所収:『TEMPOLOGY Vision』特別号(一般社団法人テンポロジー未来機構) pp.3-5
発行日:2020年5月
はじめに
川喜田煉七郎とは何者か。1920年代後半から1930年代初頭にかけて,青年期の彼は建築家といってよいかもしれない。建築学科の卒業だし,建築図面も多く発表した。彼が代表幹事を務めた当時の先進的グループの名称は「新興建築家連盟」だ。では代表作は? となるが,これがない。いや,計画案ならばたくさんあるのだ。そればかりか,1930年に開催された「ウクライナ劇場国際設計競技」では,グロピウスやペルツィヒといった国際的に著名な建築家をおさえて上位入選してもいる。しかし,それらは,みな壮大過ぎた。実現したものは,わずかな小品のみ。それでも,建築家といえるだろうか。
1930年代半ばの彼は,銀座で新建築工芸学院という私塾を主宰し「構成教育」と呼ぶデザイン教育を展開した。バウハウス予備課程のカリキュラムを採り入れ,織物科,工芸美術科,演劇科,建築科を置いた。「日本のバウハウス」と称される所以である。では,彼は教育者に転じたのだろうか。たしかに,この構成教育は当時の若手小学校図画教師に注目された。当時,川喜田の周囲に集まった小学校図画教師たちは,戦後の指導要領策定に関わるなど学校美術のリーダーになる人びとである。しかし,当の川喜田自身が教育者たろうとしたわけではなかった。学校教育界での盛り上がりと入れ替わるように,彼は構成教育を辞めてしまう。
1932年から1936年まで,川喜田は『建築工芸アイシーオール』という雑誌を独力で編集した。その発行所は,当時建築専門出版社として有名な洪洋社である。同誌創刊以前から,彼は記事や翻訳を書きまくっていた。連載もあれば,複数の同月他誌に記事が載っている。おそらく,当時発行されていた建築関係雑誌のほとんどすべてに登場しているだろう。その意味で,彼はジャーナリストだったといえそうだ。じじつ,その頃の日本建築学会名簿の職業欄は「建築ニ関スル出版物ノ編輯」となっている。しかし彼は,他人の記事を編んで満足できるひとではなかった。あくまで自分に発信したいことがあり,メディアはそのために必要だったのである。
その建築学会名簿1938年版の職業欄は「東京商工会議所商工相談所参与」,翌39年版からは「川喜田店舗研究所」となっている。正式には「川喜田煉七郎店舗能率研究所」と称した。この名称,今日では特段気にも留めず読み流してしまいそうだが,当時,店舗を専門とすること,さらにそれを「能率」において追求することを掲げたのは画期的である。店舗を正面から研究の対象にするなど,誰も考えなかった時代のことである。
自身が記すには,手掛けたその数1936年11月時点で473件,3年後の1939年10月で864件,1年平均130件というハイペースだ。スタッフがいたとは伝えられるが,それにしても多い。というのも,彼の店舗設計は製図板に向かって行うものではなかった。産業心理学者の上野陽一を筆頭に,ニッケ宣伝部出身の広告人水田利夫,後に大阪産業能率研究所の所長を務める園田理一とチームを組んで,商店経営の全国行脚をするというもの。前述の数字は,そのコンサルティング件数である。
彼は店舗の設計のみならず,店舗診断の手法開発も行っている。それは,店主自らが経営状態を認識し,問題点を発見して,自ら改善につなげるためのシステムである。結局この方向が,その後の川喜田の活動展開となる。彼は,1951年に発足する日本経営士会の初期からの会員であった。1961年に店舗設計家協会(現日本商環境デザイン協会)が発足すると,初代会長に推されている。店舗設計は,今ならば,商環境プランナー,空間プロデューサー,インテリア・デザイナー等,専門化と総合化が同時に進んでいる。異分野からの参入もめずらしくない。川喜田はこうした流れのパイオニアなのである。
川喜田煉七郎はアウトサイダーなのか
しかし,彼が日本近代建築史に登場するのは,このパイオニアとしてではない。まずは,「ウクライナ劇場国際設計競技」の入選者としてであり(入選案の内容ではなく),バウハウスの影響事例(「構成教育」における川喜田の意図ではなく)としてなのである。もちろん,どちらも特記すべき事項ではある。しかし,そのことが彼の歴史的位置づけをよけいにわかりにくくしてもいる。コンペ応募案の内容や,バウハウスの影響の内実意図を検討しないまま,国際的活躍だからとか,バウハウスは有名だからと川喜田の名をあげてしまうと,経営コンサルタントへの活動展開は,さらにわかりにくくなるだろう。
たとえば,川喜田を早い時期に論考の対象とした村松貞次郎氏は,1965年に彼を「建築界のアウトサイダー」と位置づけ,次のように記した。
現在の彼は,店舗設計家協会の大立物(ママ)である。しかし店舗の設計から一歩出て,経営コンサルトの仕事に情熱をそそいでいるようだ。(中略)建築家の業務も計画者的方向に大きく転換しようとしている。川喜田煉七郎と相まみえる日もそう遠くはなさそうだ。その時こそ川喜田煉七郎はわれわれのインサイダーとなるだろう*1。
その約10年後に再び川喜田に言及し,次のように記した。
川喜田はもちろん建築は総合であるとしきりに説く。そして分析した。(中略)さかんに科学的・合理的な理論を展開したが,その総合がなかったように私は思う。あるいはそれは理論ではなくて情熱とか創造力とかいうものであろう。(中略)分析したものの機械的な総合ではなくて,それをまとめあげる心的な何かがなければ建築の芸術は成立しない」*2。
これに異を唱えたのが,1976年に川喜田の活動を発掘的に詳細化して論じた三村翰氏の労作「川喜田煉七郎」*3である。同氏は「〈総合力〉というものの考え方については,私は村松貞次郎と根本的に同意見である」*4としたうえで,「川喜田煉七郎の数々のプロジェクトや建築作品の中に〈情熱〉も〈創造力〉も〈心的な何か〉も〈詩の精神〉も一切認められないということであろうか」,「(ウクライナ・コンペ案よりも;筆者注)私はむしろこの〈霊楽堂〉(後述;筆者注)の方を高く評価したい。斬新で豊かな構想力こそが見られるべきなのだ。そして結論的に私がこの〈霊楽堂〉を高く評価するのは,この一点においてなのである」*5と述べる。
両者の見解は一見対立しているようでいて,一致している。ともに,建築の価値を「情熱」や「創造力」から生まれる「芸術」としているからだ。村松氏は川喜田を評して「その貪欲なまでの,まとまりのない知識の"仕込み"には。後発国日本のインテリの焦りと"虎の巻"的抜け駆けの心情がみえ,なんともやりきれない」*6と述べ,三村氏は「当時の世界的な〈合理主義〉〈機能主義〉の風潮を反映しすぎているキライがあり私自身今日の眼からすれば"不満"もあるが」*7と述べる。やりきれないのと不満なのと,心情レベルのニュアンスは違っても,「合理主義」や「機能主義」は,「芸術」としての建築を貶めるものとしている点では変わりがない。村松氏の論旨は後世からの断罪でしかないし,三村氏も過去の作品のほうがよかったというのでは救済にならない。いずれにしても,これでは時間の中に生きる人間像を描くこと,すなわち歴史叙述とはいえないのではないか。
この点について正鵠を射る指摘を行ったのは,八束はじめ氏の1984年の論考「日本のモダニズム」*8である。同氏は,村松氏と三村氏とのあいだで問題となった同じ箇所を引用したうえで,次のように述べる。
実作への総合化への観点を欠落したまま(それがこの歴史家の川喜田批判の理由であった)で小手先の理論を弄したということ(それを彼は日本の後進近代の弊であるという)が問題なのではなく,モダニズム一般にひそむ理論上のアポリアがこの時代の日本にも,それなりの特殊な形で表れたとみるべきなのである。それは,私見では実作の質の高さにも拘らず(先に示唆されたようにその逆ではなく)理論の迷いこんだ迷路として立ち現れたのである。*9。
八束氏が「(モダニズムの)アポリア」あるいは「迷路」と指摘するのは,筆者の理解では,モダニストたる建築家がリアリティを自らの外部に措定したときに自己の内部に生じることになる不連続性である。あるいは,アヴァンギャルドが大衆という他者に出会ったときに被ることになる変容と言ってもよい。川喜田の場合それは,すでに述べたような霊楽堂やウクライナ劇場案といった計画案の制作から,構成教育を経て経営コンサルタントへと至る活動展開であり,店舗設計で店主たちに対応するなかで変化していく認識であった。
このまま川喜田をアウトサイダーにしておいては,日本における建築のモダニズムは描けない。川喜田煉七郎とは何者か。彼の活動を再び建築史に回収して検討する必要がある。その際のキーワードが,「図解」である。「図解」という川喜田の表現意欲が,建築家,デザイン教育者,ジャーナリスト,経営コンサルタントとしての川喜田の建築に対する態度を貫いていると考えるからだ。
図解の人,川喜田煉七郎
「図解」とは,文字通り図で説明することだ。絵解きとも言うように,その語には,どこまでも平明でわかりやすい印象がある。「図解」と聞けば,人は安心し,そのあとにもたらされるであろう了解と納得に期待する。
経営コンサルタント時代の川喜田が出版した書籍には,そのタイトルに「図解」と入ったものが少なくない。『図解式店舗設計の実際』(誠文堂新光社,1937年),『図解式店舗設計陳列全集』(モナス,1940年),『図解講座 店舗とディスプレー』(ビジネス社,1974年)。たとえ表紙に「図解」の語がなくとも,ページの中身は図解に満ちている。これらはみな,経営者たちに向けに書かれたものである。
川喜田の店舗設計は,商いにまつわる人間の心理と行動を空間化することであった。平面や什器,棚や装飾をどのように仕掛ければ,ヒト・モノ・カネはどう動くのか。前者は見えるものだが,後者を直接見ることはできない。しかし両者は,明らかに関係がある。うまくいけば儲かる,この「うまく」が川喜田の言う「能率」にほかならない。その見えないメカニズムを,図解を用いて建築には素人の店主たちにもわかりやすく説明する。そこに川喜田の真骨頂があった。
しかし,こうした「図解」は店舗設計活動で初めて現れたのではなかった。川喜田は,そのキャリアのごく初期から,見えないものを描こうとしていたのである。
最初期の作品「霊楽堂の草案」(1924年)は,彼が心酔し直接の交流もあった作曲家山田耕筰の文章「音楽の法悦境」*10を図面で表現したものである。注目すべきは,立面図の開口部の奥で揺らいでいる抽象的な線条模様である【図1】。それは,山田の神秘主義思想にもとづく音楽の「精髄」の視覚化なのであった。
続く「霊楽堂」もまた山田の同じ音楽堂構想にもとづいている。勢いのある筆致,強調されたコントラスト,コンテで黒々と描かれたフリーハンド・スケッチは,この時代の建築図面としては異色である。そのインテリアが描かれた1枚に,象徴派詩人三木露風の詩集「白き手の猟人」(1913年)の一節が添えられている。「かくてまた何物か次第に浮び/點となり線となり,踊るがごとくなり/ひきはへて動ぐ布とぞなる。/布は顫動す,きらびやかに/布は顫動す,波をうちて」。点が線となり面となる「何物か」。ここで川喜田は,その気配とでもいうものを描こうとしている【図2】。
しばらく後に彼は,この頃のことを振り返って次のように述べている。「その頃の自分は,〈メーテルリンク〉や〈悪の華〉やヴェルレイヌやマラルメや三木露風や,ベルグソンを読んで,栄久町のある寺の墓場の隅に四畳半の家をつくつていた」*11。1920年前半は,日本の若手建築家にドイツ表現主義の影響が現れたが,川喜田の記述は,それがさらに広く世紀末の象徴主義の圏域にあったこと窺わせる。ただ,それがどれほど象徴的・芸術的で,「図解」の字面に似つかわしくないとしても,それは川喜田にとって,見えないものを描く手立てだったのである。
その後の自身の思想変化を,川喜田は「建築芸術至上主義」から「建築科学至上主義に急激に転向」したと記している*12。ウクライナ劇場案に至る一連の劇場計画案は,この「建築科学至上主義」の成果である。建築雑誌上に発表した海外事例の紹介や文献の翻訳―ル・コルビュジエ,アドルフ・ベーネ,アレキサンダー・クライン,ハインツ&ボード・ラッシュ―は,その合理性証明のために行った学習のいわば副産物だった。
たとえばウクライナ劇場案の応募図面。そこでは,舞台機構,映画の上映システム,それらの組み合わせパタン,ホワイエから客席に至る経路,劇場で働く人びとの労働環境【図3】など,動線や複雑な内部機構が分解・抽出されて,巧みなアクソノメトリックやダイアグラムとして表現されている。こうしたグラフィックスは,今日では建築学科卒業設計のプレゼンテーションにも,地下街や高層ビルの案内板にも見られるものだが,当時の日本の建築界ではやはり異色であった。それは,建築を機械として捉え,その見えないメカニズムを視覚化した「図解」表現なのである。
川喜田入選の報を受けて,新興建築家連盟の仲間が開いた祝賀会で川喜田はこう挨拶した。
私の応募案を御覧になりまして,何だこんなものが,こんな案が……とお思ひになるお方が,多ければ多い程,今日の会は有意義になると存じます。(中略)私はこの案を,一個の建築技術者としての立場からやつたにすぎません。我々の手元での建築のコンペチションが殆ど美術的な趣味的なファサードのでつちあげに終わり,単なるドラフトマンとしての仕事である事をあきたらなく思つていたやさき,こんどの応募規定を見てやる気になりました*13。
ここで川喜田が「ファサードのでつちあげ」というのは,この頃の国内コンペで問題視されていた東洋趣味や日本趣味といった建築様式の押しつけだけではない。ル・コルビュジエの「住宅は住むための機械」という警句を喧伝しながら,結局はその作品の外形を真似るにとどまっていた日本のモダンスタイル風潮への批判でもあった。
川喜田は,自ら標榜する「建築科学機能主義」「建築技術者」を次のように述べていた。
科学的体系の発見に迄飛躍せぬ迄も,彼の提出したそれを,十分吟味し,咀嚼し,体験し総合し応用するだけの分析的科学的な頭と力をこれからの我々は身につける必要がある。(中略)そこには,その推究の途中,必ず一度は仮定せねばならぬある概念があるではないか。(中略)これを仮定しさらにそれを経験的に応用して分析証明することによって,終局の科学的体系が成立するのではないか*14。
「彼の提出したそれ」すなわち「一度は仮定せねばならぬある概念」を「型」と呼び,それは経験を通して常に更新されなくてならないとされた。そのための「分析的科学的な頭と力」のトレーニングが構成教育のカリキュラムであり,そこではあらゆることに目を開く必要を訴えた。彼が新建築工芸学院の機関誌,構成教育の教科書として独力で編集した雑誌を「I SEE ALL」と名付けた所以である【図4】。
おわりに
川喜田の思想は,1930年代前半の建築運動とその挫折のなかで鍛えられ,構成教育を通して現実世界へと開かれていった。その先に逢着したのが店舗設計の世界である。自己の内部で観念的で生硬だった論理は,商店主たちのリアルな現実に出会って,こなれていった。それは「倒れかゝつた店」すなわち苦しい経営状態なのだから,まずはできる範囲で改造する。状況が改善されて新たな局面を呼び込むと,そこでまた手を加える。そのようにして「常に動き,常に変化し,永久に止まるところを知らない」*15のが店舗設計の世界だというのだ。
この考え方はラディカルである。当時は(そして今も),設計とは完成イメージを示すものとされる。未だ姿のないものを示すのだから,それはできる限りリアルに描く必要がある。当初は川喜田自身も,そう考えていた。表現手法こそ時代の動向を反映して変化しているとはいえ,霊楽堂やウクライナ劇場の図面がいずれも力作に見えるのは,そのリアリティの強調ゆえである。アンリアルなものをリアルに見せるためにこそ,思わせぶりな振る舞いが必要とされる。
川喜田は,かつての自分も陥っていたその欺瞞を告発する。そして,変化し続ける現実を肯定し,そこから新たな現実をつくり出そうとする。建築を変化の相で捉えようとする彼の図解は,その変化のスピードと競い合うように,ますます軽く,粗く,雑になっていくようにさえ見える【図5】。
村松貞次郎氏が「回帰するか」と書いたのが1965年,〈情熱〉も〈創造力〉も認められないと評したのが1974年。経営コンサルタント川喜田煉七郎が描いた図解は,そこに至る思想遍歴を見ようとしない者には,センスに欠ける単なる実務家のそれに見えたのか。
いや,話は逆かもしれない。川喜田こそが,店舗設計を単なる実務として確立しようとしたのではなかったか。1931年のウクライナ劇場国際コンペ入選の祝賀会で,川喜田は,何だこんな案がと思う人が多いほどよい,自分は一個の建築技術者としてやったに過ぎないと言っていた。これは謙遜などではない。彼はモダニズムのあるべき姿を語っている。そうであれば,1970年前後にモダニズムは成就したことになる。
しかし一方,川喜田とともに店舗設計家協会を創設し,その後を継いで同協会の初代理事長を務めた村上末吉氏の,1976年になされた回顧がある。
昭和25~26年頃から日本経済も漸く立直りを見せ始め,自由主義が謳歌されるに従って川喜田煉七郎先生の鬼才ぶりは留まるところを知らず,日本全国のあらゆる地域で猛威をふるった。まさに昭和30~35年を最盛期として,"川喜田旋風"が吹きまくったのである。それは昭和40年頃まで続くが,しかし,やがて衰えを見せ始め,昭和45年頃には姿を没したかにみえたのである*16。
1956年8月に『商店建築』を創刊し,日本の商環境の変遷を見続けた人物の興味深い証言である。川喜田が73歳で没するのが1975年だから,1965年頃まで続いたという活躍は,それ自体賞賛に値するが,「やがて衰えを見せ始め」というくだりには,川喜田的な手法と時代との乖離が示唆されている。それは,モダニズムの終焉を意味するといえよう。
安易に世相を重ねることには与しないが,今,川喜田煉七郎の1920年以降の50年におよぶ活動を検討することは,日本における商環境の,1970年代以降今日まで50年間のはじまりの状況を示しているように思われるのである。
*1:『日本建築家山脈』鹿島出版会
*2:「再検近代日本建築史ノオト」『新建築』1974年10月臨時増刊号,p.121
*3:『商店建築』1976年9月号~1977年12月
*4:「川喜田煉七郎論〈八〉」『商店建築』p.252
*5:同前
*6:注1に同じ
*7:注3に同じ
*8:初出:『夜想』1984年,『近代建築のアポリア』パルコ出版,1986年所収
*9:『近代建築のアポリア』p.219
*10:『詩と音楽』1922年12月号
*11:RRRRRRR生「〈浅草〉を話す」『建築畫報』1930年12月号,pp.14-15
*12:「著者の略歴」『図解式店舗設計陳列全集』モナス,1940年
*13:「ウクライナ劇場の応募案について」『建築畫報』1931年6月号,p.4
*14:「創宇社展感想」『建築畫報』1929年4月号,p.22-23
*15:「小商店模範設計図集にそへて」『建築工芸アイシーオール』1934年11月号,p.1
*16:「”商店建築”創始者:川喜田煉七郎先生の役割」『商店建築』1976年9月号,p.240