著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

田尻町(宮城県)と小海町(長野県)の町役場円形庁舎にみる円形建築ブームの構図―円形建築の採用が連鎖的に生じる現象とその背景

所収:『日本建築学会大会学術講演梗概集(近畿)2023年』 pp.375-376
発行日:2023年8月


田尻町(宮城県)と小海町(長野県)の町役場円形庁舎にみる円形建築ブームの構図―円形建築の採用が連鎖的に生じる現象とその背景
正会員 梅宮弘光

キーワード:

戦後昭和の建築 円形校舎ブーム 円形建築 坂本鹿名夫 文化服装学院円形校舎 昭和の町村合併

はじめに

 田尻町役場庁舎(のち大崎市田尻総合支所,宮城県,1958年4月竣工,2017年取壊し)と小海町役場庁舎(長野県,1961年2月竣工,2003年取壊し)は,ともに坂本鹿名夫(1911-87年)の設計による円形庁舎である。田尻町の円形庁舎が先例となって,小海町役場新築に円形建築が採用された。本稿では,それぞれの建設経緯とその関係を述べ,円形建築ブームの背景と構図の一端を明らかにする。

1.田尻町の誕生と円形庁舎の建設経緯

 1953年10月1日に3年間の時限立法として町村合併促進法が施行された。当地に対して宮城県は二種の四カ町村合併案を提示した。これにより合併気運は高まったものの,合併相手をめぐって各地域の世論は一致せず,地域間の駆け引きが激化した。結果的に(旧)田尻町・沼部村・大貫村の三カ町村合併案が進展することになった。その後,町名,役場位置,公民館設置,中学校統合をめぐって議論が紛糾,紆余曲折のすえ新町域の中央に位置する田尻駅(1908年開業,所在は沼部村)の名をとり,1954年5月3日,人口19,712人の田尻町が誕生した。翌6月の町長選で佐々木敬一(旧田尻町長)が当選した*1
 新町建設計画では教育施設の拡充,町営住宅建設などが優先され,町役場は旧沼部村役場を仮庁舎とした。庁舎新築については1957年の第1回定例議会(3月5日)で木造2階建て案が可決されたが,同年第5回定例議会(9月13日)でRC造円形建築案に変更された*2。その事情は,佐々木町長の回顧によると次のようである。「専ら〈木造の予算で近代的な円型ビルができる〉というある週刊誌に載った記事にひそかに夢を描き,東京に居る設計者に聞いたり,カタログを取り寄せたりした。当時の隣接町村の庁舎は,木造,あるいはモルタル仕上げであったので,鉄筋ビルの円型庁舎を造り,合併町として驚かしてやろうと思っていた。(中略)全町議から賛成を得るには,まずモデル的建築物を設計技術者のS氏と共に二,三を見,なる程と納得してもらうことが一番と,東京出張を提案した。(中略)S技術者の円型建築現場はもとより,新宿の文化服装学院など他の設計した物まで視察する事とした。S氏の設計は構造計算などパテントがあるらしく,格安であった」*3
 「ある週刊誌」とは,時期と記事内容から判断して『週刊読売』1957年5/26号の記事「円形ビルの流行―住宅なみの安い建築費」である。それは坂本の主張をそのまま円形建築のメリットとして紹介し,文化服装学院(1955年8月竣工,東京,杉山雅則(三菱地所部)設計)とあやめ池遊園円形劇場(1956年,坂本設計)の写真を掲載していた。
 整理すると,1957年3月議会で木造庁舎新築案可決,同年5月に町長が円形建築を知り東京視察,設計終了が同年7月(坂本『円形建築』巻末リスト),同年9月に円形建築案が議会通過後即着工,翌1958年4月竣工である【写真1】。円形庁舎は直径22m*4,中央の螺旋階段とホールの周囲に室を配する円形校舎と同種の平面である。
 佐々木町長は合併後の町政の課題を「新町の一体性確立への物心両面の動き」*5と述べ,円形庁舎の効用として次のように記している。「円型ビルが故に合併后役場から遠くなった部落民も本庁に足を運ぶことを喜んでくれた。若い人はそのスマートな近代性を愛し,中年の人はその合理性と経済性を愛し,年よりはその円満さをたゝえて〈庁舎の如く何事も円く〉と言ってくれる」*6

田尻町役場円形庁舎

田尻町役場円形庁舎(『町勢要覧』昭和33年版)

2.小海町の誕生と円形庁舎の建設経緯

 当地では,1955年12月の長野県町村合併審議会による四カ村合併勧告以降,合併気運が高まった。合併相手をめぐっては一村内の部落・大字・区単位の住民集会や声明発表,集団陳情,県による調停とその放棄,住民投票が継起するなどその過程は平坦ではなかったが,1956年9月30日に北牧村と小海村の合併により人口9,605人の新町が誕生した。町名は旧村からの継承ではなく,小海駅(1919年開業)を中心とする地域の意を反映したものとされた。その後1957年4月に隣接する八千穂村から東馬流(ひがしまながし)を分村編入,1958年3月に小海町の一部が八千穂村に分町編入されて現在に至る*7
 町役場庁舎は当分旧小海村役場を仮庁舎とし,両旧村役場の中間点に早急に新築するとされた*8。しかし,1957年4月の町議会(このときの町議は在任特例により両村の旧議員)で篠原義次町長(前北牧村長)が新庁舎建設予定地を旧北牧村に特定したことで,「旧村意識が強すぎる」等と議論が紛糾,役場と公民館をそれぞれ旧村域内に置くことでなんとか決着した*9。1957-58年度は新庁舎建設に向けた動きが見られない。分町村問題とそれにともなう境界線問題の膠着状態が続いた影響と推測する*10
 1958年9月,同町は台風21号で大きな損害を被ったが,翌1959年6月の町議会に提出された庁舎新築案は木造2階建てだった*11。しかし,同年8月に7号,9月に15号と相次ぐ台風で方針転換,翌1960年2月25日発行『小海町公民館報』32号で「前の設計では不完全,(中略)参考として宮城県遠田郡田尻町役場庁舎を町長はじめ助役,建築委員らが二月二十一日に現地を視察」*12と報じられた。田尻町役場の名が登場したのはこれが最初だったが,同年4月30日発行の同34号には早くも「三階建の円形庁舎―役場の設計なる」の見出しで庁舎概要が掲載された。円形建築採用の理由は「台風によって少なくなった敷地を活用するため」*13と説明された。
 1961年2月,直径約20m*14,各階独立ホール,最上階を鉄骨ドームで覆うタイプの円形建築が完成した【写真2】。同43号は「町村合併後何かと問題は多く旧村意識も仲々ぬぐい切れなかったが,(中略)いよいよそんな感情もさっぱりとして,新しい町作りの為に着々とあゆみを進め(中略)合併後五カ年にして町のシンボルであり心臓であるところの役場庁舎は完成」と記している。

小海町役場円形庁舎

小海町役場円形庁舎(2002年9月撮影写真,小海町役場蔵)

3.両庁舎新築の背景と円形建築採用の連鎖

 両庁舎新築に共通する社会的背景は「昭和の大合併」である。合併では相手の選択をめぐってコミュニティ内外の駆け引きが生じる*15。成立後も,町名,役場位置,学校統合,財産比率,負債引継ぎなどで紛糾は続く。その要因は関係地域間の感情的・実利的対立だった。ここに,新築する役場庁舎(あるいは公立学校)はどのような建物であるべきかという命題の浮上する契機がある。
 いまひとつの背景は,円形校舎のジャーナリスティックな話題性である。一般紙誌に登場する円形校舎のキャラクターは,斬新で機能的だが低廉な不燃建築というものである。この「機能的」については,坂本の主張のままに報じられた。当時続出した円形建築のなかで際立つ存在は,文化服装学院円形校舎*16だった。円形建築では初の高層(地下1階,地上9階,塔屋3階)で,都市の先端的風景だった。前述の週刊誌記事で目を惹くのは「安い建築費」の見出しと豪奢な同校舎の縦位置写真である。
 田尻町では,庁舎新築が懸案だった町長の目にこの記事が飛び込んで来た。たまたま彼は進取の気性と行動力に富む人物で,議会承認は後回しに,さっそく坂本と話を進め,円形庁舎が実現した。ところで,坂本は文化服装学院円形校舎を念頭に,「豪華」な「広告塔」と批判していたが*17,そこに向けられた眼が,坂本の円形校舎実用新案*18が世間で特許と混同されたことによって自身に向けられることにもなったのだから,結果的に,それは坂本の広告塔でもあったことになる。
 一方小海町では,難題を乗り越えて合併を果たした直後に連続3回の台風被災。木造ではダメだと思っていたところに田尻町の噂が伝わり,まずは現物を見なくてはと町長一行が出かけた。視察団にとって,竣工後2年に満たない役場庁舎は眩しく映ったであろう。新町建設計画に対する補助金交付規定から,年度内着工の必要があった*19。2月下旬の視察直後に設計依頼がなされたとすると,設計期間は約1カ月だったことになる。

おわりに

 田尻町では,都市の流行現象の代表例として週刊誌に紹介された豪奢な文化服装学院円形校舎の写真と低廉な建設費という見出しの組み合わせを見た町長が,(建築類型は異なれど)町役場への適用を着想した。判断基準は,合併の「祝賀的達成感」*20表現におけるコストパフォーマンスである。小海町では,同じ建築類型の先例に田尻町があったため,円形建築の採用は容易になったであろう。両案件ともに坂本鹿名夫が素早く対応できたのは,円形校舎のパタンを応用できたためと考えられる。
 円形庁舎は町民にどう受けとめられただろうか。町史や広報紙,回顧録に残されているのは,町民の声の体をとりながら,じつのところ町政の理事者・執行職員側の言説である。しかし,少なくとも次のようには言えるだろう。1950年代後半の建築界のトピックにRC造による伝統表現をめぐる「伝統論争」があったが,そんなハイブラウなテーマは,地方の選挙民や納税者の大半,まして子どもにとっては関心の埒外だっただろう。それに比べると,円い建物はよほどわかりやすかったはずである。


謝辞 本稿に関する調査において,次の機関とご関係の皆さまに多大なご協力とご教示を賜りました。記して謝意を表します。大崎市田尻総合支所地域振興課,宮城県立図書館みやぎ資料室,小海町総務課,小海町生涯学習課,小海町教育委員会,小海町図書館,大宅壮一文庫。

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*1:田尻町の合併経過は次の文献による。①『田尻町 新町建設実施計画書 自昭和34年 至昭和38年』,②田尻町史編纂委員会(編)『田尻町史』1960年,③田尻町史編さん委員会『田尻町史 下巻』1983年,④田尻町議会史編纂委員会(編)『田尻町議会史』1995年,田尻町議会

*2:注1)文献④ p.50,pp.306-308

*3:佐々木『私の昭和史』1991年,私家版,pp.26-27

*4:解体工事図面(田尻総合支所提供)

*5:佐々木『随筆 北方の王者』1966年,私家版,pp.74-75

*6:同前,p.79

*7:小海町の合併経過は,小海町教育委員会(編)『小海町志(近現代編)』1997年,小海町志編集委員会による。

*8:『小海町公民館報』創刊号(1956年10月20日)4面

*9:注7に同じ,p.760

*10:同前

*11:『小海町公民館報』26号(1959年8月5日)1面

*12:同32号(1960年2月25日)1面

*13:同前

*14:同34号(1960年4月30日)1面記載の床面積から算出

*15:市川喜崇「〈昭和の大合併〉再訪」『自治総研』437号,2015年3月

*16:次が詳しい。種田元晴「文化服装学院円型校舎の形態構成と空間構造に関する研究」『文化学園大学・文化学園大学短期大学部紀要』第51集,2020年1月

*17:建築綜合計画研究所(編)『坂本鹿名夫作品集 円形建築』1959年,日本学術出版社,p.10

*18:拙稿「坂本鹿名夫の実用新案〈円形校舎〉について」『日本建築学会大会学術講演梗概集(中国 )2017年』 pp.207-208

*19:注12に同じ

*20:注15,p.83。市川喜崇(行政学)は,各県で出版された合併誌の序文などに「困難な偉業を成し遂げたという,ある種の安堵感をともなった祝賀的達成感を読み取ることができる」と指摘している。