著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

路傍のモダニズム―相互タクシー営業所建物

初出:『まちなみ』第25巻第284号(2001年3月),大阪建築士事務所協会
再録:石田潤一郎(監修)『関西のモダニズム建築―1920~60年代,空間にあらわれた合理・抽象・改革』淡交社,2014年6月 pp.140-145


路傍のモダニズム―相互タクシ営業所建物
梅宮弘光(神戸大学発達科学部助教授)

はじめに

 御堂筋と道頓堀の交差する南西角に,タクシー営業所がある。場所柄,夕方まではがらんとしているが,夜になると乗り込みの客が多い。「安心して乗れる相互タクシー」。すぐ横に建つ道頓堀の派手なネオン・アーチに負けじと灯るささやかなネオンがなければ気づかないような,都会の真ん中の小さな小さな建物である。
 かつて,1950年代半ばから1960年代末期にかけて,このタイプの営業所が京阪神の主要道路沿いに点々と設置されていった。この頃,阪神間では国道43号と阪神高速の建設計画が進められつつあった。自動車一台あたりの人口が、アメリカの5人に対して日本が2000人だった1950年,スバル誕生の契機となった国民車構想が発表された1955年,そしてマイカーブーム到来の1960年代末。それは,高度経済成長を背景に,自動車社会へと日本が変貌していく頃の,ひとつの都市の風景である。

設置経緯

 相互タクシー株式会社は,1931(昭和6年,多田清(1905~91年)によって大阪で創立された。多田は,持ち前の独創性と実行力で,京阪神全域に事業を拡大していく。その様子を『交通毎日新聞』(1963年12月11日付)は,「大阪五九〇,京都四五六,神戸三一ニ,傍系を含めて相互タクシーの保有台数は,京阪神で千四百台。質量ともに日本一のスケールである」と評している。
 大正末期から昭和初期にかけての円タク全盛期,戦中のガソリン統制や戦時統合というタクシー業苦難の時代を経て,戦後,新規免許が認められると日本のタクシー台数は急増する。1958年頃にはタクシー運賃抑制策もあって,少しでも水揚げを得ようと無謀運転が横行し社会問題にまで発展,流し営業の時間帯制限や繁華街への進人禁止などの措置がとられたこともある。そんななか,相互タクシーは,ハイヤー営業をタクシー料金で行う方針を打ち出す。
 ハイヤーは,運送契約が営業所のみで行われる点でタクシーと異なる。客は営業所に電話をして車をまわしてもらうか,直接営業所に赴いて車に乗り込むことになる。空車で出庫し空車で帰庫するから,当然料金は割高に設定されるのが普通であった。しかしとくに企業には,時間極,日極で融通がきき,高級車と心得た運転手のサービスが受けられるハイヤーが重宝された。相互タクシーは,これをタクシー料金で行おうというのだった。
 そこで,企業を中心にした乗車券販売に力を入れた。客に乗車券を購人してもらったからには待たせるわけにはいかない。電話依頼が入るとすぐに配車できるよう,立地を選んで効率的に営業所を配置する必要があった。また,流し営業や繁華街,駅前への進人が制限されるような状況では,そうした場所に自社の営業所をもっていることも有利であった。こうしたことから,相互タクシーは京阪神の繁華街や主要幹線道路の要所要所に営業所を布置していったのである。
 「大阪・神戸・京都営業所電話番号御案内」(相互タクシー株式会社,発行時期不明)によれば,営業所数は大阪21,京都20,神戸16の計57ヵ所となっている。数についてはその後の増減もあっただろうから,いちおうの目安としておこう。こうした営業所のなかに,鉄筋コンクリート造で特徴ある意匠をもった営業所建物が21あった。それが,ここでモダンスタイル営業所と呼ぶ一連の建物である。(表参照)
 冒頭でふれた道頓堀営業所はその第一号と伝えられていて,1953(昭和28)年の設置,一方,残されている資料のなかでもっとも日付が新しいのが高津営業所で,1970年の設置。モダンスタイル営業所は,ちょうど高度経済成長期の京阪神の都市空間に姿を現していったのである。

機能と平面計画

 モダンスタイルの営業所建物は,共通する意匠ゆえにみな同様のたたずまいで建っている。しかし,実際は敷地規模や立地条件が異なるので,その平面はどれひとつとして同じものはない。
 営業所で行われる仕事は「配車」と「乗り込み]のふたつである。その基本要素は,客,営業車両と運転手,電話と配車係である。まず客の立場から作業の流れを追ってみよう。依頼の電話を配車係が受ける→運転手に指示→出庫。客が来所→(車が出払っていれば多少待って)→乗り込み→出庫。次に運転手の立場なら,本社車庫から移動して営業所に入庫→待機(休憩,整備,洗車)→出庫,以後帰庫→待機→出庫の繰り返し。最後に配車係の立場では,配車係席に着く→電話による配車作業/乗り込み客の応対→運転手に指示→伝票等の整理,これら以外に夜間の仮眠が加わる。
 モダンスタイル営業所では,こうした流れの各場面で必要とされる空間や設備が,効率的に配置されている。原則は最大限の駐車スペースと最小限の配車室の組み合わせである。駐車スペースを大きくとると配車室面積を圧迫する,逆もまたしかり。
しかし,この床面の取り合いはここでは矛盾対立するものではない。多田の考えでは,配車室はむしろ必要最小限でなくてはならなかった。それは,駐車スペースを圧迫しないという理由のみならず,配車係が自らの仕事に集中するという職務上の要請にも合致していた。
 配車室の短辺幅は,営業所の規模にかかわらずほぼ一定で,芯々で1800ミリほどである。この寸法をさらにカウンターや壁柱の出っ張りや物入れが侵食してくるのだから,中には人ひとりがようやく座れるスペースしか残らない。配車係は着席すると,前を向くほかない。そこには体を囲むように湾曲させた机,その上に電話,下に抽斗,まわりには座ったまま手を伸ばせる棚,そのまま振り向けば地図などを置く書棚が造り付けてある。目前には大きな曲面ガラスを介して前面道路と駐車スペースが一望できる。配車係はここに座って,周辺の交通や歩行者,入出庫する自社タクシーの安全に目配りしながら,電話と来所する客にも応対するのである。これは,まるで運転席ではないか。配車係はハンドルを電話に持ち替えて,自らもタクシーを運転するがごとく配車業務にいそしむのである。
 配車室の前面は,腰高のカウンター上端から天蓋下端までいっぱいに曲面ガラスの開口がとられている。中からは外がよく見えるが,外からも中は丸見えになる。それは,防犯や労務管理にも役だったであろう。
 営業所の平面計画は,周辺状況を勘案して配車室をどこに配置するかでほぼ決まる。残りが駐車スペースで,その上部に天蓋が架かる。この天蓋は,配車室の内側に壁と一体にされた柱と,反対側の独立柱に渡された逆梁で吊られる。すなわちRC造の配車室,駐車スペース,RC造の天蓋,この3点がモダンスタイル営業所建物を成り立たせている基本アイテムであり,意匠上の特徴を規定している。

意匠

 モダンスタイル営業所の意匠の特徴を端的に述べるなら,それは曲面と白色である。
 ファサードの鉛直面では,出隅・入隅にすべてアールがつけられている。配車室の前面,天蓋を支える独立柱,天蓋,これらすべて角が丸い。配車室前面の開口には,壁の湾曲に合わせた曲面ガラスが用いられている。配車室内側には天蓋を支える壁柱の柱型が張り出しているが、この角も丸めてある。出隅にアールをとることは,タクシーの走行の軌跡から導かれた形状であろう。その意匠上の効果は,機能面での実効性以上のように思われる。たとえば,天蓋は,配車室に接する部分ではカウンター上の庇として機能しながら,流れる線となって駐車スペースの上を軽やかに覆う。
 このストリームラインを引き立てているのは,天蓋の薄いスラブと随所にみられる面一の収まりである。スラブ厚は天蓋端部で120ミリほどしかない。しかも天蓋は逆梁で支えられているから天井面に梁の突起が出ない。照明用の蛍光灯はスラブに穿たれた細長い穴に埋め込まれて面一が保たれている。
 建物の色は,白,黒,灰の3色である。外壁は白セメントモルタル塗り」,内壁は「プラスターコテ押さえ」,ともに白一色のため白い建物という印象が強い。人研の床と巾木,人研か大理石のカウンター,スティールサッシュは黒い。内部の造り付け家具など木部は基本的に灰色である。侍合スペースのベンチは,摩耗を考慮してであろう,生地仕上げとなっている。ところで,この白い壁の塗り替え作業は非番の運転手たちが交替で行った。それが社長・多田清の方針だったという。
 夜間は,建物全休が蛍光灯の照明で白く浮かび上がる。隣地との境界壁も白いので,それが背限となり,なおのことである。配車室の大きな開口からも白い光が溢れる。この光景は1950~60年代の都市空間においてどれほど新鮮であっただろうか。想像をかきたてられる。
 無彩色の色使いの中で,天蓋の上にかかげられた「相互タクシー」というネオン灯と,配車室上部の壁面に直接描かれるロゴマークは赤い。円のなかに「相互」の白抜き文字で示されるロゴマークは必ず赤が用いられる。この円は、じつは微妙に縦長の楕円である。中に文字を入れたときに,ひしゃげて見えないよう補正されている。

設計者

 営業所の設置計画からそのデザイン,そしてロゴマークまで,すべて社長の多田清か決定していったと伝えられている。そもそも多田は,ひとに任せるような性分ではなかったとも。タクシー業務に関するあらゆることを自ら研究し実行する,違うと思えばたとえ朝令暮改と言われようがすぐに変更する。こうした多田の独創性と実行力は,社内でさまざまなエピソードとして語り継がれている。
 多田清は1905(明治38)年,福井県勝山市に生まれ,3歳で大阪に移り住む。尋常小学校卒業後,職を転々としながら兵役を経て,1927(昭和2)年,26歳で一タクシー運転手となる。このときがタクシー事業と関わる第一歩である。経営者から名義を借りて自分で持ち込んだ車で走る,それが当時のタクシー業の一般的な経営方式だった。この方式の矛盾と前近代性に疑問をもった多田は仲間と独立し「相互利益分配方式]という経営方式を確立・実践していく。これは今日,交通経済学において「本邦タクシーの発展史上特筆すべき」(小泉良二『タクシー問題の研究]所書店,1973年)と評価されている。
 経常方式の改善と同様に,多田にとってはおそらく,営業所のデサインもタクシー業務の一環だったにちがいない。そうであれば自分ほどそれに精通している者がほかにいるはずがない。どうして他人任せにできようか。多田が御堂筋をへだてた喫茶店に座って,道路を隔てた向い側の空き地を見つめながら描いたスケッチ,そこからモダンスタイル営業所の第一号,道頓堀営業所が生まれた。
 多田がいくら独創的で研究熱心であってとはいえ,それだけで営業所建物の実施設計ができるわけではない。そこにはやはり,多田の構想を実施へと媒介する存在が必要であった。その役目を担ったのが,芳田清治である。芳田は社長以下すべての社員が運転手出身だった相互タクシー株式会社にあって,例外的に運転手経験のない社員だった。
 1921(大正0)年生まれの芳田は,18歳のときに多田に出会うことになる。関西工学校機械科を病気中退して,家業を手伝いながら大阪機械設計製図学院という専門学校で学んでいたところ,学校を介して製図のアルバイトが入った。それは相互タクシーからの仕事だった。芳田の図面に多田は満足し,この男を雇えということになった。以来芳田は,筆頭専務として退職するまでの長きに渡り多田の全幅の信頼を得て,彼の構想を技術面で支えることになる。
 営某所建物の設計に際して芳田の仕事は,多田の構想を具体化し確認申請に必要な設計図書を一級建築士に発注することであった。多田のスケッチやメモから1/50の図面に起こしチェックを受ける。すると多田は,指示とちがうとひどく怒る。「そんなことありません,社長の言われたとおりにやりました」と言っても聞き容れようとしない。その繰り返しだったという。またあるとき,芳田は完成予想模型をつくり,それにミニカーを入れてもって行った,多田はたいそう喜び,それを方々に持ち歩いて見せて回ったという。芳田は社長に意見をしたこともあるという。営業所建物の隅にアールをつけると費用がかさむと。「バカヤロー」と一喝されたという。必要なところには金をかける,それより無駄なところを節約しろと。
 営業所建物の数少ない現存図面の中には,「山村正倫」と「サカタ設計事務所佐方修」という二人の一級建築士の名が見えるが,彼らの消息はわからない。芳田によると,申請用図書を作成するだけの役割だったという。そもそも,自己主張するような建築家と多田が合うはずがないというのである。すべてを決めるのは多田自身だったのである。

おわりに

 このようにみてくるなら,相互タクシー営業所のモダンスタイルは,タクシー業近代化の表象でもあったと思える。だからこそ,電話配車によるハイヤー営業が無線配車によるタクシー営業へと変化する時代の趨勢のなかで次々と姿を消していった。
 その意味で,このモダンスタイルの営業所は,モータリゼーションの中の社会とデザインを体現しているとも言えよう。その機能と意匠は,近代的タクシー業じたいが要請するものだったはずで,機能と意匠の間に乖離はないように見える。たとえば,営業所の白という色は,おそらく多田にとっては,謹厳実直,明朗潔白というような近代産業としてタクシー業が備えるべき秩序感の象徴ではなかったか。だからこそ多田は,その壁の塗り替えを運転手自身がすることを要求した。あたかも,自分が乗るタクシー車輌の整備点検と清掃を心がけるように。
 このタクシー営業所の機能と意匠の素っ気ないほどの合一ぶりには,それが単一で特殊機能の建築であるという要因も働いていよう。また,その意匠が建築言語としてモダンスタイルという時代の美学と無縁であったとも考えにくい。たとえば,1920~30年代ヨーロッハにおけるモダニズム建築との通底,あるいはその時代を呼吸した日本人モダニストの1950年代の作風との類似,また1930年代アメリカのガソリンスタンドの標準設計との関係などは気になるところである。さらに,R.ヴェンチユーリが『ラスベガス』で示したような,自動車社会における記号的建築という視点は,営業所建物を都市空間のなかで捉えようとするとき示唆に富む。
 こうした点についてはまだまだわからない点が多いが,それにしても,小さいなかにも視ることの快楽を湛え,これらが十全に働いていた頃の京阪神の都市空間をまざまざと想起させるこの小建築群を,それがすべて消えてしまう前に記憶にとどめておきたいと思うのである。

 

謝辞:相互タクシー営業所建物の調査にあたり,元相互タクシー筆頭専務取締役芳田清治氏,現神戸相互タクシー取締役小野田鎮氏,同庶務部長松村静雄氏には,多大なご援助と貴重なご教示を賜った。大阪府建築士会鶴田晴子氏には当方の曖昧な問い合わせにお手を煩わせた。小林淳男氏には,大阪市玉出と西田辺にもモダンスタイル営業所があったことをご教示いただいた。かつてのゼミ学生臼井敬太郎氏(現筑波大学大学院)には調査作業を積極的に補佐していただいた。記して謝意を表します。

 

追記:神戸大学発達科学部梅宮研究室では,現在も相互タクシー営業所建物に関する調査を続行中です。どのような情報でもお寄せいただければ幸甚です。

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