所収:『TEMPOLOGY Vision』Vol.13,2022年12月,一般社団法人テンポロジー未来機構,pp.4-5
活動の軌跡
川喜田煉七郎とは何者か。1920年代後半から1930年代初頭にかけて、青年期の彼は建築家といってよいかもしれない。建築学科の卒業だし、建築図面も多く発表した。彼が代表幹事を務めた当時の先進的グループの名称は「新興建築家連盟」だ。では代表作は? となるが、これがない。いや、計画案ならばたくさんあるのだ。そればかりか、1930年に開催された「ウクライナ劇場国際設計競技」では、グロピウスやペルツィヒといった国際的に著名な建築家をおさえて上位入選してもいる。しかし、それらは、みな壮大過ぎた。実現したものは、わずかな小品のみ。それでも、建築家といえるだろうか。
1930年代半ばの彼は、銀座で新建築工芸学院という私塾を主宰し「構成教育」と呼ぶデザイン教育を展開した。バウハウス予備課程のカリキュラムを採り入れ、織物科、工芸美術科、演劇科、建築科を置いた。「日本のバウハウス」と称される所以である。では、彼は教育者に転じたのだろうか。たしかに、この構成教育は当時の若手小学校図画教師に注目された。当時、川喜田の周囲に集まった教師たちは、戦後の指導要領策定に関わるなど学校美術のリーダーになる人びとである。しかし、当の川喜田自身が教育者たろうとしたわけではなかった。学校教育界での盛り上がりと入れ替わるように、彼は構成教育を辞めてしまう。
1932年から1936年まで、川喜田は『建築工芸アイシーオール』という雑誌を独力で編集した。その発行所は、当時建築専門出版社として有名な洪洋社である。同誌創刊以前から、彼は記事や翻訳を書きまくっていた。連載もあれば、複数の同月他誌に記事が載っている。おそらく、当時発行されていた建築関係雑誌のほとんどに登場しているだろう。その意味で、彼はジャーナリストだったといえそうだ。じじつ、その頃の日本建築学会名簿の職業欄は「建築ニ関スル出版物ノ編輯」となっている。しかし彼は、他人の記事を編んで満足できるひとではなかった。あくまで自分に発信したいことがあり、メディアはそのために必要だったのである。
その建築学会名簿1938年版の職業欄は「東京商工会議所商工相談所参与」、翌39年版からは「川喜田店舗研究所」となっている。正式には「川喜田煉七郎店舗能率研究所」と称した。この名称、今日では特段気にも留めず読み流してしまいそうだが、当時、店舗を専門とすること、さらにそれを「能率」において追求することを掲げたのは画期的である。店舗を正面から研究の対象にするなど、誰も考えなかった時代のことである。
彼は店舗の設計のみならず、店舗診断の手法開発も行っている。それは、店主自らが経営状態を認識し、問題点を発見して、自ら改善につなげるためのシステムである。結局この方向が、その後の川喜田の活動展開となる。彼は、1951年に発足する日本経営士会の初期からの会員であった。1961年に店舗設計家協会(現日本商環境デザイン協会)が発足すると、初代会長に推されている。店舗設計は、今ならば、商環境プランナー、空間プロデューサー、インテリア・デザイナー等、専門化と総合化が同時に進んでいる。異分野からの参入もめずらしくない。川喜田はこうした流れのパイオニアなのである。
アウトサイダー、インサイダー、アヴァンギャルド
しかし、彼が日本近代建築史に登場するのは、このパイオニアとしてではない。まずは、「ウクライナ劇場国際設計競技」の入選者としてであり(入選案の内容ではなく)、バウハウスの影響事例(「構成教育」における川喜田の意図ではなく)としてなのである。もちろん、どちらも特記すべき事項ではある。しかし、そのことが彼の歴史的位置づけをよけいにわかりにくくしてもいる。コンペ応募案の内容や、バウハウスの影響の内実意図を検討しないまま、国際的活躍だからとか、バウハウスは有名だからと川喜田の名をあげてしまうと、経営コンサルタントへの活動展開は、さらにわかりにくくなるだろう。
たとえば、川喜田を早い時期に論考の対象とした村松貞次郎氏は、1965年に彼を「建築界のアウトサイダー」と位置づけ、次のように記した。「現在の彼は、店舗設計家協会の大立物(ママ)である。しかし店舗の設計から一歩出て、経営コンサルタントの仕事に情熱をそそいでいるようだ。(中略)建築家の業務も計画者的方向に大きく転換しようとしている。川喜田煉七郎と相まみえる日もそう遠くはなさそうだ。その時こそ川喜田煉七郎はわれわれのインサイダーとなるだろう」*1。その約10年後に再び川喜田に言及し、次のように記した。「川喜田はもちろん建築は総合であるとしきりに説く。そして分析した。(中略)さかんに科学的・合理的な理論を展開したが、その総合がなかったように私は思う。あるいはそれは理論ではなくて情熱とか創造力とかいうものであろう。(中略)分析したものの機械的な総合ではなくて、それをまとめあげる心的な何かがなければ建築の芸術は成立しない」*2。
これに異を唱えたのが、1976年に川喜田の活動を発掘的に詳細化して論じた三村翰氏の労作「川喜田煉七郎」*3である。同氏は「〈総合力〉というものの考え方については、私は村松貞次郎と根本的に同意見である」*4としたうえで、「川喜田煉七郎の数々のプロジェクトや建築作品の中に〈情熱〉も〈創造力〉も〈心的な何か〉も〈詩の精神〉も一切認められないということであろうか」、「(ウクライナ・コンペ案よりも;筆者注)私はむしろこの〈霊楽堂〉(本号別稿「反転する磁極―山田耕筰の磁場と川喜田煉七郎」参照)の方を高く評価したい。斬新で豊かな構想力こそが見られるべきなのだ。そして結論的に私がこの〈霊楽堂〉を高く評価するのは、この一点においてなのである」*5と述べる。
両者の見解は一見対立しているようでいて、一致している。ともに、建築の価値を「情熱」や「創造力」から生まれる「芸術」としているからだ。村松氏は川喜田を評して「その貪欲なまでの、まとまりのない知識の"仕込み"には後発国日本のインテリの焦りと"虎の巻"的抜け駆けの心情がみえ、なんともやりきれない」*6と述べ、三村氏は「当時の世界的な〈合理主義〉〈機能主義〉の風潮を反映しすぎているキライがあり私自身今日の眼からすれば"不満"もあるが」*7と述べる。やりきれないのと不満なのと、心情レベルのニュアンスは違っても、「合理主義」や「機能主義」は、「芸術」としての建築を貶めるものとしている点では変わりがない。村松氏の論旨は後世からの断罪でしかないし、三村氏も過去の作品のほうがよかったというのでは救済にならない。いずれにしても、これでは時間の中に生きる人間像を描くこと、すなわち歴史叙述とはいえないのではないか。
この点について正鵠を射る指摘を行ったのは、八束はじめ氏の1984年の論考「日本のモダニズム」*8である。同氏は、村松氏と三村氏とのあいだで問題となった同じ箇所を引用したうえで、次のように述べる。「実作への総合化への観点を欠落したまま(それがこの歴史家(村松氏:筆者注)の川喜田批判の理由であった)で小手先の理論を弄したということ(それを彼は日本の後進近代の弊であるという)が問題なのではなく、モダニズム一般にひそむ理論上のアポリアがこの時代の日本にも、それなりの特殊な形で表れたとみるべきなのである。それは、私見では実作の質の高さにも拘らず(先に示唆されたようにその逆ではなく)理論の迷いこんだ迷路として立ち現れたのである」*9。
八束氏が「(モダニズムの)アポリア」あるいは「迷路」と指摘するのは、筆者の理解では、モダニストたる建築家がリアリティを自らの外部に措定したときに自己の内部に生じることになる不連続性である。あるいは、アヴァンギャルドが大衆という他者に出会ったときに被ることになる変容と言ってもよい。川喜田の場合それは、すでに述べたような霊楽堂やウクライナ劇場案といった計画案の制作から、構成教育を経て経営コンサルタントへと至る活動展開であり、店舗設計で店主たちに対応するなかで変化していく認識であった。
建築の川、モダニズムの荒野
先に引用した村松氏の川喜田評、「建築家の業務も計画者的方向に大きく転換しようとしている。川喜田煉七郎と相まみえる日もそう遠くはなさそうだ。その時こそ川喜田煉七郎はわれわれのインサイダーとなるだろう」。このくだりがある節の見出しは「回帰するか」となっている。この箇所は興味深く、ここで改めて考えてみたい。
村松氏は、川喜田を「経営コンサルタント」と捉え、一方で建築家の業務が「計画者的方向」へと変化しつつあると指摘する。すなわち、経営指導の一環としての川喜田の店舗設計は、「計画者」の仕事、そして「その時こそ川喜田煉七郎はわれわれのインサイダー」だと。その見出しが「回帰するか」。どこに? 「建築」にということだろう。しかし、これでは、語の使い方も論理構造も、おかしくはないか。言葉尻を捉えて揚げ足取りをしたいのではない。同氏が1960年代半ばにこのように述べていることじたいが、戦後建築史的に興味深いのである。
このくだりは、建築概念が拡張したとき、川喜田は「インサイダー」になると読めるが、それは「回帰」とは言わないだろう。川喜田が帰ってきたのではない、建築のほうが拡がっていったのだから。そうであれば、「インサイダー」とも言わない。あとから時代が追いついたのならば、先に行っていたのか脇にそれていたかはべつにして、そのひとはアヴァンギャルドだろう。
この概念が芸術分野に転用されて久しい。消費社会の進行とともに陳腐化も進んだ。それがもともと軍隊用語だったことを思えば、そもそも芸術にこの語を当てる呑気に、いささか嫌気が差すこの頃でもある。しかしともあれ、川喜田にアヴァンギャルドの名を冠して、称揚したいというのではない。そうではなくて、川喜田の活動軌跡を、建築史に回収して検討したいのだ。それは、1930年前後に台頭した建築モダニズムの戦後的帰趨の、次のような風景である。
一本の川が流れている。古今東西、建築を志したひとは、この川に近づき、しばらく川面を見つめ、そして飛び込む。川のなかに目をやると、たくさんのひとがいる。岸の浅瀬で戯れているひと、川の中央で流れに乗って華麗な抜き手を見せるひとがいるかと思えば、わざと流れに逆らって派手な水しぶきをあげるひと。水中に潜ってなかなか浮かんでこず、消えたかと思わせておいて、まったくべつのところから顔を出し、まわりをびっくりさせるひと。すでに息絶えているのに、もとの姿を保ったまま静かに浮かんでいるひと。しかし、みんなみんな、流されていく。これが、建築の川である。
川喜田も、あるとき川に飛び込んだ。そして、がむしゃらに泳いだら、向こう岸にぶつかった。しかし、その泳ぎはあまりにパワフルだったから、そのまま向こう岸に上がってしまったのである。その向こうに広がっていたのは、モダニズムの荒野であった。
荒野とは、モダニズムが未来に向けてひたすらオープンエンドであることの謂いである。先には先があり、進んでも、進んでも、際限がない。ウィーンの分離派も日本の分離派も、過去と訣別して前に進むことを宣したが、川から上がろうとはしなかった。建築の川から上がってしまったら、建築家ではいられなくなることを知っていたのである。
川喜田は、自分が川から上がってしまっていることに気づいていただろうか。それはわからない。しかし、自身のモダニズムについてあれこれと論じることはなかった。川の方を振り返るようなひとでなかったことは確かである。
※本稿は本誌『TEMPOLOGY Vision 特別号』(2020年5月)掲載の拙稿「図解の人、川喜田煉七郎」を改稿、改題したものである。1節、2節は旧稿をほぼそのまま用い、3節はこのたび書き下ろした。