初出:森仁史(監修)『叢書・近代日本のデザイン 38 日本金属加工株式会社「YSY METAL TUBE FURNITURE 附 YSY鋼管家具値段表」『国際建築』第8巻第3号(昭和七年三月)抜刷)「YSY METAL TUBE FURNITURE」東京建材工業所「SSS CATALOGUE」横浜船渠株式会社「METAL TUBE FURNITURE 鋼管製家具」西川友武『軽金属家具』』,ゆまに書房, pp.315-325
発行日:2012年2月
※WEB掲載に際して加筆と図版追加を行った。
1930年代日本における鋼管家具
ヨーロッパにおける構成主義と鋼管家具
本シリーズに収録される『YSY METAL TUBE FURNITURE』(日本金属加工株式会社),『SSS CATALOGUE』(東京建材工業所),『Metal Tube Furniture鋼管製家具』(横浜船渠株式会社)【図1】,川喜田煉七郎『家具と室内構成』,西川友武『金属家具』,は,いずれも金属製家具に関係する資料である。ここでいう金属製家具とは,主として椅子や卓子を指す。その線材部分に,従来の木材に代わって金属材料が用いられているものである。この線材部分が金属製という点が新しい。
面材が金属というのなら,もっと前からあった。金庫や書架やベネシアンブラインドがその代表例だ。いずれも,折り曲げ加工を施した鋼板を,リベットや溶接により接合してつくる。折り紙をイメージすればよい。しかし,この時代に新しく登場した金属製家具は違う。金属が用いられるのは,もっぱら骨組みにである。しかも,それは鋼管である。鋼管は中空だから,曲げるのは容易だ(と,ひとまずは言っておこう。この点については後に触れたい)。一筆書きの針金細工のように折り曲げながら骨組みをつくっていく。端と端や,一筆書きにはならずに他の部品を組み合わせるときは,ねじを用いる。家具の面部分,たとえば椅子の座面や卓子の天板には,布とか板とか,異なる材料を用いる。
新しい金属製家具では,構造材と非構造材がはっきりと分かれる。構造材には耐力性を,そうでない部分は機能に応じた特性を求める。だから,生産工程も別々である。骨組みと,それらを一体化するねじと,その他の部材。これらは異なる工程でつくられ,最後に一挙に一体化されて完成となる。部品をひとつずつ加えていって,最後の部品が取り付けられたときが完成という過程とは異なるのである。つまり,実態はともあれ,新しい金属製家具には,機械生産による大量生産への志向が内包されているのである。
このような新しい金属製家具のイコンとも言えるのが,片持ち梁(カンティレバーcantilever)式の鋼管椅子【図2】である。この椅子形式のオリジナルについては,いくつかのエピソードが輻輳しているが,オランダ人建築家マルト・スタム(1899-1986年)のアイデアが基となって,家具デザイナーのマルセル・ブロイヤー(1902-81年),建築家ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969年)が,L&Cアルノルト社や曲木椅子で知られるトーネット社の強力を得て製品化したというのが通説となっている*1。
身体を保持する面,それを空間座標に規定する線。その必要最小限の要素に具体的な材料と寸法を与えたものが,この椅子である。建築評論家のレイナー・バナム(1922-88年)は,"Theory and Design in the First Machine Age" 1960*2において,この片持ち梁式鋼管椅子を「20世紀の傑作」と評し,次のように述べた。「このデザインはたちまち受け容れられ,鋼管椅子の完成したデザインとして長足の勢いで広範に広まっていった。ショワジイのフライングバットレスのように,それはあたかも,しぜんに生み出された名もない〈時代精神〉の産物のようである」(筆者訳)。オリジナルの考案者が誰かなど問題ではない。なぜなら,それを生み出したのは,20世紀の歴史的現実,すなわち技術革新と生産規模の劇的拡大を精神風土とした人間の価値観それ自体だからというのである。
この時代精神の芸術領域における顕現全般が「構成主義」だと筆者は考えるが,ここに若干の注釈が必要なのは,それがまさに20世紀的であるだけに,現代においてその事態を説明するに際してはもはや「構成主義」という呼称さえも必要とせず,逆に,「構成主義」といえばその源泉である革命後ロシアに起こった「ロシア構成主義」の,しかも抽象美や力動美といった美学的側面に限定しがちな点である。当時のロシア構成主義運動は,ほどなく実用志向と表現志向の二派に分裂して,前者は「生産主義的構成主義」と称されたが,革命直後の彼の国の工業生産をめぐる現実にあっては,その実用志向にも限りがあった。その後,生産主義は,それこそ時代精神として,発見と発明と技術革新の継起に当たり前のこととして回収されていくから,そこにはもはや芸術家の出る幕などないのである。結果として,今日「構成主義」と言えば,芸術家たちによる象徴秩序の変革のほうを指すことになっていったのも無理はない。このように考えてくれば,片持ち梁式鋼管椅子は,生産と表現という当時の構成主義の二つの志向が交差する地点に出現した構成主義のイコンというにふさわしい存在といえる。
とはいえ,1920年代半ばのヨーロッパにおいても,金属製の家具が一般的だったわけではない。1926年12月竣工のバウハウス校舎や,1927年7月開催のヴァイセンホーフ・ジードルング展などを通じて,鋼管家具は耳目を集めるようになったと思われるが,それはアヴァンギャルド芸術家や進歩的知識人のあいだでのことで,中間層や労働者層には不評だったと伝えられる。多くの人びとにとって,金属製の家具というのは,戸外や病院で使われるものというのが一般的な認識であった。じじつ,スタムが最初に試作品を持ち込んだL&Cアルノルト社の主力商品は,庭園や病院用の金属製家具だったし,1922年にアメリカで特許申請されたハリー・ノランによる金属製椅子は,その名も「ローン・チェア」(芝生庭用椅子)だったのである【図3】。
日本における鋼管家具の受容
その鋼管椅子は,ほどなく日本にも紹介されるのである。当時の建築雑誌を通覧するかぎり,最初は1928年3月から5月にかけて東京府美術館で開催された「仏蘭西装飾美術家協会展覧會」に展示されたルイ・ソオニョというデザイナーの作になる鋼管椅子だったと思われる。この展覧会の様子を報じた『建築畫報』同年7月号*3は,その対向ページにヴァイセンホーフ・ジードルングの室内に置かれた鋼管椅子の写真を配していた。おそらくこのふたつによって,日本人建築家や工芸家の多くが鋼管でできた椅子というものを知ることになったと思われる。【図4a,b】
しかし,情報の伝播と実体の受容には,程度の差こそあれ時間的なずれがある。日本における鋼管家具の受容という問題を検討することは,このずれの周囲で生じた事態を明らかにすることから始まるだろう。本シリーズに収録した金属製家具に関する資料は,この点に手がかりを与えるものである。
そもそも,日本における伝統的起居様式は「ユカ座」である。そこに「イス座」が導入され,やがてその割合が増大する過程が,椅子という装置の受容過程にほかならない。大正期から昭和戦前期にかけて,事務所,学校,工場など近代化の前線においていち早くイス座が導入されていった。しかし,そういうところで昼間は洋服を着て活動する人も,夕方家に戻れば,和服に着替えて畳の上で暮らしていた。漫画「サザエさん」(1946年連載開始)に登場する磯野家の主,波平を思い浮かべるとよい。結果的に,大衆レベルの生活全般に椅子が入り込んでくるのは,第二次大戦後のことといわれる。
したがって,鋼管椅子の情報がもたらされた昭和初期の状況は推して知るべしであろう。1932(昭和7)年,バウハウス留学中の建築家・山脇巖(1898-1987年)がドイツから日本の建築雑誌に送ったレポート「独逸に於ける鋼鉄家具の傾向」*4で,彼がまず腐心するのは,椅子の形式ごとに異なるドイツ語の名称に訳語を当てることだった。一言で椅子と言ってもいろいろな種類があるのだと,そういうところから説明を始める必要があったのである。【図5】
このような状況だから,鋼管椅子は,日本においてはヨーロッパ以上に新奇な存在であった。しかしそれでも,それほど間を置かずに,この国でも受容が始まる。その様相は,相互に関連しながら大きく分けて3種あった。第一は日本人モダニスト建築家による設計,第二はメーカーによる量産化,第三は都市の尖端的風俗である。
モダニスト建築家にとっての鋼管家具
日本人建築家がデザインした鋼管椅子の早い例のひとつは,バウハウスから帰国した水谷武彦(1898-1969年)が1931(昭和6)年3月に発表したものである。水谷はバウハウスの予備課程でモホイ=ナジ(1895-1946年)とヨセフ・アルバース(1888-1976年)に学んだ後,家具工房でマルセル・ブロイヤーに学び,1930年1月に帰国,母校東京美術学校の助教授として教鞭を執っていた。鋼管椅子に接したのはブロイヤーのもとだったという。同年11月以来,丹波屋商店の依頼で鋼管椅子数種と机を設計し,横浜船渠での製造を監督,試行錯誤を経て発表に至った*5。これらは同年5月に開催された「家庭用品改善展覧会」(主催=生活改善同盟・大日本連合婦人会)でも展示された*6。【図6】
いまひとつの早い例は,建築家・土浦亀城(1897-1996年)の実践である。土浦は1931(昭和6)年に竣工する谷井邸,第一の自邸以降,乾式構造(トロッケン・バウ trockenmontage Bau)で次々と住宅設計を行っていった。それらの室内に置く椅子として,当初,水道管を用いて金属製椅子を試作するが,強度と弾性が得られず失敗。しかし,その後の一連の住宅には必ず鋼管椅子を用いている。【図7】
日本における鋼管椅子について論じる際,この乾式構造との関連はきわめて重要だと筆者は考えるので,この点にも言及しておきたい。
日本における乾式構造は,ヴァイセンホーフ・ジードルングでヴァルター・グロピウス(1883-1969年)が試みた組み立て式住宅に刺激されて試みが始まった。あらかじめ工場生産された部材をボルトや釘によって組み立てる建築方式で,セメントや漆喰とは異なり,乾燥を待たずともよい材料と施工法であることから「乾 trocken」の語が当てられる。鉄骨骨組みに内外壁,屋根,床,開口部と,各部位ごとに適材適所の材料を取り付けることによって完成させる方式である。各部品は工業生産によって高性能・低価格を実現し,単純化・マニュアル化することで非熟練工でも可能な組み立て作業によって,結果的に低価格で高品質な住宅を供給できる。それが民衆を幸福にする理想の住宅だ。これが乾式構造の理念である。
ところで,今日この名称が構造形式の呼称として用いられることは,まずないだろう。というのも,その形式にはプレファブリケーションの語が一般化しているし,プレファブが主流の商品化住宅でなくとも,今や製品化された建築部材は多種多様で,それらをドライジョイントで組み立てるという方式は,きわめて一般的だからである。つまり,今日の技術環境にあっては「乾」も「組み立て」もことさら強調すべきものではない。一方同時に,どれほど建築部材の製品化が進展し,規格が整備されようとも,伝統工法や鉄筋コンクリート構造の意義が失われるものではない。これらの特質も広く認められ,状況に応じて選択されるものと考えられている。
しかし,1930年代における乾式構造は,そのような選択肢のひとつとして登場したのではなかった。選択可能性という点では,技術の未熟ゆえにむしろ低かった。じじつ,乾式構造を論じた建築家に比してそれを手がけた建築家は少なく,実施例となると,自邸を建てる機会か理解ある施主に恵まれた少数の実験的作品に限られるのが実際である。にもかかわらず,それは将来の住宅建築の理想像として択一的に設定されたのであった。
1930年代を通じて,とくにその前半には一群のモダニスト建築家たちによって乾式構造の住宅が試みられた。前述した土浦のほかに,蔵田周忠(1895-1966年),市浦健(1904-81年),山越邦彦(1900-1980年)らである*7。そして,これらの住宅には,必ず鋼管家具が置かれていた。それらには,鋼管のフレームに布,革,籐などが背や座に張られている。すなわち,乾式構造の住宅と鋼管椅子は,同じデザイン原理に基づいている。その背景にある思想が,生産主義的構成主義である。
たとえば自邸(1932年),阿部秀助邸(1935年)【図8】を乾式構造で設計した市浦健は,乾式構造の説明に「建築構造学」という概念を用いる。それは,今日一般に言う建築分野における構造学の意味ではない。それは,彼によれば「構造力学と材料学とを建築構成へと結びつける工学」だという*8。また山越邦彦は,建築における力学的エネルギーを扱う「構造力学」,光や熱や音といったエネルギーが建築部位によって伝えられたり遮られたりすることを扱う「遮断学」,材料の物理的・科学的特性を扱う「耐構学」の三部門を統合する「構築」概念を提唱する*9。さらに,川喜田煉七郎は,1920年代に蓄積したバウハウス情報に加えて,ラッシュ兄弟(Heinz Rasch, 1902-1996. Bodo Rasch, 1903-1995)の著書"Wie Bauen?" 1928の翻訳(書名は直訳すれば「いかに建てるか」だが,川喜田は「構築」と題している*10や,同じラッシュ兄弟による"Der Stuhl"1928の翻訳を入れつつ『家具と室内構成』(1931年,洪洋社)を著す。
「構造」といい「構築」といい「構成」といい,1930年代前半に日本の建築アヴァンギャルドが提唱した「構」をめぐる新概念は,デザインを成立させる諸要素が理想的に組織化された状態を指している。それはまさに,ロシア構成主義に発し西ヨーロッパに広がる構成主義が,その美学的側面のみならず生産主義的側面も含めて,極東の島国に正しく伝播したことを証している。
ただ,その思想が建築物として具現化するには,技術環境が未熟であった。しかし,家具ならば部材の組み合わせははるかに単純で,そこにかかる過重も小さい。家具ならば,生産主義的構成主義の理想がまがりなりにも実現できたのである。だから,日本の建築アヴァンギャルドが鋼管家具に示した関心は,もっぱら力学的特性,材料強度,生産合理性であった。彼らとしてもその新奇な美に魅了されないわけはなかったはずだが,生産主義を奉ずる限り,正面きって美を主題にすることはばかられたのである。
鋼管家具の国産メーカー
1930年代初頭には,すでにいくつかの国産鋼管家具に関わる企業が存在した。横浜船渠製造,丹波屋商店についてはすでにふれた。これ以外にYSY,SSSというブランドがあった*11。ほかに日本鋼管が製造していたという記述があるが*12,実体は不明である。なかでもYSYとSSSは当時の建築雑誌に頻繁に広告を出しており,鋼管家具のプロモーションに積極的であった。このような,広告やカタログがあるということは,すでにこの時期に,鋼管家具を一定量見込み生産し,その後に宣伝によって消費を促して生産分を売り切るという大量生産志向が伺える。少なくとも,町工場がモダニスト建築家の依頼を受けてから必要数のみを製作するというような生産方式とは,明らかにことなる。すなわち,この時期,鋼管家具をイノベーションとして捉える発想が生まれているのである。
YSYブランドの鋼管家具
YSYブランドは日本金属加工株式会社(本社大阪)の製造する鋼管家具である。『国際建築』の記事「YSY鋼管家具の製作」で同社社長の湯浅譲(1891-1969年)が述べるところによれば,YSYブランドの鋼管椅子が製品化される経緯は次のようである。
湯浅は日本金属加工株式会社の前身である湯浅伸銅株式会社から銅や真鍮パイプの新用途調査の命を受け,1920(大正9)年にヨーロッパに渡る。ドイツで真鍮パイプでつくられた家具を知り,工場を見学し「種々材料を集」め,1923年に帰国する。翌24年から「日本で初」めて「パイプを使用した家具」の製造を始める。この時点では,真鍮パイプを用いた単純なものだったようである。その後,渡欧中に知り合った早稲田大学教授(材料工学)吉田享二(1887-1951年)の技術指導のもと,1928(昭和3)年の春に鋼管家具を製作する。湯浅によれば,これが日本で製作された鋼管家具の最初であろうという。
この回顧に登場する1924年に製作したものと,1928年から製作したものとの違いについては判然としないが,吉田享二の次の発言*13が手掛かりを与えてくれる。
私が丁度今から彼れ是れ十年近くにもなりませうか,以前欧羅巴に参つて居りました時に,湯浅君も丁度金属加工の方面を研究に来て居られましたので,会々御懇意になりまして,爾来今日に及んで居るのであります。
その当時彼方に於きましては,金属家具が用いられる傾向が可なり濃厚に現はれて居りました。金属と申しましても今日のパイプ家具とは余程趣きの違つたものでありまして,主として真鍮方面の物で,例へばホテルのベッドとか家具類等は,可なり真鍮材料の物が非常に用ひられてゐたのでありますが。それ等の物は要するに在来の木製品よりは稍軽快に作られてゐると云ふ程度の物ではありました。湯浅君の研究の目的は,さう云つた金属の加工方面にありましたから,湯浅君は具さにその製造工場や製作工程に,或は市場の状態に就ても深く研究せられ,大いに得る處あつて帰朝せられたのであります。私も帰朝後研究を続けて居つたものでうから,私が特に刺激を受けた物などがありました場合は,その家具をスケツチしたり,或はカタログのやうな物があれば会社の方へ送つたりしてゐたのでした。其の内パイプ家具は新らしい形態をもつて進んで来たのです。曾て手に入れましたパンフレツトで得る處があつたものでしたから,早速会社の方へも送つたのでした。会社の方でも此の方に研究を進めて居たものでしたから,此の方へ変つて深く研究を進める方針になつたのです。敢えて私が言ひ送つた為ではありません社長の永年の研究が実を結び初めたのです。慥か昭和三年の頃のことでした。
つまり,湯浅伸銅が1924年に製作を始めたのは,様式的にはさして新味のない真鍮家具で,1928年に製造を始めたものは鋼管を用いて,おそらく片持ち梁を含む新しい形式(「パイプ家具は新らしい形態をもつて進んで来た」)でデザインされたものであったと考えられる。ともあれ,その後日本金属加工株式会社となって製造販売する金属家具の品揃えには片持ち梁構造のものが含まれている。
筆者が調査したYSYのカタログ【図9】は,ほぼ菊判,墨色一色刷り,全38ページの冊子体である。発行年の表記はないが,表紙の絵柄と,1930~31年モデルを収録したトーネット社カタログ(デザインはハーバート・バイヤー,1900-85年)の製品写真に表現上の共通点があることから,1931年以降のものと考えられる。その共通点とは,トーネット社カタログの製品写真【図10】のいくつかには,背景の床や壁に落ちた製品の影を本体とともに写し込む演出が用いられているのだが,写真とイラストの違いはあるが,YSYカタログ表紙のイラストにも同様の表現が施されていることである(興味深いことに横浜船渠株式会社のカタログも同様である)。
このYSYカタログには,写真と製品番号が符号する製品が全部で112点掲載されている。そのうち椅子は68点。それ以外は,机,寝台,書棚,キャビネット,ワゴンなどである。椅子のうち,チェアchairが55点,腰掛けstoolが11点,寝椅子chaise longueが2点である。片持ち梁構造をもつものは,全六68点のうち34点,チェア55点のうちでは33点。すなわち半数以上を占めており,この形式が鋼管椅子の典型となっていることが伺える。
椅子全68点のうち,オリジナルモデルを特定できるもの,つまりコピー製品とみなせるものが35点ある。これらのうち,31点がトーネット社,3点が当時のドイツでトーネット社に並ぶメーカーであったデスタ社(DESTA:Deutsche Stahlmoebel),ベルリン金属工業(Berliner Metallgewerbe),カバゾ社(Cabaso)が各1点である。ベルリン金属工業は,ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969年)設計の鋼管家具メーカーである。このカタログには「当社独特の意匠,設計により」とは記されているものの,YSYブランドの少なからずがトーネット社に倣っていたことがわかる【図11】。先の引用中にある吉田が送った「カタログ」が,このようなかたちで活用されたのであろう。
ところで,YSYのカタログに掲載された製品図版には,写真なのかイラストなのかが判然としないものもある。また,そうした製品単体の図版以外に,鋼管家具を配したインテリア写真も複数掲載されている。それらにはキャプションがなく具体的な物件の特定は難しいが,全体的な雰囲気から海外事例と思われる。もし国内に一定の納入事例があるならば,カタログ作成に際してはそれらの写真を使用するほうが自然であろう。この点には,少々違和感を覚えざるをえない。カタログ掲載の製品は多種多様だが,果たしてそれに見合うだけの生産態勢が整っていたのだろうか。
とはいえ,1930年代半ば以降の建築写真,絵画,映画には鋼管家具が散見されるから,YSY製品か否かはべつとしても,それらが国産品である可能性は十分あり得よう。以上のことから推察されるのは,カタログには海外事例を参考にして製品ラインナップを示しておいて,受注があった場合にはその数に応じて製作するというものではなかったかということである。仮にそうだとすれば,それは手工業的な生産過程であり,鋼管利用による家具生産の機械化・工業化とは乖離している。
しかし,鋼管家具の需給バランスがいちおうの採算ベースに乗るまでにそのような事態があったとしてもなんら不思議ではない。すなわち,国産鋼管家具の検討には鋼管家具メーカーの出現と国産製品の浸透の時間的ギャップを含めておく必要がある。
いずれにしても,吉田33歳,湯浅29歳,異国での出合いが鋼管家具の国産化につながった。「独自の意匠」とは言えないまでも,その功績は記されておくべきだろう。ふたりの略歴についても,触れておきたい。
吉田享二は日本近代建築史上,知名の士である。1887(明治20)年,兵庫県美方郡生まれ。東京帝国大学建築学科を卒業,教授・伊藤忠太の推挙で早稲田大学講師となり,以後没するまで同大で教鞭を執った。建築材料の耐久性研究で工学博士。戦後1949(昭和24)年には日本建築学会第21代会長を勤めた。日本における建築材料学の先駆者である。
湯浅譲については,これまで寡聞にして詳細を知らない。筆者は2001年頃に調査*14を試み,若干ながら関係者とのやりとりなども行ったが,たちまち行き詰まり,その後進展していない。それでも若干の情報が集まったので,この機会に記しておきたい。
『日本紳士録』第58版(1969年)によると,1891(明治24)年,大阪府生まれ。1912年(明治45)年,川口商業学校卒業。この学校は旧川口居留地の川口基督教会によって設立された私立学校。ちなみに,同紳士録には信仰する宗教の項があって,「基督教」とある。1920(大正9)年に「ロンドン大学経済学科卒」となっているが,詳細は不明。というのも,前述したとおり,彼は会社の命を受けて1920年に渡欧,23年に帰国したと自ら話しているのだが,これとの関係がわからないのである。同書発刊時点での肩書きは「日本林業殖産(株)社長 大阪伸銅 湯浅商店(株)相談役」となっている。
湯浅伸銅は,譲の父・元十郎(岡山県出身)によって明治後期に創立。彼はフランスから継ぎ目のない銅管を輸入し,これを手本として,ついに1907(明治30)年,銅管の抽伸に成功したという。譲は二代目社長。自身が述べるように,帰国した翌年の1924(大正13)年,湯浅伸銅社内に「加工部」を新設して「パイプを使用した家具を作る様にな」*15った。1928~30年頃にこの加工部を独立させて「日本金属加工株式会社」を設立,工場を大阪市西成区辰己通3丁目(現西成区玉出東2丁目)に,営業部門を「湯浅商店」と称して南区末吉橋通2丁目(現中央区南船場2丁目)に置いた。この頃,東京市日本橋区小伝馬町3丁目(当時)に東京支店を置くほか,神戸,名古屋にも代理店があった。金属家具や室内装飾品以外にゴルフクラブのシャフト,「YOY」ブランドで湯沸器を製造販売していたこともあるという。YSYやYOYの両端のYは湯浅譲の頭文字と教えられたが,SやOの意味をはっきりと知る人はいなかった。戦中は軍需産業として操業,満州にも進出している。
戦後は,京阪電車に特急が運行され始めた頃というから1950年頃かと思われるが,ラッシュアワーに車輌内に持ち込む「補助椅子」を受注・納品したことがあったという。京阪電気鉄道でこのような補助椅子利用がいつ頃まで続いたのかはわからないが,もちろん現在そうしたことは行われていない。ただ,その名残の現物が沿線駅の事務室に残っていた。実見したが,式典などで講堂に並べられるふつうの折りたたみ式パイプ椅子だった。
時期は不詳だが,湯浅伸銅はその後経営権を大阪伸銅に移譲,前出の経歴で大阪伸銅相談役とあるのは,そのためであろう。大阪伸銅は後に拠点を京都府八幡市に移し,1980年頃に自主廃業している。「日本林業殖産」は湯浅が枚方市の自邸に置いた木工工場らしいが,その内実は聞き漏らした。
ところで,この自邸というのがまた広大で,かつては邸内にプール,テニスコート,茶室,畑があったという。畑は他人に耕筰させるほか,晩年には自身も早朝から野良仕事に精を出し,一風呂浴びてから堂島ビルヂング(大阪市北区)の清交社に出掛けるのが日課だったという。社団法人清交社は,1923(大正12)年の創立以来今日に続く社交クラブで,湯浅はその社員だった。窓辺の席で碁盤に向かう姿がしばしば見られたという。
戦前から湯浅伸銅に勤務されたある方は,「今から思えば嘘のような話だが」と前置きされて次のように語られた。「当時の湯浅伸銅は名門で,松下電器に行くか湯浅伸銅に行くかと言うぐらいで,七宝のバッジを誇らしげに胸を張って闊歩していた時代でした」。松下電器(現パナソニック)が自転車用角型ランプを当てて,ラジオの生産で飛躍し,現在の門真市に大規模な工場を建設した一九三〇年代のことであろう。大阪の中心地ミナミでさえ木造家屋が低く連なる,そのなかにそびえる白亜の湯浅商店ビルと,西成の田畑地帯に突然現れたような連棟式の工場群のイラストを見れば,それも十分うなずける話である。【図12】【図13】
こんなことを考えても詮無いことだが,事業の回路が別様につながれば,あるいは湯浅伸銅も松下電器のその後のような発展をたどったのかもしれない。結果からすれば,鋼管家具はたしかに当時のイノベーションではあったが,エレクトロニクスのそれのようにはいかなかったということだろう。高度経済成長期以降,トーネットをコピーしたような国産製品が数多く出回るようになって,ちょっとしたビルのロビーや町外れの喫茶店などでもふつうに見かけるようになった。しかし,こうした動向に,その先駆者であるはずのYSYが関わることはなかった。銅から鋼へと金属加工で発展した湯浅伸銅の末路が木材加工というのも,なんともはや感慨ばかりが深いのである。
SSSブランドの鋼管家具
SSSブランドの鋼管家具は東京建材工業所が生産したものである。『スチール家具産業史』*16によれば,同社は1924(大正13)年創立で,鋼鉄家具,ベネシアンブラインドを製作していた。冒頭で触れたように,当時「鋼鉄家具」という場合は,おもに薄鋼板をもちいたキャビネットや積層書架を指す。1939(昭和14)年に東京建材株式会社となった。
筆者が検討した同社カタログ【図14】は528×384ミリ大の両面印刷一枚ものを八ツ折りにしたもので,ほぼ四六判。片面に鋼管家具,他面に鋼鉄家具が掲載されている。発行時期の記載はないが,カタログ中に掲載された「特許SSS式鎧型通風日除」の品質を証する賞状写真にある日付のうち最も新しいものが「昭和七年五月」であることから,1932(昭和7)年から社名変更のあった1939(昭和14)年の間であったと考えられる。
東京建材工業所は本社を東京市渋谷区千駄ヶ谷5丁目(当時),大阪出張所を大阪市西区阿波堀通1丁目(当時)に置き,製品の流通は浅野物産株式会社建材部を代理店とした。浅野物産は浅野財閥系グループ会社であり,東京,大阪,名古屋,札幌,門司のほか,当時の「外地」である新京,台北,大連,京城に拠点を構えていた。
同社は1924(大正13)年よりドイツ製の「鋼管湾曲機」を導入して鋼管家具を製作し始めたというから,創立当初より鋼管家具を製作していたことになる。ただ,当時のそれらがどのようなものだったのかは,よくわからない。ともあれ,カタログ中には次のように記されている。
SSS鋼管家具ニ附テ
弊所ハ大正十三年震災ノ翌年ヨリ独逸製鋼管彎曲機ニヨリ何等管内ニ?坑物ヲ挿入セズ又曲部ヲ火熱シテ材質ヲ弱メズ最モ優秀ナル彎曲法ニヨリ管ノ強度ヲ完全ニ保持シ製作シテヰマス管ハ引抜磨鋼管ヲ採用シ鍍金法モ独特ノニツケル銅下ノ四囘クローム仕上ヲシテ居リマスカラ優ニ舶来品ヲ凌ギ耐久力モ十ケ年,浮錆ノ心配ハアリマセン此ノ點ハ特ニSSSト御指名ヲ願ヒマス鋼管家具ノ錆安イノハ鍍金法ノ粗悪ニアリマス弊所ハ材質工作並仕上ゲ等ハ充分吟味シテ永年圓熟セル設計ト製作ヲ第一主義トシテ居リマス又塗装ノ場合モ電気焼付法ニヨル硬質仕上ヲ採用シテ居リマス本格的鋼管家具トシテ各位ノ御賞賛ヲ戴イテ居リマス
要点は,優れた曲げ加工技術により鋼管フレームの強度が高く,メッキ加工・焼き付け塗装ともに高品質なため錆に強く耐久性がある,したがってコストパフォーマンスが高いと訴えている。金属管の曲げ加工については,従来,彎曲部の断面形を保持するために砂や松ヤニを充填し高温に加熱して部材を柔らかくして行う方法があった。しかし,この方法では曲げ部の強度を著しく損ねる。そこで考案されたのが,今日一般に「引き抜き鋼管曲げ加工」と称される方法である。これは,鋼管の外側をローラーで,内側を先端に所期の径をもった球で挟み込み,内側の球を引き抜きながら曲げる方法である。「独逸製鋼管彎曲機」とは,おそらくこれを効率的に行うものであろう。この方法は,YSYでも同様に採用されていたと思われる。
このカタログには全32点の鋼管家具が掲載されている。そのうち鋼管椅子は16点で,その内訳は,折りたたみ椅子3点,チェア8点,寝椅子1点,腰掛け1点,ソファーベッド2点,連続椅子1点である。片持ち梁構造をもつものは7点ある。オリジナルモデルが特定できるものが6点で,この商標の場合もほとんどがトーネット社に倣っている。
国産鋼管家具の意匠を検討すると,YSYについてはほぼ半数,SSSについては約三分の一についてオリジナルモデルが特定できた。それらのデザイナーは,マルト・スタム,マルセル・ブロイヤー,ミース・ファン・デル・ローエ,ル・コルビュジエ(1887-1965年),アンドレ・リュルサ(1894-1970年),アントン・ローレンツ(1891-1964年),ルックハルト兄弟(ヴァシリー1889-1972年,ハンス1890-1954年),エーリッヒ・ディークマン(1896-1944年)であった*17。
都市のモダン風俗における鋼管家具
日本における椅子の普及状況については先に述べた。それをふまえるなら,こモダニズム建築家たちが設計した乾式構造の住宅やその室内の鋼管家具は,あくまで例外的な存在だったというほかない。
一方,SSSブランドのカタログには,納入実績を示すためであろう,鋼管椅子が設置された伊勢丹デパートのパーラーやボールルーム・フロリダ(1929年,東京赤坂にできたダンスホール。設計=石本喜久治)の室内写真が掲載されている【図15】【図16】。YSYの鋼管家具については東京上野の松坂屋,日本橋三越で販売したという話も聞いた。実際にどれほど売れたのかということよりも重要なことは,鋼管家具がモダン風俗として1930年代の都市を装飾するものになっていたと思われることである。
モダン風俗の象徴としての鋼管家具は,同時期の絵画作品にも登場する。日本画では大田聴雨「種痘」(1934年)【図17】,谷口富美枝「装う人々」(1935年)【図18】,洋画では中村研一「瀬戸内海」(1935年)【図19】。いずれも鋼管椅子の形状や金属の質感,そしてそれらが醸し出す冷ややかな温度感といったものが主要なモチーフとなっている。それは,鋼管家具が日本における実際の住生活にどれほど許容されるものだったかという問題とはまた別次元で,それがもつ新奇さを前提として成立する主題だといえる。
1930年代の日本が,ヨーロッパから発した時代精神の波をどのように受け止めたのか。鋼管家具をめぐる異なる三つの立場―モダニスト建築家,メーカー,大衆―を通して検討してきた。今日,それを具体的に示すはずの国産鋼管家具の実物は,ほとんど残っていない。そもそも生産量が少なかったのか,品質が悪いために壊れたものが多かったのか,あるいは一九四二~四三年の金属類回収令の影響なのか。
金属に代わって登場したのが竹である。この時期,竹は日本が誇るすぐれた材料として喧伝された。1941年,商工省貿易局の招きで来日したフランス人女性デザイナー,シャルロット・ペリアン(1903-99年)が,かつてル・コルビュジエとともに鋼管でデザインした寝椅子を竹でリ・デザインしたことは,この間の状況の変化を象徴しているように思われる。
*1:矢代眞己・近江栄「マルト・スタムによる〈鋼管片持ち方式椅子〉について」『平成3年度日本大学理工学部学術講演会論文集』)
*2:2nd ed. The MIT Press, 1980, p.198 邦訳『第一機械時代の理論とデザイン』1976年
*3:第19巻第7号
*4:『国際建築』第8巻第3号,1932年3月
*5:水谷武彦「鋼管製家具」『帝国工芸』第5巻第5号,1931年5月
*6:川喜田煉七郎「家庭用品改善展覧会の設計に関連して」『建築畫報』第22巻第7号,1931年7月
*7:拙稿「思想としての乾式構造」中村昌生先生喜寿記念刊行会編『建築史論聚』思文閣出版,2004年
*8:市浦「住宅と乾式構造」『国際建築』第8巻第3号,1932年3月
*9:梅宮・矢代「山越邦彦の提唱した〈耐構学〉の性格について」『日本建築学会大会学術講演梗概集(北陸)F-2,2010年
*10:『建築畫報』第22巻第8号から第24巻第6号まで断続的に連載
*11:拙稿「YSY商標とSSS商標の鋼管椅子について」『日本建築学会大会学術講演梗概集(関東)F』1997年
*12:松本政雄「金属家具の発達及其の形態」『国際建築』第8巻第3号
*13:吉田享二「YSY鋼管家具に就て」『国際建築』第8巻第3号,1932年3月,p.156
*14:日本伸銅協会関西事務所,湯浅譲氏ご息女浜子氏にご高配とご助力を賜った。記して謝意を表します。
*15:湯浅譲「YSY鋼管家具の製作」『国際建築』第8巻第3号,1932年3月,p.162
*16:八木朝久編著,1976年,株式会社近代家具
*17:前掲「YSY商標とSSS商標の鋼管椅子について」