を独力で編集し店舗設計をこなす以外に、他誌にも海外文献の翻訳、解説、評論を書きまくっており、きわめて多忙であった。そんなとき、デザインは未経験でも美術学校出身で、アルバイトとはいえ挿画描きや編集の経験があり、なにより熱意にあふれた桑沢を見込んだのであろう。
 8月、仕事を辞めて昼も学院に通うようになった桑沢は『建築工芸アイシーオール』や「抽象構成」の内容を集大成した『構成教育大系』の編集を手伝う。一方、川喜田の紹介で『住宅』誌の取材記者の職を得、多くの若手建築家とも知り合う。その建築写真担当が新進写真家の田村茂(桑沢に勧められ学院に通う)。撮影を手伝ううちに『婦人画報』誌でも仕事をするようになり(同誌編集部の熊井戸立雄も学院に通っていたと伝えられる)、編集部に集うデザイナー、高橋錦吉(川喜田が神奈川工業学校教師時代の教え子)や橋本徹郎(学院に通ったあとその指導者)、亀倉雄策と出会うことになる。
 ことさら川喜田の功績を強調する必要はないだろう。バウハウスに代表されるドイツ経由のモダンデザインこそが彼らを惹きつけたのだ。川喜田は、すぐれてユニークなそのメディエータだったということである。1956年、桑沢は川喜田の構成教育について「大いに疑問に思う点がある」と書く。一見川喜田批判とも読めるこの言葉は、しかし、決してそうではない。それは、青春時代に打ち込んだ自らに対する総括なのだ。そしてこの総括と若き日に培った人間関係こそが、桑沢の戦後のデザイン活動の礎となる。(引用は『ふだん着のデザイナー』1957年、『桑沢洋子随筆集 遺稿』1979年、より)
【図版3】田村茂の撮影した「新建築工芸学院の人たち」。中央で腕組みをする川喜田、その向かって左二人目に洋装の桑沢。(出典:『田村茂の写真人生』新日本出版社、1986年)