所収:森仁史(監修)『叢書・近代日本のデザイン 38 日本金属加工株式会社「YSY METAL TUBE FURNITURE 附 YSY鋼管家具値段表」『国際建築』第8巻第3号(昭和七年三月)抜刷),「YSY METAL TUBE FURNITURE」,東京建材工業所「SSS CATALOGUE」,横浜船渠株式会社「METAL TUBE FURNITURE 鋼管製家具」,西川友武『軽金属家具』』,ゆまに書房 pp.315-325
発行日:2012年2月
※WEB掲載に際して画像を追加した。
軽金属のアウラ―1930年代日本のデザインにおけるアルミニウム
『軽金属家具』は1935(昭和10)年12月に工業図書株式会社から出版された。一辺20センチほどのほぼ正方形に近い判型。装幀は,マリンブルーのクロス装に銀箔押しでタイトルと椅子のイラスト,本文横書き,句点にはカンマを用いるという,なかなかしゃれたものである。
同書は,1933年に開催されたアルミニウム椅子の国際コンクールに応募した日本人,商工省工芸指導所の技術者であった西川友武(1904-74年)が見事一等を獲得したことを契機として出版されたものである。西川のこの優勝を,戦前期における日本人デザイナーの快挙としてしか見ないのであれば,当時の日本人技術者が「軽金属」にかけた思いも,日本デザイン史における同書の意味も捉えることはできないないだろう。
すでに私たちは,1928(昭和3)年頃には日本においても,ドイツで生産されるようになった鋼管家具のコピーが製造されるようになったことを見てきた*1。そのわずか数年後,今度はアルミニウム製の椅子のデザインに取り組み,国際的評価を得たわけである。この流れは、1930年前後における日本デザイン史のなにを意味することになるのか。この点を検証する材料として,『軽金属家具』を読むための補足を記してみたい
国際環境下のアルミニウム工業
人類とアルミニウムとの付き合いは,銅や鉄と比べようもないほど新しい。そもそもこの金属が世の中に紹介された最初は1855年のパリ万博,このときの価格は宝石なみだったといわれる。以下、アルミニウム産業の展開を,秋津裕哉『わが国アルミニウム精錬史にみる企業経営上の諸問題』*2と,清水啓『アルミニウム外史(上巻)戦争とアルミニウム』*3に教えられるところからまとめてみる。
アルミニウムの工業生産は,フランスのド・ヴィーユが開発した金属還元法に始まる。しかし,アルミニウム析出に用いるカリウムやナトリウムが高価なうえ,不純物の除去や接着加工に困難がともなう高価格・低品質なもので,需要は拡大せず,せいぜいブローチなどの装飾品に使用される程度だったという。
そうしたなか1886年,電解還元による製造法の発明により生産は増大,価格が低減する。電気分解法による精錬の本格化によって1900年代当初のヨーロッパでは供給過剰に陥ったため,業界秩序を保ち価格を安定させるために数次にわたり国際カルテルが結ばれた。一方,アメリカではアルコア社一社の独占体制が第二次世界大戦開始の1941年まで続く。
アルミニウム工業は,戦争と密接に関連して発展し,また停滞するものであった。アルミニウム地金の世界消費量は,第一次世界大戦勃発時の1914年から1918年までの四年間に2.3倍に増加したが,戦争の終結により需要は急減,生産量は一気に半減する。戦時下の需要の九割が軍需,そのうちの大部分が航空機製造用だったとされる。
1920年代の慢性的不況のなかでアメリカのアルコア社はボーキサイト採掘からアルミ加工まで一貫で行う世界最大のアルミニウム企業に成長。ヨーロッパ企業の対米輸出も増加していったが世界恐慌により急落、その不況を脱して消費生産ともに増加傾向を示し始めるのが1932年である。
一方日本でも,アルミニウムの実用化は戦争とともに始まった。1894(明治27)年,日清戦争勃発の年,大阪の砲兵工廠が輸入地金で帯剣や尾錠,軍隊用の飯盒や水筒が製造され始め,1898(明治31)年には大阪の住友伸銅場(後の住友軽金属)で輸入地金を圧延したアルミニウム板の製造が始まる。やがて1904(明治37)年に勃発した日露戦争では軍用食器や火薬容器に用いられるなど,精錬工業に先駆けて加工業の発達が始まるのである。
日本のアルミニウム地金輸入は,第一次世界大戦中はフランス,スイス,イギリスからの輸入が中断したことにより低迷するが,この間にアルコア社の進出があり,世界恐慌発生の1929(昭和4)年には史上最高の地金輸入量を示し,世界有数のアルミニウム消費国となっていた。地金供給を輸入にたよるこうした状況は,地金の国内精錬への意欲を生じさせ,1931(昭和6)年の満州事変勃発が軍拡を加速させ,航空機製造分野でのアルミニウム需要は,その傾向に拍車をかけることになった。
しかし,こうしたアルミニウム需要の増加も,精錬工業の企業化にはなかなかつながらなかった。精錬技術の中心である電気分解技術も電力供給も未発達で,既存の企業側にも精錬のための莫大な設備投資に耐えられるほどの資本蓄積がなく,政府の補助なしでは欧米のカルテルと競合することは不可能だったからである。
そのような状況のなか,ひとり日本沃土(後の昭和電工)が地金精錬に乗り出す。同社は1933(昭和8)年から翌34年にかけて,朝鮮産のミョウバン石を原料に横浜に新設した工場でアルミナを生産,それを長野県大町の電解工場に運んで電気分解し,アルミニウム地金を精錬することに成功した。これをもって,日本は世界で12番目のアルミニウム生産国になる。
これを契機として,1934年以降にアルミニウム精錬への企業進出が進み,やがて1937年の日中戦争勃発により,アルミニウム工業は軍需産業として国の統制下に組み入れられることになる。
工芸材料としてのアルミニウムへの期待
こうした日本のアルミニウム工業史をふまえたうえで,アルミニウム椅子の国際コンクールに西川が応募し一等を獲得するまでの経緯を,『軽金属家具』から時系列で抽出すると,次のようである(括弧内の数字は同書の該当ページ)。
1933年,パリに本部を置く国際アルミニウム局(Bureau International des applications de l'aluminum)が「アルミニウム製のよりよい椅子のコンクール」("concours international du meilleur siege en aluminium")を企画した(p.54)。「国際アルミニウム局」と聞くと官省の一部局のように響くが、"Alliance Aluminium Cie"の一部門だと書かれている(p.62)。これは「アルミニウム企業連盟」というほどの意味だから,前述したアルミニウム国際カルテルを背景にした汎ヨーロッパ業界団体ということであろう。コンクール事務局はこの連盟の,バーセルにある事務所内に置かれたという(p.62)。すなわち,このアルミニウム椅子のデザインコンクールは,第一次世界大戦の戦時増産による供給過多を解消するための民需拡大を背景に,家具分野へのアルミニウム利用促進が意図されていたと考えられる。
募集期間は,当初1933年4月15日から10月1日とされたが,最終的に11月1日まで延長された(p.54)。コンクールは二部門からなり,第一部は設計図・資料・試作品を求めるもの,第二部は設計図と資料のみ。しかし,いずれも設計意図を大量生産に置くこととされていた(p.62)。募集告知は仏・英・独語でなされた(p.54)。
同年9月,所変わって仙台は二十人町通りの商工省工芸指導所。技師の西川友武(1904-1974年)は、ドイツのデザイン雑誌『ディ・フォルム』("Die Form")7月号を見ていた。船便で届くので発行から2カ月遅れである。このとき目に留めた記事でコンクールを知る(p.67)。すでに募集開始からだいぶ経過している。締め切りまであと1カ月しかない。しかし,彼は応募を決心する。このくだり,興味深いところなので長きにわたるが引用しておきたい(どのように興味深いかは次節で整理する)。
又同競技の詳しい規定要領も充分判らざる内、之に応募せんとする挙に出でたことは、寧ろ甚しく冒険的な、盲蛇におぢずの感あるものであつた。即ち10月1日の締切に対し、郵送期間の15日を差し引けば、製作期間約10日間程しかなかつた為め、その規定の詳細を知るに由なく、為めに全く暗中模索的なものであつたことは、之れを一種の冒険と云はざるを得ないものであつた。
然しこれより先き、自分は前記国際コンクールとは別個に、1932年以来、現大阪府立工業奨励館内工芸産業奨励部々長、杉田精二氏の提案に基き、軽金属の工芸的利用の一方法として、工芸指導所に於てアルミニウム・アングル材を家具主要構成材とし、之れに木材を配せる家具の研究に従事し、第1回の実験的試作として、小椅子2個及び茶卓子1個を得たことがあり、又之れが結果に就て「アルミニウム・アングル・ファニチャ―主として設計に関する考察」なる一文を草し、工芸指導所編輯に依る月刊雑誌「工芸ニュース」に報告せることがあつた為、すでにアルミニウム材を以て家具を作ると云ふ研究そのものに就ては、多少の経験もあり、実験を持つてゐた。従つて同競技の応募に対しては、寧ろ新しい研究の端緒を得るに好機会であると考へ、之れに応募の決意を固めた次第であつた。殊に当時は、即ち前述の第1期実験試作を経て、第2期実験試作を終つたばかりの頃であつたので、自分の研究の、貧しい乍らやゝ具体化せるものを提示して、この方面の国際的批判を受けることが、この際最もよき試練であると考へたからであつた。又その必要が多かつたからでもあつた。(pp.67-68)
ここで注目すべきは,国際コンクールの開催とは関係なく,商工省工芸指導所において1932(昭和7)年頃より,すでにアルミニウムの「工芸利用」に関する研究・開発が始まっていたことである。先にみたとおり,国内のアルミニウム加工業が一定の発展を示し,満州事変によって国内精錬への必要と期待が高まっていた。それが実現するまさに前夜的状況においてのことである。
西川は商工省の技術系役人だが,応募は個人として行った。この日程では所内で協議したり,いちいち上司に伺いを立てるのは無理と判断したのだろう。応募部門は,試作が不要な第2部。食堂用小椅子,肘掛け椅子,長椅子,寝椅子,いずれもアルミ・アングル材の骨組みに各種シート材を組み合わせ,組み立て分解可能としたものである(pp.71-76)。
コンクールの締め切りは,前述したとおり延長されて1933年11月1日。審査は同年11月23日から24日にパリにおいてなされたという。審査員は、アルミニウム工業界から選出されたカナダ人,ドイツ人,フランス人,スイス人各1名に,国際アルミニウム局から1名が加わり計6名(p.98,p.100)。この審査とは別に,「近代建築国際会議」(CIAM:Congres International d'Architecture Moderne)がこのコンクールに賞を設定し,CIAMを代表してル・コルビュジエ(1887-1965年),ヴァルター・グロピウス(1883-1969年),ジークフリード・ギーディオン(1888-1968年)が審査に当たった。
締め切り後の応募状況は,14カ国74名。応募数が多いのはフランスの20,ドイツの17。日本からは西川ひとり。アメリカからの応募はなかった(pp.56-57)。
審査の結果、西川の応募案は第二部門の1等1席を獲得,賞金500スイスフランは,同じ1等2席のフランス人と折半といことになった(p.60)。ちなみに,第一部の1等と近代建築国際会議が設定した賞の1等は,ともにマルセル・ブロイヤー(1902-81年)であった。
以上が応募から一等獲得までの顛末である。これを,アルミニウムをめぐる国際情勢と重ねてみるならば,軽金属家具というものがこの国のデザイン領域においてテーマ化されるにも,一定の必然性があったことがわかる。つまり、日常生活におけるイス座が必ずしも普及していない状況にもかかわらず,また鋼管家具の国産化が緒に就いて間もない時期にもかかわらず,それよりもさらに新しい技術的課題の先取りとして、アルミニウムの椅子はデザインされたのである。
アルミニウムの「用即美」
同書の「はしがき」によれば,この栄誉に対して、西川の周囲からは多くの賛辞と応募作への関心が寄せられた。それへの謝意として企画されたのがこの本だという(p.1)。西川はそれを実質あるものにしようと,家具生産における軽金属の可能性を示す報告書として本書を編んだ。応募時には図面のみだったので試作品を製作し,本書にはその写真を掲載した。こうした準備に時間を要し,結果として「はしがき」の日付は1935年9月,出版は同年12月であった。同書の表紙には「西川友武著」と明記されているものの,実態は編纂で,各記事は工芸指導所の技術者たちによる分担執筆になる。この点は目次に明示されていないが,全体を概観するために改めて列記すると次のようである。
第1部
金属家具及び軽金属家具に関する覚書(岡安順吉)
室内工芸と金属(杉山豊桔)
鋼管家具から軽金属家具へ(豊口克平)
家具材料として見たる軽金属(小栗吉隆)
ウォーンベダルフとトーネット会社の鋼管家具に就て(剣持勇)第2部
アルミニウム家具国際競技に就て(西川友武)
アルミニウム家具国際競技規定(競技規定の翻訳)
アルミニウム家具国際競技応募経過に就て(西川友武)
アルミニウム家具国際競技の推薦作品に就て("La Revue de l'Aluminium"誌第六〇号掲載のJ. Douchenment'l'Aluminuum das la Construction des Sieges'の、江島五郎と西川友武による抄訳)
アルミニウム家具国際競技の結果に関する報道記事抜粋(雑誌・新聞報道の保科好雄による抜粋・翻訳)
マルセル・ブロイヤー氏のアルミニウム家具に対する所論(Aluminum Furniture Design "The Cabinet Maker and Complete House Furnisher" July 20, 1935の翻訳)第3部
軽金属の家具への利用に就て(安藤良美)
アルミニウム・アングル材の家具利用考察(杉田精二、商工省工芸指導所刊『工芸指導』第八号掲載記事からの再録)
アルミニウム・アングル家具の設計に就て(西川友武)
アルミニウム・アングル家具の工作に就て(政田辰三郎)
アルミニウムと其合金に依る製作を試みて(宮澤均)
ヂュラルミン家具の試作リポート(齋藤史郎)第4部
アルミニウムの材料的考察(松崎福三郎)
アルミニウムとその合金に就て(Marston lovell Hamlin and Francis Mills Turner, Jr."The Chemical Resistance of Engineering Materials"より抜粋)
アルミニウムの鑞付と鎔接(伊藤胞次郎(東北帝国大学金属材料研究所員)前掲『工芸指導』第八号掲載記事からの再録)
アルミニウムの表面處理法(福岡和雄)
金属家具の附帯材料(西川友武)第5部
現行アルミニウム製造方法に就て(無記名)
我国に於けるアルミニウム工業事情(無記名)
アルミニウムに関する日本標準規格(無記名)
執筆者の中には戦後日本のデザイン界で活躍する,豊口克平(1905-91年)や剣持勇(1912-71年)の名も見えるが,彼ら以上に知名の人物といえば,先に引用した西川の文章中にアルミニウムの工芸利用の先覚者として登場する杉田精二であろう。今日ではこの本名よりも,むしろその号である杉田禾堂(1886-1955年)として有名な近代金属工芸の代表的作家である。
杉田は1902(明治45)年,東京美術学校鋳造科を卒業,1919(大正8)年に同校講師となる。1926(大正15)年,後輩の高村豊周(1890-1972年)らとともに工芸家団体「无型」を結成した。无型は,工芸に当時における「現代の美術」であることを求めると同時に,大正期の生活改善運動に代表される合理主義志向を有していた。本シリーズ監修者・森仁史は,その基本的性格が「生命主義」にあり,内実としては,工芸が人びとの生活感情とともにあろうとし,同時に新しい生活環境の創造を目指す建築のような領域とも随伴するような傾向をもっていたと指摘している*4。
こうした,美と実用を生活のもとに統合したいとする志向は,今日的な感覚からすれば意外かもしれないが1928(昭和3)年に設立された商工省工芸指導所が当初から有していたものであった。初代所長・國井喜太郎は「工芸」を「之れを本質的に考察するも,生活必需品として用と美の両面を完備し,その普遍化は人生生活の向上に資する」もの」とした*5。工芸指導所におけるアルミニウム研究もまた、この理念にもとづいていた。
禾堂こと杉田精二は、1932(昭和7)年に大阪府工業奨励館に工芸産業奨励部が設置されるとその初代部長として赴任したため,西川のコンクール応募時にはすでに工芸指導所を去ってはいたが,工芸指導所時代に発表した文章が『軽金属家具』に再録されている。そこで杉田は,アルミニウム・アングル材で構成された椅子が、構造上合理的なだけでなく,人間の感情に訴えるものであるとして,次のように記している。
工芸製品の製出に関する立場に於ては,用材が吾人に与ふる感覚に就て考慮することは重大なる条件でなければならない。直角に曲げられたる棒状鈑の強弱性は,今更呶々するを要しない。既に定評あるもので,その物理的支持力を充分に理解し,且つその実用的価値を認識して,この知的確認が概念的強度感にまで到達してゐる現代人には,アングルの理学的構成が信頼し得べき安固の形状として一種の快感を感ずる。(p.121)
1935(昭和10)年,高村豊周を中心に无型を前身として「用即美」を旗印に「実在工芸美術会」が結成された。その第3回展(1938年)に,西川友武は「アルミニウム・アングル材利用の家具模型作品第八」「同第九」と題した模型を出品している。同展にはほかに,剣持勇や芳武茂介(1909-93年)ら工芸指導所の技師も出品している。木田拓也はこうした状況を,実在工芸美術会展がこうした技師たちの研究成果発表の機能を果たしていたことを指摘したうえで,工芸美術家の作品とは明らかに異質なこうした作品が許容された背景として,高村らが,自身は「あくまでも〈工芸美術〉の領域に踏みとどまりつつ産業工芸と関わろうとしていた」ことの現れだと論じている*6。
『軽金属家具』の126ページには西川が試作したアルミニウム椅子の写真が掲載されている。そのたたずまいには必要強度と軽量化とのバランスを極限まで追い込んだ結果として顕れる清廉の美が感じられる。杉田の言う「一種の快感」とは,この美に通じるものであろう。しかし一方,清廉というならばむしろ,鈍い発色のアルミニウム椅子よりも銀に耀く鋼管椅子の方ではないかと見るむきもあろう,そうした眼には,アルミニウム椅子は清廉というよりも単に低廉なだけと映るかもしれない。そうだとすれば,かつてアルミニウムがもっていたアウラが,その普及によって消滅したということである。当時の西川や杉田をアルミニウムに引き寄せたのは,このアウラにほかならない。
その後の西川友武
ここまで主人公ともいえる西川友武の経歴について触れていなかった。彼は,今日語られる日本のデザイン史において,必ずしも知名の人物というわけではない。最後に,アルミニウム椅子以降の活動も含めて,彼の略歴を記しておきたい。
西川は1904(明治37)年,東京生まれ。1926(大正15)年に東京高等工芸学校図案科を卒業した。『日本デザイン小史』*7所収の自身による証言「私の歩んだ道」によれば,「卒業後一時京都の日活撮影所で働」き,このとき菊池寛原作「第二の接吻」で村山知義デザインになる映画セットを手がけたことがあるという。しかしともあれ,商工省工芸指導所で「昭和三年創立当初から十余年」*8を過ごし意匠部長,指導部長を歴任*9したという。
戦時中は商工省の物価局に移り「美術及び工芸全般の統制に当り,いわゆる芸術保存及び工芸技術保存の行政を担当」,「大日本工芸会」から「日本美術及工芸統制協会」への改組に関わったらしい*10。おそらくこの頃の経験に関わるのであろう,彼はこけしを収集していた。そのコレクションを手放すのに際して著したのが随筆集『こけし物語』(昌美出版社,1964年)らしいが,未見である。このこけしコレクションは,今日のこけし研究家・愛好家のあいだでは有名らしい。
戦後の1946(昭和21)年には財団法人工芸学会の設立に尽力した。おそらく彼の最後の著書であろう1955年発行の『広告往来』(学風書院)の「著者紹介」によれば,1969(昭和24)年に,株式会社日本電報通信社すなわち現在の電通に入社,宣伝技術部次長,商業局写真部長,営業総務部長,整版部長,事業局総務部長を歴任。「現在,株式会社電通事業局附部長」となっているが,日本のデザイン黎明期を支えた人びとの証言の雑誌連載をまとめて1970年に発行された『日本デザイン小史』では,その肩書きは「工芸家」となっている。
前出の『広告往来』の内容は,出版社からの求めに応じて彼が書いた,業界裏話的なエッセイである。電通時代の彼の仕事を窺わせはするが,それらが軽金属家具の研究・開発とどのように関係するのかは,はかりようもない。それは,たとえばかつて西川のもとで働き,戦後のプロダクトデザインを先導した豊口克平や剣持勇の人生とどのように重なり,またずれるのか。個人の資質に帰してよいのか,時代の影を見るべきなのか。
工芸指導所は戦前期日本におけるデザイン研究・開発の先鋭集団であった。戦後、個人として名声を得なくとも,その経験と能力が産業界に必要とされた出身者は少なくない。「私の歩んだ道」で,西川は「今日デザイン界で活躍している人々の多くは,その在職期間に長短の差はあっても,一度は指導所の飯を喰って育ったものであるといってよい位である」と述べている。そのなかに自らの姿はあったのだろうか。1971(昭和46)年、逝去。享年67歳。
東京国立近代美術館リポジトリ
木田拓也「実在工芸美術会1935-1940 〈用即美〉の工芸」『東京国立近代美術館研究紀要』第13号,2008年
大阪大学学術情報庫OUKA
宮島久雄「アーティスト・デザイナー杉田禾堂の美術工芸指導論」『デザイン理論』第61号,2012年
*1:拙稿「YSY商標とSSS商標の鋼管椅子について」『日本建築学会大会学術講演梗概集(中国)F』1999年9月,pp.423-424。拙稿「1930年代日本の国産鋼管椅子とバウハウス周辺」デザイン史フォーラム(編)『国際デザイン史―日本の意匠と東西交流』思文閣出版 pp.92-97。
*2:建築資料研究社,1995年
*3:カロス出版、2002年
*4:森仁史『日本〈工芸〉の近代―美術とデザインの母胎として』吉川弘文館、2009年
*5:國井喜太郎「工芸の指導に直面して」『工芸指導』第1号(1929年6月)、国井喜太郎先生顕彰会『デザインの先覚者 国井喜太郎』1969年
*6:木田拓也「実在工芸美術会1935-1940 〈用即美〉の工芸」『東京国立近代美術館研究紀要』第13号、2008年,p.54
*7:ダヴィッド社、1970年
*8:『日本デザイン小史』p.123
*9:西川『広告往来』学風書院,1955年
*10:『日本デザイン小史』p.124