著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

円形校舎とその時代―マハヤナ学園撫子園,淑徳小学校,淑徳大学1号館

所収:マハヤナ学園100年史編集委員会(編)『社団福祉法人マハヤナ学園100年史』社団福祉法人マハヤナ学園 pp.197-198
発行日:2019年10月


円形校舎とその時代―マハヤナ学園撫子園,淑徳小学校,淑徳大学1号館
梅宮弘光(神戸大学大学院人間発達環境学研究科)

長谷川良信師と円形校舎

 1960年代前半、マハヤナ学園撫子園、淑徳小学校、淑徳大学において連続して3つの円形園舎/校舎が建設された。いずれも、マハヤナ学園の創設者であり大乗淑徳学園の学祖である長谷川良信師の意向によると思われる。淑徳大学の開設にあたり、その1号館を円形校舎とすることについて、次のような証言が残っているからだ。「鈴木創立事務所長は円型校舎について、マハヤナ学園撫子園と淑徳小学校の円型校舎の利用効率に対する教職員の不満の声を耳にしていたので、長谷川理事長に、〈円形校舎は光線が逆に放つこと、音響効果が凄く悪いこと〉を進言したが、理事長は〈何しろ工費が安いのと、敷地が少なくて済むので〉と、設計士坂本鹿名夫氏を信頼して譲らない」(『淑徳大学十年史』p.62)。円形校舎の評判は芳しいものではなかった。それでも良信師が円形校舎にこだわったのはなぜか。
 『淑徳大学十年史』は、淑徳大学1号館の建築構想が淑徳小学校と撫子園の「延長」であったと指摘する(同書、p.77)。なぜならそれは、長谷川良信による、宗教、社会福祉、学校教育の「三位一体の実現」だからというのである。この指摘を手掛かりにするならば、各学園に置かれた円形校舎はその理念の象徴でもあったとは考えられないだろうか。

円形校舎とその時代

 近・現代建築史において「円形校舎」という場合、1950年代半ばからの約10年にわたって建設された円形平面をもつ一群の校舎を指す。その背景には、戦後の教育改革があった。しかし、この時期の学校施設の状況は惨憺たるものだった。昭和21(1946)年から開始された校舎の戦災復興は1950年代に入っても罹災校舎全体の半数に及ばず、制度的前身を持たない中学校では校舎不足が深刻化していた。各地で建設された応急の木造校舎は、台風のたびに被害を被っていた。
 そこにベビーブームが追い打ちをかける。後に団塊の世代と呼ばれる彼らが就学年齢に達しても、教室不足は解消されていない。屋外に机を並べる青空学級や、ひとつの教室を午前/午後で別学級が使う二部授業など、不正常状態解消が喫緊の課題であった。教室不足は、ベビーブーマーの成長と高校進学率の上昇とともにやがて高校に到る。校舎の量的確保は、1960年代初期まで尾を引くのである。
 こうした状況を受けて文部省は昭和25(1950)年に教育施設部を新設、日本建築学会に委託して鉄筋コンクリート造校舎の標準化に乗り出した。その過程で生まれたのが、7m×9mの教室を3m幅の廊下南面に並べる一文字型校舎である。
 この標準策定の過程でもうひとつのプランが提案された。直径約26mの円形の中央にホール、その周囲に扇形の教室を配し、生徒は扇の要方向に向かって着席するというもの。背面採光は、日本の学校建築史上初である。提案したのは坂本鹿名夫(かなお、1911-87年)、東京高等工業学校(現東京工業大学)を卒業後、海軍建築部門を経て大成建設設計部に在職中であった。
 長い廊下が不要になり建設費が抑えられる。校地の少しばかりの残余にも建設できる。これは、工事で授業を中断するわけにはいかない学校にとって大きなメリットだ。しかし一方、背面採光では生徒が手暗がりになる、窓が外周片側に限られるため通風が確保できない、中央ホールで生じた騒音が各教室に直に響くなど、当初よりデメリットも指摘されていた。
 結局、坂本の円形校舎案が採用されることはなかった。しかし、ほどなく実施のチャンスが巡ってくる。金沢の私立金城高等学校(1952年、現遊子館高校)、そして東京の私立富士見中・高等学校(1954年)である。これ以降、坂本の円形校舎は評判が評判を呼び、長足の勢いで全国に拡がっていった。筆者の把握の範囲では、最終的なその数は119件にのぼる(保育園・幼稚園4、小学校47、小・中学校1、中学のみ17、中・高等学校34、短大・大学7、専門学校4、児童養護施設1)。このうち坂本鹿名夫の設計になるものは89件である。
 このように円形校舎が採用された要因には、経済性のみならず、そのたたずまいが与える好印象、円というかたちの好ましい象徴性があっただろう。明快で親しみやすい形態と明るい色彩、そして外周全面を覆う大きなガラス窓は、民主主義のスローガンのもと、復興期から高度経済成長期へと向かう時代の気分に適うものだったと思われるのである。

その後の円形校舎

 坂本鹿名夫の信念は「最も経済的に造る」だった。それを彼は「純粋機能主義」と呼んだ。さまざまなかたちのなかで、同じ面積であれば周長が最短となるのが円形、それはまさに彼の理念を体現するかたちだったのである。
 たしかに経済性はいつの世でも重要な要因には違いない。しかし、それが目的化しては本末転倒というものだろう。建築物が人間生活の器であってみれば、その要求を満たし、さらなる向上を目指す建築設計が求められるからだ。量的確保最優先の時代に歓迎された円形校舎も、やがてそぐわないものになっていく。かつては全国に約120を数えた円形校舎も現存は20件、そのうち現役の校舎は16件にすぎない(平成30年11月現在)。
 「何しろ工費が安いのと、敷地が少なくて済む」という長谷川良信師の言葉の背後に、円のもつ象徴性への期待が隠されていたとみることはできるだろうか。撫子園の円形園舎について、たとえば次のような回顧が残されている。「ある日庭の草むしりをしていた時私の傍に立たれ、〈今にここに学園を建て直すんだよ、心が丸く温かくなるような何処にもない学園、壁は白でね、白はホワイトハウスの白なんだよ〉と、笑顔で話され」(蒲谷弘代「私のふるさと」『マハヤナ学園70年の歩み』p.47)。
 淑徳小学校の円形校舎も撫子園の円形園舎もすでにない今、淑徳大学1号館がそのことを伝えているように思われる。