所収:『建築と社会』第1064号
発行日:2010年11月
モダンスタイルの今
日本真珠会館の建つ中央区東町122は"HIGASHI MACHI 122"、かつての神戸居留地、東南隅にあたる。碁盤の目状に区画された居留地だが、この122番地の南側だけ不規則なのは、そこが波止場に面していて、それを囲むように、税関、保税倉庫、社交クラブなどがあったからだ。
居留地返還110余年、戦後60余年と旧居留地は変わり続けてきたが、とくにこの10年、周辺の変貌ぶりは著しい。日本真珠会館の南側、税関があった場所では、神戸関電ビルが地上170メートルの高層ビルに建て替えられた。東隣はかつてミノル・ヤマサキ設計のアメリカ領事館(1957年)があったところで、その大谷石の外構だけを残して長く露天の駐車場だったが、本年ついに地上34階の高層マンションが建った。
地上4階の日本真珠会館も、1952年の竣工当時にはそうした新しい変化のひとつだったはずだが、今となっては周りを中高層のビルに囲まれ、取り残され感は否めない。さながらバージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』といった風情なのである。
しかし、それを言うなら旧居留地十五番館(1880年頃)だって、海岸ビルヂング(設計=河合浩蔵、1911年)だって同じではないか。高さからしても十分陥没しているし、古めかしさなら日本真珠会館の比ではないのだから。
ところが、そうは見られていない。それどころか、むしろ、旧居留地を、ひいてはミナト神戸を表象する記号として際立っている。
このちがいはどこからくるのか。見渡せば似たようなケースがある。取り壊された旧心斎橋そごう(村野藤吾、1935年)。隣の大丸心斎橋店(W.M.ヴォーリズ、1922年)に比べ、一般には親しみをもたれなかったように思えてならない。東京・大阪の両中央郵便局(吉田鉄郎、1933年、1939年)。保存問題は専門家以外ではいまひとつ盛り上がらなかった。
その要因は、老朽化や容積率といった問題に単純に帰着させることはできないだろう。これらと同等かそれ以上に大きな問題は、今日の高度消費社会におけるその商品価値にあるだろう。この点と深く関係するのが建築物の見た目、つまり様式である。そして、中央郵便局も心斎橋そごうも、そして日本真珠会館も、今小異に目をつむるなら、それらの様式はみなモダンスタイルだといえる。
議論の余地はあろうが、日本の近代建築がモダンスタイルを獲得した時期を、1930年代から1950年代にかけてとしておこう。端的に言えば、この期間は前衛思想としてのモダニズムの普及過程である。世俗化過程と言ってもよい。このとき、機能主義に代表されるモダニズムが追求したのは、まずは建物の使用価値であった。もう一歩踏み込んで言うなら、空間と使用との新しい関係の価値を発明することだった。そのとき、ふさわしいとされた建物のすがたかたちが、歴史様式や装飾性を否定した幾何学的抽象形態、すなわちモダンスタイルだったのである。
それから数十年。高度消費社会の現代、商品に求められるのは、使用価値よりも記号価値である。たとえば神戸らしさ。この「らしさ」という他者との差異を商品化することが求められる。そのとき、モダンスタイルではダメなのだ。なんとなくハイカラでオシャレでなくては。
近代産業としての真珠
さてそこで、日本真珠会館の「真珠」である。帝政期ローマの政治家にして博物学者プリニウスが「受胎の季節になると貝は口をあけ、天から降ってくる露を吸いこみ、その体内に育まれて真珠となる」(『博物誌』)と書き、水と女性に結びつけられた月のシンボルとして、そのあやしいまでの美しさが古代より洋の東西を問わず人びとを魅了してきた・・・などと言われるが、宝飾品としての真珠が日本の庶民に身近なものとなるのは、やっと戦後の豊かさを手にしてからのこと。今日、私たちが真珠に対して抱く優美な印象とはうらはらに、日本の近代にとって、真珠はなによりもハードな産業だった。精巧な模造真珠を創り出す製造業であり、養殖を成功させる水産業であり、それらを製品化するための加工業であり、豊かな外国に向けて売り込む輸出業だったのである。
魚鱗を箔にしてガラス玉の内側に塗り付ける技術は改良が重ねられ模造真珠を完成させたが、それは養殖真珠に先駆ける産業として、大正期から昭和初期にかけて旧葺合区(現中央区東部)に集中した。真珠の養殖場は三重や四国をはじめ西日本に多く、神戸はその集散地としても地理的に有利であった。養殖真珠の輸出には選別や穿孔といった加工が不可欠で、そうした作業に必要な自然光を得るにも、六甲山南麓は好都合だった。輸出港としての隆盛を誇った神戸には多くの外国人商人がおり、真珠輸出にも活躍した。
ここにこそ「パールシティ神戸」の原点とアイデンティティがある。このキャッチフレーズは、真珠を神戸のファッションイメージと結びつけて産業振興を図ろうという意図のもとに1981年につくられた。高度消費社会における営業戦略として期待したいが、真珠を近代神戸の文化史の中で捉えようとするなら、そこに至る有名・無名の真珠産業の先達たちの活動に思いを致すことも忘れられない。またこの神戸の近代化遺産という文脈においてでなくては、日本真珠会館の建築も理解することはできない。
日本真珠会館に本部を置く日本真珠輸出組合が1964年にまとめた『真珠の歩み』は全1113頁という大冊で、真珠業界史としての詳細な叙述に感服させられる。通覧して印象づけられるのは、戦前・戦中・戦後の社会変動に翻弄される業界と関係者の奮闘、とりわけサンフランシスコ講和条約発効(1952年4月28日)前後から逞しく立ち上がっていく様子である。そのうちから、日本真珠会館建設の経緯を取り出すと、おおよそ次のようであったらしい。
戦前に真珠関連企業合同体として設立されていた日本合同真珠株式会社は、1947年、GHQに閉鎖機関に指定される。つまり、戦時経済政策に関わった団体とみなされ「本邦内における業務を停止させられ、その本邦内に在る財産の清算をなすべきもの」(閉鎖機関令)とされたのである。これによって、同社の在神株主は残余財産処分に際して配当金を受け取ることになったが、それは課税され兵庫県に納税しなくてはならない。株主である真珠関連企業は、その税金を真珠産業振興の施策に活かすよう陳情、1951年4月の県議会で日本真珠会館の設立が可決された。建設費は、県費から6000万円、真珠業界からの寄附2000万円であった。
光安義光のモダンスタイル
こうして、日本真珠会館は兵庫県営繕課によって設計されることになった。設計担当は光安義光(1919~99年)。後に営繕課長となって、県の施設は県が設計する、外注はしない、という建築家集団としての官庁営繕哲学を推進する人物である。しかし、このときはまだ32歳。1948年に兵庫県建築部に奉職して3年目であった。
光安は京城に生まれ、京城高等工業学校建築科を経て、1940年に東京工業大学建築学科に入学している。動機は助教授であった谷口吉郎に憧れてのことだったという(竹山清明「モダニズムの建築家。光安義光」『知られざる建築家光安義光』青幻社、2000年)。同大を42年に繰り上げ卒業して兵役。妻の実家が小野市であった関係もあるのだろうか、復員後に落ち着いたのが、焼け跡の残る神戸であった。
まず、光安が責任者として担当することになったのが、1951年の神崎郡地方事務所と兵庫県立北条高等学校講堂、いずれも木造である。その次がこの日本真珠会館だから、おそらく彼にとっては初めての鉄筋コンクリート造の実施設計であっただろう。先に触れた資料『真珠の歩み』では、兵庫県と業界による設立委員会設置が1951年4月、施行入札が同年12月というから、設計が行われたのは1951年の後半とみられる。
建物は地下1階、地上4階。1階にロビーと管理関係の諸室、2階に事務室と食堂、3階に事務室、そして4階の大部分を真珠交換室という室配置である。事務室は真珠関連企業の出張所や水産省神戸真珠検査所、最上階南面全部が当てられた「交換室」は養殖真珠の品評と入札が行われる大広間である。
この建物では、こうした用途と空間が、線・面・色の立体的コンポジションにまとめ上げられている。薄いスラブや袖壁は、あるところでは明快な線となり(南立面)、あるところではまとまりのある面となっている(東立面)。1階の壁は御影石による一様な黒い面で、南面から回り込んで東面では庇となる2階スラブの薄い水平面とあいまって上層部の全体を中空に浮かせて静止させる。2階以上の壁はグレイッシュな浅葱色、その一部を覆うように重ねられた大壁には白色、4階南面のカーテンウォールには透明ガラス。こうした壁面に重ねられた、細い手摺りによる伸びやかな水平線や、窓の方立によるリズミカルな垂直線の繰り返し。それらは、浮遊感のある装飾的効果をもたらしている。このように見てくるならば、日本真珠会館は、ビルマで終戦を迎えた光安少尉が英国軍の俘虜収容所で描いた小さな抽象画(「コンポジション 1946 ビルマ ラングーン郊外終戦後」)を立体化したかのようだ。
この建物を立体的コンポジションと評していろいろと形容してきたけれど、今、敢えてこう言ってみよう。それは、安直な美辞麗句を並べているだけではないか。伸びやかとか透明とか浮遊感とか言うけれど、もうひとつピンとこない。百歩譲ったとしても、それほどのものだろうか、今と比べて…。
ここに、現代におけるモダンスタイルの微妙な立場が露わになる。歴史様式はいったん捨て去ったものだからこそ、再び引っ張り出すと商品になる。しかしモダンスタイルはどうか。現代と緩やかに連続しているようでいて、振り返ってもその来る道はたどりにくい。レトロ・モダン愛好家や団地萌えなど一部マニアを除いて、モダンスタイルがいまひとつ支持を得にくいのは、その初期と現在の距離の測り方の難しさによるのではないか。
それは、設計者自身の問題でもあったはずだ。設計に取り組んでいる今と来るべき未来との距離、すなわち、やりたいこととできることのギャップである。光安が設計段階で描いた何枚ものスタディ用パースは、それを如実に語っている。中庭を介した高層部と低層部の組み合わせ、高くそびえる無窓の大壁面と低く伸びる全面のガラス・カーテンウォール。大胆なコンポジションだ。しかし、1950年代初頭の現実では困難だった。そうしたやりたいことを、できることにひとつひとつていねいに変換した結果が、今日の日本真珠会館だといえるだろう。
「国際環境にあるため、官僚臭のない品格のある表現が必要である」(光安義光「県立日本真珠会館の設計について」『兵庫県建築士会会報』1953年1月)。短い言葉に、設計者としての認識と矜持が集約されている。養殖真珠をめぐる業界、輸出産業として育成・振興したい国や県、戦災復興を期する神戸。日本真珠会館のモダンスタイルは、それらを表象するものとして立ち現れたのである。
謝辞
伊吹三樹雄氏(日本真珠輸出組合専務理事)と設計者のご子息である建築家・光安義博氏(光安義光&アトリエMYST)には、これまで折にふれて有益なご教示と貴重な資料閲覧の機会をいただいた。記して謝意を表します。
(うめみや ひろみつ/神戸大学大学院准教授)