著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

反転する磁極―山田耕筰の磁場と川喜田煉七郎

所収:『TEMPOLOGY Vision』Vol.13,2022年12月,一般社団法人テンポロジー未来機構,p.8

 

木村理恵子(編)『山田耕筰と美術』栃木県立美術館,2020年

木村理恵子(編)『山田耕筰と美術』栃木県立美術館,2020年

 山田耕筰といえば,童謡「赤とんぼ」(三木露風作詞,1927年)の作曲者として広く知られる。川喜田煉七郎に関心のむきからすると,この両者の関係は意外かもしれない。バウハウス流デザイン教育,ウクライナ劇場国際設計競技入賞,戦後の店舗設計といった川喜田の活動と日本近代を代表するこの作曲家に,どのような接点があったのか。当の川喜田は,自身の出発点を振り返ってこう書いている。「学生中より山田耕筰氏に師事して作曲を学ぶ。当時いだける1種の建築芸術至上主義より〈氷結せる音楽〉を創作せんがためなり」(川喜田『図解式店舗設計陳列全集Ⅰ』モナス、1940年,p.493)。山田は,川喜田の活動の初発に大きな影響を与えた人物だったのである。


 「山田耕筰と美術」は栃木県立美術館学芸員・木村理恵子氏の企画・構成になる同館の自主展であった。2020年1月11日に開幕,3月22日までの開催予定だったが,進行するコロナ禍で会期を2週間以上残して臨時閉館,再開はかなわなかった。がらんとした展示室,観られることのなくなった展示物。それらの返却を進めなくてはならない企画者の悔しさは察するに余りあるが,そこに集められた360点にのぼる資料は,音楽を核とする近代日本の芸術シーンの拡がりを教えてくれるものだった。その拡がりとは,言い換えるならば,建築を含め当時の芸術諸分野が,いかに音楽を求めていたかということでもある。同展が注目するのは,そのすぐれたメディエーターとしての山田耕筰である。

 美術館連絡協議会大賞優秀論文賞を受賞した木村氏の同展図録巻頭論文「山田耕筰と美術―出発点としてのベルリン」は,1910年から4年にわたる留学時代に焦点を合わせる。当時のベルリンは,モダニズム芸術の坩堝だった。展覧会は,このベルリン時代に彼が吸収したモダニズムが日本に持ち帰られ,芸術諸領域に多様に伝播していく様相が,6章で描き出された。音楽と身体運動の融合によって生み出される「舞踊詩」を中心とした1章「〈Der Sturm木版画展覧会〉と舞踊詩」,北原白秋や三木露風に代表される日本における象徴詩と音楽との協働に注目する2章「〈詩と音楽〉とその周辺」,そして,3章に川喜田の登場する「霊楽堂の構想―音楽の法悦境」。そのあと,4章では山田の訪ソとショスタコーヴィチとの交流を中心にした「幻のパリ公演とソ連での演奏旅行」,5章「舞台の仕事―歌劇・演劇・演奏会」,戦時色が濃厚になる1940年代,山田の映画音楽に着目した6章「日本とドイツのはざまで」と続く。とりわけ川喜田との関係において興味深いのは,1章と2章である。それは,明治期以来の実業教育制度のなかで建築を学んでいた川喜田が青春時代に見て,聴いて,感じていたもの,実業の対極にある芸術に彼を引き寄せた磁場にほかならない。

 川喜田は1921年に東京高等工業学校(現東京工業大学)附設工業教員養成所建築科に入学した。その学生時代を,同期の電気科学生で後に神奈川工業高校でも同僚となる副島一之は,次のように振り返る。「建築の川喜田君は学校は私と同じで音楽部の重鎮だっただけに、神工でも音楽を教えたり、建築史の講義を受け持っては、いつまで経ってもギリシャローマの神話に足踏みばかりしていると生徒から文句をつけられたり、天才型の奔放な情熱家だった。(中略)それぞれ若い勝手な熱を挙げて、表現派の絵画や映画のこと、築地小劇場のチェホフのこと、ドイツの民主社会主義のことなど話し合うのだった」(『創立五十周年記念誌』神奈川県立神奈川工業高等学校,1961年,p.51)。リアルな日常での専攻とはべつに,二人にとっての共通の関心事が,表現派や築地小劇場であり,ヴァイマル共和政であった。大正期の青年らしいロマンティシズムである。

 この回顧からは,学生時代の川喜田が音楽に相当入れ込んでいたことが窺われる。そしてこの時期,山田は東京高工の音楽部を指導していた。ここに両者の直接の関係が始まったと思われる。このとき山田は30歳代の半ば,ベルリンから持ち帰ったモダニズムの日本での具体化に悪戦苦闘の日々,ニューヨークで一定の成果をあげて帰国,三木露風,西条八十,北原白秋らの象徴派詩人たちとの交友を深めて『詩と音楽』を創刊。川喜田が読んだ「音楽の法悦境」は,同誌に掲載されたものである。そして川喜田は,卒業の1924年に制作した「霊楽堂の草案」に「私の山田先生にさゝげます」と献辞を添え,1926年の「霊楽堂」では三木露風の「白き手の猟人」の一節を引用し,翌27年1月,分離派建築会展に出品した。川喜田のデビューともいえるこれらの作品を生み出したものこそ,山田耕筰の芸術の磁場だったのである。

「山田耕筰氏の描いた〈霊楽堂〉の夢」(『サンデー毎日』第3年第41号,1924年9月21日)

「山田耕筰氏の描いた〈霊楽堂〉の夢」(『サンデー毎日』第3年第41号,1924年9月21日)

 しかし,のちの川喜田は,「芸術至上主義から科学至上主義」(『図解式店舗設計陳列全集Ⅰ』)へと大きく転回したといい,この時代を自身の「幻想時代」であり「恥しいもの」と否定する(川喜田「四つの劇場と舞台の提案」『建築と社会』1931年11月,p.3)。しかし,この否定こそは,彼をウクライナ劇場国際設計競技へ,バウハウス的デザイン教育へ,そして能率研究としての店舗設計へと駆動したものにほかならない。すなわち,川喜田は,山田耕筰の芸術の磁場で,反転する磁極となって新たな活動を切り拓いていったのである。

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