著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

日本初の円形校舎・金城学園校舎(1953年)にみる円形校舎ブームの初発

所収:『日本建築学会大会学術講演梗概集(関東 )2020年』 pp.217-218
発行日:2020年8月


日本初の円形校舎・金城学園校舎(1953年)にみる円形校舎ブームの初発
The Earliest Stage of Circular Type School Building Boom :
The Circular Type School Building of Kinjo Gakuen and Its Circumstances of The Construction Plan

正会員 梅宮弘光

キーワード:円形校舎  戦後建築 近代建築 モダニズム 機能主義 学校建築

 

はじめに
 本稿は,日本初の円形校舎・金城学園(現・遊学館高等学校,金沢市)校舎(2007年取り壊し)を坂本鹿名夫が手掛けることになった経緯と提案,実施過程を明らかにしたうえで,その背景で進行していた円形校舎の評判伝播と円形校舎ブームの兆しを検討するものである。

円形校舎建設計画の経緯

 金城学園では,1954年の創立50周年を記念事業の一環として校舎改築が計画された。「この噂をきいて大成建設から夢のような図面」1)が提案された。それは「円筒型校舎二棟と,中をつなぐ方形のもの及び体育館」だったが,第二代校長・加藤二郎は「〈楽しい夢物語でではないか〉と笑つて片づけてしまつた」2)。
 大成建設がなぜこのような提案を行なうことができたのか詳細は不明だが,当時大成建設設計部勤務の坂本鹿名夫の記述3)によれば,次のようである。この時期同社が北陸地方で手掛けていた複数の案件うちでも大規模なものに国立金沢病院4)があった。坂本はその初期から実施設計に至るまでを担当していたことから,同病院第三代院長・種村龍夫5)の信任を得,「(種村先生の)御親類筋の金城高校長の加藤先生を御紹介頂いた次第」という。これを坂本は「(大成建設にではなく:筆者注)作者に個人的に相談を受けたもの」としている6)。以上の記述は,「当時の大成建設金沢支店と加藤二郎が,共通の知人を介して接点を持ち,のちに円筒校舎を全国で100棟近くも手掛ける坂本鹿名夫という気鋭の建築家が設計に当たった」7)という学園史誌の記述ともほぼ符合する。
 記念事業の立案時期は学園史誌においても判然としないが,学校法人改組と,生徒数の増加が始まる1951年頃から施設拡充が考えられたと思われる8)。一方,国立金沢病院「中央診療棟新築」の地鎮祭は1952年1月,全面的な竣工は1958年である9)。両者を勘案するならば,大成建設=坂本側が金沢において金城学園に具体的な提案を行ったのは1952年前後ではないか。

坂本鹿名夫の円形校舎提案

 金城学園高等学校円形校舎案の初出は,『国際建築』1953年8月号(第20巻第8号)である。設計施工は大成建設,「担当」は阪(ママ)本鹿名夫,「構造顧問」として小野薫研究室の名があるが,坂本の説明によると,これは大成建設内において「係多忙のため外註」10)であった。
 提案は,後に坂本鹿名夫が「眼鏡型」と呼ぶ平面形式である。これは,円形校舎2棟を矩形平面の管理・特別教室棟を介して接続するものである【写真1】。同案は,文部省による「鉄筋コンクリート造校舎の標準設計」(1949年)の作成過程で,「学校施設基準調査委員会臨時委員」であった上司である清水一の代理として坂本が出席し提案したという「円形校舎を二棟任意の位置に建設し,後から共通部門で連絡」11)する形式を踏襲したものであった。

円形校舎模型写真

坂本鹿名夫による円提案模型(『坂本鹿名夫作品集 円形建築』所載)


 円形棟は,二棟とも中央を螺旋階段とホールに,最上階をペントハウスとする3階建て,各階に扇形平面の5教室を配する。中央の矩形棟には管理諸室と特別教室が置かれる。これは最終形であって,実際にはこれらを順次建設し既存建物と入れ換えていくという提案である。このときの金城学園校地は「ほぼ正方形に近い敷地の内東方の約1/4が運動場となつており,あとはぎつしり木造校舎が建つている」という状態だった12)【図1】 。

校舎配置図

円形校舎建設直前の校地(『遊学の大地から』所載図に筆者加筆)

 

 構造は水平力を放射状の教室界壁で処理する一般的なラーメン構造だが,提案初期においては,「小野薫研究室員」であった構造学者・田中尚によって意欲的な検討がなされていた。ひとつは,各階スラブをドーナツ状のシェル構造とするもの,いまひとつは外周柱を上下ピン接合の細い鉄鋼パイプとするものだったが,いずれも断念された。その結末を田中は「平面の面白さにくらべ構造は全く陳腐」で「丸いという特徴がどこにも生かされていない平凡な骨組計画」と総括している13)。

円形校舎の評判伝播とブームの兆し

 金城学園における円形案採用の事情を,坂本は次のように説明している。「(円形案が)新聞に,雑誌に華々しく喧伝さるるや,学校側,理事会,PTA等も俄に活発となり,最初は私学振興会よりの借入金400万円のみという予算が,急に3,000万円を突破する盛況となつた」。この記述は,円形校舎案がマスコミで評判となり,それが学校関係者の合意形成を容易にし,資金繰りの目途も立ったと読める。
 しかし,マスコミで評判となった時期については,なお検討が必要であろう。なぜならば,第1期工事の着工は1953年9月だが14),財政事情から工事は段階的に進められたため全体の完成は1955年9月となり15),この2年間に円形校舎の認知が広まっていったとも考えられるからだ。すなわち,円形校舎の評判発生は第1期工事着工の1953年9月以前とも限らないのである。
 一方,前掲『国際建築』1953年8月号記事には,すでにこの時点で「見かけの派手な計画であり,事実各地からこの形式の依頼がぞくぞく寄せられている」16)との記述も見られる。これは坂本提供の内部情報によったかもしれないが,いずれにしても,この時期すでに円形校舎が世間である程度認知され,複数の引き合いにまで至っていたことを窺わせる。円形校舎ブームの兆しは,日本初の円形校舎完成以前に出現していたことになる。
 こうしたブームの兆しの要因は,ひとつにはマスコミ報道である。筆者の調査では,円形校舎がマスコミに登場するのは前出の『国際建築』記事で,『朝日新聞』1954年4月27日付け夕刊「来るか〈円形校舎時代〉まず東京と金沢に出現」と続き,同年12月に山崎学園富士見中学・高校(東京都練馬区)の円形校舎竣工17)をきっかけに建築専門雑誌や新聞報道が増加する18)。世間的な話題性の点からは,一般マスコミでの円形校舎の扱われ方に注目する必要があるが,今後の課題としたい。
 要因のいまひとつは,口コミである。一般に何らかの建設計画が持ち上がった際には,しばしば関係者による先例の視察が行われる。先進事例といわれるものはとくに歓迎されよう。円形校舎は当時,そのようなものと見られていたふしがある。1954年9月時点で「全国から見に来られる人々既に数百人,その応対も一と仕事といつた按配です」19)といい,学園史は「(完成後には)北海道から九州まで一年間で一〇〇〇人を越える視察があり」20)と伝えている。
 石川県教育委員会と石川県建築士会により金沢で開催された「学校建築講習会」(1954年9月)には「遠くは東京,岡山から231名」の参加があったというが,終了後に金城学園円形校舎の見学会が行われている21)。専門家には,こうした機会にも情報が伝播したものと思われる。

竣工した円形校舎

金城学園円形校舎の写真

完成した円形校舎(『遊学の大地から』所載)

 円形校舎は,3層分の駆体と3階のみの造作,1階床スラブと仮設の外周窓までを第1期工事として1953年9月起工,翌1954年9月1日から3階のみを使用して新学期が開始された22)。全体が完成したのは,1955年9月であった23)【写真2】【写真3】。
 坂本が出願して公告された実用新案「円形校舎」24)において要件とされていた建築部位に外周部ベランダとペントハウス上部の換気塔があるが,本作では採用されていない。また,外周部開口は付き出し窓で,以後の円形校舎がすべて引き違い窓であることと異なる。このあと金城学園では校地拡張と大成建設の設計・施工で校舎増築が続くが,坂本は1954年1月に同社を退職,「建築綜合計画研究所」を創設しており25),その後の施設計画には関与していない。1棟のみに終わった円形校舎について,坂本自身は「作者の意図を実現したものとはならなかつた」26)としている。

校地全景写真

1967年頃の校地全景(写真左上隅のグランドは隣地の石川県立工業高校)

おわりに

 日本初の円形校舎として,1953年に第1期工事が完了した金城学園高校の円形校舎は,大成建設在職中の坂本鹿名夫が,同社が設計・施工した国立金沢病院長・種村龍夫の仲介により,校舎改築を検討中の同学園に対して1952年頃に提案した「眼鏡型」校舎に端を発する。実施は円形校舎1棟にとどまったが,このかんに円形校舎の評判がマスコミや口コミを通じて広がり,後の円形校舎ブームにつながった。評判流布の要因としては,校舎としての性能以前に,当時において円形校舎が社会に与えたイメージに注目する必要があろう。すなわち,今日ではプライマリーな印象の円形校舎も,1950年代前半においては,木造建築が多くを占める周辺環境とのコントラストとあいまって新鮮なインパクトをもち,そのイメージがブームを駆動したと考えられるからである。


謝辞 本稿の作成においては『石川建築士』第12号(1954年9月)所載の記事がとくに重要であった。この資料を発見し,筆者にご教示くださった中森勉氏(金沢工業大学教授)に心より感謝いたします。金城学園関係資料閲覧では,同学校長・竹田剛氏と事務部門の皆さまにお世話になりました。記して謝意を表します。



1)加藤二郎「円筒型校舎について」『石川建築士』第12号(1954年9月)p.5
2)同前
3)坂本鹿名夫「円形校舎の設計に就て」前掲『石川建築士』p.1
4)厚生省病院管理研究所(監)『日本病院建築図集』理工図書,1960年
5)『国立金沢病院の歩み』国立金沢病院,1996年
6)建築綜合計画研究所(編)『坂本鹿名夫作品集 円形建築』日本学術出版,1959年,p.9
7)『加藤晃回顧録 遊学のこころ』学校法人金城学園,2015年,p.47
8)『金城学園創立100周年記念誌遊学の大地から』2005年,p.161
9)注5に同じ,pp.115-116
10)前掲『石川建築士』p.2
11)注6に同じ
12)前掲『坂本鹿名夫作品集 円形建築』p.19,「学園敷地・建物などの軌跡」前掲『遊学の大地から』p.118
13)「円筒形の高等学校」『国際建築』第20巻第8号(1953年8月)p.3
14)注1に同じ
15)前掲『遊学の大地から』p.16
16)前掲『国際建築』p.4
17)同編集委員会『山崎学園五十年史』学校法人山崎学園富士見中学校・高等学校,1991年,p.31
18)拙稿「坂本鹿名夫の実用新案〈円形校舎〉について」『日本建築学会大会学術講演梗概集(中国)』2017年,pp.207-208
19)注1に同じ
20)前掲『遊学の大地から』p.88
21)「学校建築講習会の概況」前掲『石川建築士』p.6
2)注1に同じ
23)注15に同じ
24)注18に同じ
25)坂本鹿名夫建築研究所「経歴書」1980年頃
26)注12に同じ