所収:『建築技術』810号 p.185
発行日:2017年7月
武田五一とその時代 ― モノとヒトが織りなすモダンのすがた
武田五一―第二世代の巨頭
超高齢社会の現代,各所で「まだまだ現役」などと聞こえてくる。実際のところ,社会人として成長し,能力を発揮し,また社会から期待されるのは,30年と少しといったところか。これを日本近代建築史に重ねてみると,工部大学校の1期生が卒業するのが明治12年,その33年後が大正元年,さらに33年で昭和20年。建築家の世代でみると,国家・財閥・華族をクライアントに,西洋歴史様式に国家性・記念性を表現しようとした第一世代,その様式を勃興するブルジョワジーの価値観で巧みに変容してみせた第二世代,そして昭和戦前期にかけて,様式の自由な組み合わせと幾何学的抽象によって西洋歴史主義からの脱却をはかり始めた第三世代,ということになろう。
LIXILギャラリーの企画展「武田五一の建築標本―近代を語る材料とデザイン」。武田は,第二世代の巨頭である。東京帝大助教授となる明治32年から昭和13年に65歳で没するまでの30有余年,教育,設計,工芸指導,文化財保護,職能確立の各分野で現役であり続けた。本展は,そんな彼の活動に徹底的にモノを通して迫る。そこに展示されているのは,彼が収集した夥しい数のサンプルやパーツである。同時に,モノの向こうに垣間見えるヒトとの関係がおもしろい。それらが武田五一とその時代を雄弁に語っているからだ。2点紹介してみたい。
工芸産業化の時代―遊部石斎・重二親子
展示の第1章「新たななる材料」にある「ロイロ仕上げ」に興味を惹かれた。酸化鉄を混ぜた漆を鏡面に仕上げるもので,蒔絵や位牌に用いられてきた。それがなんと,コンクリートに施されている。
これを開発し特許を取ったのは金沢の漆芸家,遊部外次郎(石斎)と息子の重二だという。ロイロは初耳だったが,珍しい姓には覚えがあった。北大路魯山人の星ヶ丘茶寮で椀膳を担っていたのがこの親子だと,白崎秀雄『北大路魯山人』にあったからだ。とかく職人技の印象が先にくる伝統工芸だが,同書によると,遊部家は優良な漆の山林を所有し,漆の採取業と漆器業を兼ねた産業家でもあった。近代化にともなって伝統工芸にも新しい展開が求められていた。そこで漆はコンクリートに出会うのだ。時代は木造からRCへ,しかし打ち放しなどとんでもない,そういう頃の材料である。
「住み方の記」にみる時代の懸隔―西山夘三
武田の最晩年の教え子に西山夘三がいる。言わずと知れた計画学の泰斗であり,庶民の立場から建築と都市を論じ続けた運動家である。その西山の武田評に曰く「私の〈建築に対する開眼〉をみちびいてくれた最初のものは,武田五一教授の〈住宅論〉と〈建築計画法第一〉」だった(「一建築学徒の回想」)。
これを単純な武田礼賛とみてよいものか。回想は1970年代後半になされたものだから,そこには再構成された認識が含まれているとみるべきだ。「開眼」には二重の意味がある。第一は文字通り,「クラスの他のだれよりも〈建築〉について無知であるまま」(同前,以下同)入学したばかりの西山の率直な感想だっただろう。しかし,第二の意味は反語的である。「こうして私は,建築を次第に知るようになり,ここで紹介される現存の建築よりさらによりよい建築をつくることが建築家の課題であるということを次第に理解するようになった。そういうわけで武田さんの〈計画法〉の講義は,我々がさまざまの生活と生活空間をもっているのだという,私の建築開眼への楽しい導きであった」。
同じ回想で西山は晩年の武田を「ブルジョアという語感がピッタリ,みるからに〈大家〉」と評し,見学会で武田設計の藤山雷太邸を見学した際,その豪華な内容が「住宅論」講義のとおりなので,「武田さんはウソをいっているのではない」と感じつつも,それが「庶民住宅には縁のない理論」であり「庶民の住宅は,建築家が苦労する対象ではないということが言外に語られていた」ことを理解するのである。
西山の名著『住み方の記』は,自身の生い立ちを住生活から綴った「住宅論」である。それは武田「住宅論」とはかけ離れているが,西山はそのことをもって武田を非難しない。武田には武田の「住み方の記」があり「武田さんはウソをいっているのではない」,そして自分もウソのない「住宅論」を目指す。西山の言う「開眼」の意味と武田評価の真意はここにある。
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標本箱を無造作に広げて悦に入る,そんな気分を味わわせてくれる魅力的な展示デザインであった。
(梅宮弘光 うめみや・ひろみつ/近代建築史)
武田五一の建築標本―近代を語る材料とデザイン
Goichi Takeda’s Architectural Specimens
ギャラリー大阪:2017年3月10日(金)~5月23日(火)
ギャラリー1(東京):2017年6月8日(木)~8月26日(土)