著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

モラトリアムの殿堂―大正知識人の自画像としての卒業設計

所収:独立行政法人国立美術館国立国際美術館(編)『国立国際美術館ニュース』235号 p.4
発行日:2019年12月


モラトリアムの殿堂―大正知識人の自画像としての卒業設計

 巡回展「インポッシブル・アーキテクチャー」は、二十世紀と今日までの建築の歴史を、「インポッシブル」という視角から描こうとする意欲的な試みだ。不可能性につきまとうマイナスイメージを逆転させ、そこにある(傍点)ある(傍点)種の真実を浮かび上がらせようとする。ここに、同展の魅力がある。展覧会に集められた建築は、結果的に実現しなかったという点では共通だが、「インポッシブル」の理由はさまざまだ。だから、その内実を問うことは、それぞれの時代を浮かび上がることになる。本稿では、そうした時代の一隅、大正期日本、一九二〇年の「インポッシブル」にクローズアップしてみたい。


 大正知識人の特質について,明治のそれと比較して次のような指摘がある。明治の知識人にとって相対すべき現実とは国家の現実にほかならず,そのリアリティは彼らの意識にも浸透していて,その行動にも結びついていた。しかし大正期になると,そうしたリアリティとは無縁なところで観念を操作するような知識人が登場する。すなわち,その関心が国家から自己へと移っていくというのである(松田道雄『日本知識人の思想』1965年,筑摩書房)。この事態は,日本近代建築史においても符合するように思われる。
 明治知識人の建築界における代表としては,辰野金吾(一八五四~一九一九)がまず思い浮かぶ。日本銀行本店や東京駅を設計した日本人建築家の第一世代。彼は足軽の倅として生まれ,維新の変革期に勉励刻苦のすえ母校である工部大学校(のちの東京大学工学部)の教授,建築界のリーダーになった。
 対して,大正知識人の代表にふさわしいのは,分離派建築会のメンバーたちだろう。東京帝国大学建築科を一九二〇年に卒業する同期六名,一八九四~六年生まれの青年たちである。西洋の建築様式からの「分離」を旗印にグループ活動を展開したことから,日本における近代建築運動の嚆矢とされる。彼らが掲げた「分離」は,まずは建築様式に対してだったが,同時にそれは彼ら青年たちから見える大人の世界,明治知識人的な振る舞いに対するものでもあった。
 彼らが卒業直後に開催した第一回展(一九二〇年七月)で陳列したのは、卒業設計だった。つい昨日まで学生だったのだから当然とはいえ,街中に実際に建ってはじめて建築といえるものを,展覧会という美術の方式で世に問うた点に新しさがあった。たとえば堀口捨己(一八九五~一九八四)の「精神的な文明を来らしめんとして集る人々の中心建築への試案」,あるいは瀧澤眞弓(一八九六~一九八三)の「山岳倶楽部」。いずれも作品名からは何の施設か判然としないが,平面図には双方ともに類似の次のような室名が書き込まれている。冥想の広間,宗教部・芸術部・哲学部等諸務室,図書室,音楽バレー等試演場,展覧会場・・・。
 室名として記された冥想,芸術,哲学,音楽,こうしたものの取り合わせにこそ,分離派建築会の大正知識人的性格,その人格主義,教養主義が表れている。彼らは,国家近代化の大命題のもと,それに必要となる建築物を創る技術者のヒエラルキーの頂点に立つ建築家を目指す教育を受けてきたはずなのに,その当人たちが欲していたのは,技術者養成のプログラムにはないものばかりだ。では,彼らは建築家よりも文学青年になりたかったのかというと,話は逆だ。彼らは,建築家はむしろ文学青年たるべきと主張した。国家よりも私が問題なのである。
 大人になるということは、わがままな青春時代を抜け出して、世間に対する距離の取り方を探り、そこにアイデンティティを認めていく過程だが、その確立がままならないのもまた青春というものだ。この意味において、分離派建築会の誕生は日本近代建築の青春の一瞬の輝きを象徴している。しかし今,分離派建築会のメンバーたちは卒業を間近に控え,大人の世界の入口で慄いている。
 何かの終わりに直面したとき、人は誰も内省的になる。たとえば青春の終わりを予感したとき、自分自身を問い、その答えを再び自分のなかに収めようと煩悶する。卒業設計は,課題とはいえ誰に頼まれたのでもない架空の設計である。自分が自分に課し,それを自分が否定する。そうした内省的プロセスから生まれる作品だ。
 卒業設計は,そんな彼らの心境が建築の形式で表象されたものにほかならない。それは,旧制高校以来の長いモラトリアムの終わりに直面した大正知識人の自画像、いわばモラトリアムの殿堂なのである。
(うめみや ひろみつ 神戸大学大学院教授 近代建築史)