初出:『建築と社会』第1052号,2009年11月
※WEB掲載に際して図版を追加した。
梅宮弘光
所在地/神戸市東灘区御影石町4-4
設計/清水栄二
施工/大林組
竣工/昭和8年5月(1938年)
構造/鉄筋コンクリート造
規模/地下1階地上3階
種別/公共建築
御影公会堂は武庫郡御影町の公会堂として,1933(昭和8)年に建設された。戦後の1950年(昭和25)年,同町の神戸市編入後,神戸市御影公会堂となり今日に至っている。
よく知られるように,この公会堂は,野坂昭如の『火垂の墓』の中で神戸大空襲の印象深いシーンに登場する。その姿は,のちの宮崎駿による同盟のアニメ映画にも描かれている。また,阪神淡路大震災にも耐え抜き,頼もしい避難所として活用されたことも忘れられない。約1000名収容のホールは,1956年,三宮に神戸国際会館が竣工するまで神戸最大規模を誇った。
戦災では屋根のほとんどが焼け落ちたとはいえ,二度の災いをくぐり抜け,市民に開かれた公共空間という性格もそのままに,内外ともにほとんど当初の姿を保って今日に至っていることを思うと,その建築的価値とともに市民が共有できる歴史的意義を感じずにはおられない。2001(平成13)年には,モダニズム建築の保存を進める国際的活動ドコモモに呼応して行われた「関西のモダニズム建築20選」に選定されている。
公会堂の建設と嘉納治兵衛
1905(明治38)年の摂津電気鉄道(現阪神電鉄),1920(大正9)年の阪急電鉄神戸線の開通に続いて,1927年(昭和2)年には阪神国道(現国道2号線)が開通。こうした交通インフラの整備により,阪神間は大正から昭和にかけて住宅地として発展していく。御影の町は,石屋川の扇状地。背後に六甲山,浜側に灘五郷のひとつである中郷を控え,良好な住宅地として発展,町村制の実施により1889(明治22)年に御影町が誕生する。公会堂建設の背景には,地域のこうした発展がある。
今日御影公会堂を訪れると,玄関を入った突き当たりの薄暗がりの中に置かれたほこりだらけの小さな胸像に,どれくらいの人が気づくだろうか。この人物こそ,公会堂建設最大の功労者,七代嘉納治兵衛その人である。その下の壁面に埋め込まれたブロンズ銘板には,当時の御影町長・安達儀一郎により,次のように記されている。「昭和八年四月御影公会堂建造新ニ成ル 規模宏大結構壮麗寔ニ本町の偉観タリ 初メ本町ニ於テ文化ノ進運ニ伴ヒ社会教化事業ノ発展ニ資スヘキ大集会場ノ設備ナキヲ遺憾トスルコト久シ 偶々嘉納治兵衛君此ニ見ルアリ鉅貨ヲ納レラルタルニ因リ町会ノ決議ヲ経テ之ヲ本会堂造営ノ費ニ充ツ其ノ徳澤功績ノ顕著ナル洵ニ欽仰ニ勝ヘス 永ク之ヲ記念スヘク壁ニ刻シテ以テ後昆ニ頌フ」。
彼の寄付なくしては公会堂は建たなかった。『御影町誌』(御影町役場,1936年)によると,総建設費が当時の額で24万円,そのうち嘉納の寄付金と寄付金利子の合計が約22万9000円。じつに,全体の95パーセントが彼の出資によったことになる。
嘉納治兵衛は当時の実業家にしばしば見られるタイプ。すなわち,政財界人と数寄者の両側面を併せ持った人物であった。前者においては,灘商業銀行頭取,兵庫県議会議員,全国酒造組合連合会会長などを務めた。後者においては,鶴堂・鶴翁の号に象徴されるように,石州流本庄宗泉に学んだ茶人であり,中国銅器・陶器等の蒐集に努めた文人であった。中国青銅器の世界的コレクションを誇る白鶴美術館は1931年に彼が設立したものである。
設計者・清水栄二
公会堂の設計を依頼された清水栄二(1895-64年)は,武庫郡六甲村の生まれ。1918(大正7)年に東京帝国大学建築学科を卒業している。同期には逓信省営繕課で将来を嘱望されながら夭折した岩元禄,1年先輩には竹中工務店で活躍する鷲尾九郎,1年後輩には東京・大阪の両中央郵便局の設計で知られる吉田鉄郎,2年後輩が分離派建築会のクラスという世代である。
卒業後の清水は,大阪の民間建設会社に務めたあと,1921(大正10)年,招かれて神戸市役所に入る。大卒の技術者としては神戸市初と伝えられる。1923(大正12)年,営繕課が設置されると初代課長。折しも神戸市は産業や港湾の長足の発展にともない人口が急増しつつある時期。彼は多くの特徴ある鉄筋コンクリート造小学校を設計た。1926(昭和元)年には神戸市を辞し,事務所を自営。御影町との関わりは,1923(大正12)年に町役場の設計をした頃にさかのぼる。このときの建設委員には嘉納治兵衛も名を連ねていたから,それ以来何らかの縁があったかもしれない。
彼が設計した小学校校舎が,建て替えによってことごとく失われた今日,神戸市内に現存する彼の作品は,この御影公会堂以外では,魚崎公民館(東灘区),甲南漬資料館「武庫の郷」(旧高鳴平介商店,東灘区),ワシオ外科(旧尻池公民館,長田区)が主なものである。ちなみに,甲南漬けの高嶋平介も,公会堂建築委員のメンバーであった。
往事の御影公会堂
竣工当時,『建築と社会』に発表されたときの記事に掲載された平面図から,往事の様子を偲ぶことができる。
地階の南側の「公衆食堂」と「厨房」は,現在の「御影公会堂食堂」に引き継がれている。その奥には「椅子倉庫」「楽器置場」「傘下足預所」「暖房室」などのほかに「球戯室」「碁将棋室」などがある。このように,当時はどちらかといえば裏方を担う空間だったが,戦後は低廉な経費で借りることのできる結婚式場に改装され,大いに活用されたという。2階と3階にはそれぞれ配膳室があって,2基のダムウェイターが地下の厨房と結んでいる。各階貸し室での飲食に対応していたのであろう。3階は「食堂」となっているが,むしろ宴会場的な性格だったかもしれない。西面には装飾の暖炉が付き,南面は床から天井までの大型ガラス開口。当時においては,展望レストランといった趣であったか。
前出の『御影町誌』には,開館の1933(昭和8)年6月から10ヵ月間の各部屋の使用許可回数データが記されている。全386の使用許可のうち,第1位は2階の「日本室」3号,4号で57回。ふたつの「食堂」はそれぞれ39と43。少々以外なのが「大集会室」つまり現在の大ホールで46回となっている。
異なる相貌を見せる立面
この建物の全体を捉えると,は大きく3つのかたまりからなっている。第一は,国道2号線に面した南側ブロックで,地階から3階まで主に貸し室として使われている部分。第二は,窓のない箱状の北ブロックで,舞台とフライタワー。そして第三はこのふたつの間の空虚,つまりオーディトリアムである。それでは,これら3つのブロックにどのようなかたちが与えられ,どう組み合わされているか。
公会堂は角地に建っている。南側に国道2号線,西側に石屋川。つまり,この建物は二方向から見られる存在である。清水栄二はそうした立地条件を十分に意識したと思われる。まずファサード。一見したところ左右対称の四角い建物に見えるす。中央の玄関,その上層部を連続して覆うガラス面,その上に張り付けられたゴシック風の竪桟状の装飾。これらが一体となって建物の中心性を主張している。しかし,軒の水平線に沿って目を左つまり西方に移していくと,端まできたところで西面に回り込ませ,水平だった庇を直角に曲げ,袖壁として1階まで降ろしてファサードの連続にストップをかけている。正面はここまで,というわけだ。しかし,そのストップしたところはすでに西側の面。視線は正面から西立面に誘導されてきたことになる。
開口部の多様性
西側の立面意匠は,建物の主要な3つのかたまりに対応している。南側の貸室部分には額縁のような太めの桟に縁取られたガラス開口。中間の大ホール部分は,舞台に向かって下がっていく天井高がそのまま現されて,屋根の稜線が階段状になっている。この部分は,ファサードにおとらずお興味深い。「遊歩廊下」と称する外廊下を囲む長方形の枠によって立面を上下に分割して3層構成になっている。この部分は当時最先端のテクノロジーであった優秀船(外国航路の大型客船)を模したと伝えられる。そして北側のかたまりには,上下を貫く縦に細長い窓。これはもともとは壁から三角形に飛び出した,つまりプリズムを縦にしたような窓だったが,現在は失われている。
御影公会堂の立面の豊かさは,いくつかの異なるタイプが組み合わせられた開口部の意匠によるだろう。半円アーチや丸窓。これはどちらかというと古い様式主義のモチーフといえる。前出のプリズムのような三角断面の窓。これは日本でも1920年代前半に流行った表現主義風建築で好まれたもの。そしてファサードに見られる大きな全面ガラス。とくに階をまたがってその全面を覆うやりかたは,デッサウのバウハウス校舎(1926年)などと比べるには無理があるとしても,当時としては最新のものといえる
モダニズム潮流の中の御影公会堂
こうした窓の意匠をみるとき,それを特徴づけているのが,たんに開口のかたちのみならず,それを縁取っている枠,あるいはその延長としての庇の意匠にあることに気づきます。窓枠は,様式主義が消えていくのとともに退化してきた部位だが,この公会堂ではその一歩手前の意匠を見ることができる。
西洋の近代建築との呼応関係という点では,E.メンデルゾーン(1887-1953)の1920年代の作品,ベルリン日報新聞社(1921年)やヴァイヒマン・シルクハウス(1922年)などが連想される。また,マイアミのアールデコ建築の中には,同じようなたたずまいをもつものがあるというと意外に思われるかもしれない。全体に茶色いこの建物の印象は,トロピカル・デコとはほど遠いからだ。しかし,これをミント・グリーンやフラミンゴ・ピンクといったシャーベット・トーンに塗り分けたところを想像してみると……,そこはもうマイアミなのだ。しかし,清水がそれを真似たわけではないことだけは確かである。というのも,マイアミのこのテの建物ができたのは御影公会堂より後,1930年代の後半から40年にかけてのことだ。歴史様式が希薄になっていく過程で,世界で同時的に現れた現象の類似性とみることができる。
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校外住宅地としての阪神間における文化のパトロネイジは,都心における企業活動におけるそれとは異なっていた。それは地域住民の福利厚生や教育,またパトロンたち自身の文化生活との関わりの中で展開された。阪神間の学校,病院,美術館には,そうした出自のものが少なくない。御影公会堂は,そうしたパトロネイジのもとで建築家が存分に腕を振るった成果であり,地域のアイデンティティを今日に,いや未来に伝える象徴的な存在といえよう。
(うめみや ひろみつ/神戸大学大学院准教授)