所収:岡塚章子・八巻香澄(編)『建築の記憶―写真と建築の近代』東京都庭園美術館 pp.146-148
発行日:2008年1月
※WEB掲載に際して図版を補った。
岸田日出刀のカメラアイ―1930年における「構成」の位相
梅宮弘光
写真というメディアによって「建築の記憶」をたどろうとする試みにおいて,1920~30年代日本の写像として,1930年をはさんで出版された2冊の写真集をとりあげたい。岸田日出刀(1899-1966)の『過去の構成』(1929年末,構成社書房)【図1】と『現代の構成』(1930年4月,構成社書房,奥付なし)【図2】である。
1930年という年は,日本における建築モダニズムの転換期であった。
1920年代の10年間は,分離派建築会の結成(1920年)と新興建築家連盟の結成即解散(1930年)によって画される,いわば建築運動の季節であった。若い建築家たちは,反歴史主義を掲げ来るべき時代の建築様式を集団で模索した。展覧会を主催し夢想的なドローイングを発表したが,その多くは製図板の上にとどまった。対して1930年代は,建築運動の挫折から始まる。その克服のために,新たな活動方法が模索された。活動の指標は現実性であったから,計画案ではなく実作が,スローガンではなく実践が重視された。そうした成果には,なんらかのかたちで彼らの20年代の経験が内包されていたはずだ。その意味で,1930年代はポスト建築運動と位置づけられる。
したがって,1920~30年代日本の建築状況の検討には,運動に関わった人びとの活動の軌跡と思想の変位をたどるという側面がある。では,岸田日出刀の場合はどうだったのか。1920~3O年代のモダニズムの変容過程において,その転換期に発表された彼の著作は何を意味しているのか。2冊の写真集を転換期の風景として眺めること。これが本稿の関心である。
岸田日出刀
岸田は1922年東京帝国大学(現・東京大学)建築学科卒。分離派建築会世代の2年下の学年である。卒業設計「監獄建築の計画」の透視図はコンテ状の画材で筆致も荒々しく黒々と塗り込んだもので,当時の彼が,分離派建築会同様,表現主義に魅せられていたことをうかがわせる。【図3】
卒業後は師である内田祥三の下で東大キャンパスの震災復興計画に携わり,担当した安田講堂の意匠には岸田の嗜好が色濃いといわれる。戦後は建築学会の副会長・会長を歴任,門下の丹下健三や谷口吉郎といった人びとがめざましい活躍を始めるから,まちがいなく建築界のビッグネームだが,1930年の時点では,まだ30歳の若き東大助教授。著作としては,学位論文「欧州近代建築史論」と『オットー・ワグナー』(1927年,岩波書店)くらいであった。【図4】
こうした経歴からは,アカデミックな業績を積み,学内で確乎たる地歩を占めつつある人物像が浮かぶが,彼の仕事はそうした枠内に収まらない。学外でのジャーナリスティックな活動にも積極的で,その範囲は,記事の執筆から新雑誌の企画,その創刊,さらには編集から表紙デザインにまでおよぶ。それが,『建築紀元』である。1929年10月,「造形芸術雑誌」を謳って構成社書房から創刊された。同誌を編集したのは岸田のほかに,建築家の堀口捨己,藤島亥治郎,今井兼次,坂倉準三,評論家の板垣鷹穂,仲田定之助,小池新二,舞台美術家の吉田謙吉。実務の中心は小池であった。この『建築紀元』を背景として,岸田の二著が生まれることになる。
『過去の構成』
1929年12月発行の『建築紀元』(第1年第3号)に『過去の構成』の広告が掲載されている。いわく……
本書はカメラアイによる日本建築の新しい解釈である。文献や考証によらない最も具体的な観察である。ザッハリヒカイトの強調せらるゝ現代にあつて我国古来の造形芸術は如何に理解さるべきであらうか。本書一巻は実にこれ等過去の構成に投ぜられた最も新らしい照明灯である。
同書のコンセプトは明快だ。1930年を迎えようとする現代,日本的伝統に対する新解釈をヴィジュアルに示すことである。そこでは歴史的な精度など顧みられない。そればかりか,「日本建築」でさえ方便に近い。重心は,日本建築ではなく「新解釈」のほうにある。広告にはゴシック体でこんなキャッチコピーが付されている。「構成芸術に関する最新刊」。すなわち,「新解釈」とは「日本建築」を「構成芸術」として読み直すことなのである。
では,岸田は「構成」にどのような意味合いをもたせようとしているか。
たとえば「清涼殿昼の御座」。その写真は,画面いっぱいに二畳台が写っている*1【図5】。その中央には正方形の茵(しとね)。実際の清涼殿では,背後に御帳台,四隅には柱があるが,トリミングによって画面から排されている。結果として,二畳台とその上の茵が形成する正方形の中の正方形というかたちの組み合わせだけが浮かび上がる。すなわち,ここでの「構成」は,幾何学的抽象美=コンポジションにほかならない。【図5~7】
『現代の構成』
1930年4月に出版された『現代の構成』には,「無線電信用コンクリート塔」や「永代橋ー部」「高架鉄道を見上げる」など,当時の街に続出する産業構造物の写真が集められている。キャプションはなく,ただ序言でこう記される。
本書は見るべく計画されたもので,語るべく企図されてはゐない。眼で捉へたものを陳べて,これを眺める人の眼を通じてその形式感情に触れることを著者は望む丈けである。
岸田自身,本書を前作『過去の構成』の「姉妹編」と述べているとおり,コンセプトは共通している。すなわちそれは,アノニマスな産業構造物や乗り物,大量生産品のかたちの中に潜む幾何学的抽象美=コンポジションを,岸田のカメラアイによって明示しようというものである。【図8~10】
機械と芸術との関係を考察することは,現代の芸術を理解する上に,是非とも必要な条件である。ー九二九年以来,此の種の考察を試みることが急激に流行しはじめた。
これは〈新興芸術〉編『機械芸術論』(1930年5月,天人社)【図11】のまえがきの一節である。書いたのはおそらく同書編集の中心人物,板垣鷹穂と思われる。機械美論流行の先鞭をつけたものこそ,彼の著書『機械と芸術との交流』(1929年12月,岩波書店)【図12】所収の論考であった。そして,同書の「序」に記された謝辞には岸田の名があり,さらに『建築紀』の新年合併号(第2年1・2号)【図13】の特集は「機構美」だった。時代潮流を鋭敏に捉えて,その解釈を発信しようとする動きの中心に,岸田もいたのである。
機械美は,造形芸術に限らず文学から音楽まで多様な領域で1930年代前半を通じてトピックとなっていった。その中で,堀野正雄「カメラ・眼 × 鉄・構成」(1932年6月,木星社書院)のような顕署な表現が登場することはよく知られている。岸田の『現代の構成』は,こうした動向の初期状況を示している。
構成(コンポジション)vs.構築(コンストラクション)
『過去の構成』と『現代の構成』における岸田の意図は何だったのか。しかも,それは1930年というタイミングにおいて,どのような意味があったのか。
その後の近代建築の展開過程において,『過去の構成』で岸田が示してみせた構成は,モダニズムを経由した伝統理解として戦略的に喧伝されていく。すなわち国際的潮流であるモダニズムと日本的伝統は通底しているというロジックである。しかし,それが意識的に行われるようになるのは今少し後,ブルーノ・タウトが来日する1933年半ば前後のことであろう。たしかに岸田自身も,タウトの日本建築礼賛を取り込むかたちで『過去の構成』の改訂版を出版(1938年,相模書房)する。しかし,今はまだ1930年になったばかり。こうした要素は皆無ではないにしても,まだ大きな比重を占めてはいない。
私見では,岸田の意図は,1920年代半ばからモダニズムの先鋭的な一団が主張し始めていた「構築」概念への対抗にあった。1920年代後半,先鋭的モダニストたちは,制作原理としての表出説を否定し,自己の外部にある材料や力学特性を組織立てる構築こそ,制作の本質だと主張していた。そんな彼らにとって,自己表出を旗印にする分離派建築会に代表される制作論は批判の的であった。
こうした批判に対する反駁として岸田が提示したのが構成だった。いや,構成美そのものが制作の目的となっては反駁にはならない。構成美は無為の結果としてそこに生じたものでなくてはならない。主体的な関与は希薄でなければならないのである。岸田が,自らの伝統でありながら遠い存在になっている日本的伝統と,身近だがアノニマスな産業構築物に取材した意図は,そこにあったと思われる。
(近代建築史,神戸大学准教授)
*1:岸田日出刀『過去の構成』1951年(相模書房改訂版)p.35 。同書の発行年・版元の変遷は次のとおり。初版:1929年・構成社書房→第一版:1938年・相模書房(判型・製本改変)→改訂版:1951年・相模書房。