旧西尻池公会堂の保存に関する要望書に付す見解書(案)として執筆
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要望書(西尻池財産区会長・会員の皆様宛,2011年12月20日付)
「旧西尻池公会堂の保存に関する要望書」
社団法人日本建築学会近畿支部 支部長 横田隆司
「旧西尻池公会堂についての見解」
日本建築学会近畿支部 近代建築部会 主査 橋寺知子
https://www.aij.or.jp/scripts/request/document/20120120-1.pdf
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旧西尻池公会堂について
建物の概要
本建物は、1926(大正15)年11月、現在の兵庫県神戸市長田区西尻池町2丁目(当時は神戸市林田区西尻池村)に、西尻池財産区により「西尻池公会堂」として建設された。構造は鉄筋コンクリート造、規模は2階建て、建築面積約212㎡、延べ床面積約411㎡。設計者は清水栄二(1895-1964年)、施工者は勝村竹三である。
その後、同建物は鷲尾外科医院に転用され、2011年の同医院閉院まで利用された。転用時期は不詳だが、戦後最初期の住宅地図『神戸市全産業住宅案内図帳 長田区 昭和31年版』(神戸地学協会)には、同地と思しき位置に「鷲尾外科」の表示が見られ、周囲に公会堂の表示は認められないことから、遅くとも1950年代半ばにはすでに転用されていたと思われる。
1960年代前半期、大橋地区市街地改造事業(1962-65年)のなかで同敷地は区画整理範囲に入ったため、建物は北側に曳家され、現在地に移動することとなった。
医院転用時に2階の集会用大空間は間仕切りされて病室に改変されたものの、付加された壁は木造で、当初の柱や梁は温存されている。外観では2階後部に小規模な増築があるが、これも木造であり、当初の状態に直接の影響はない。このように、直近まで継続使用されてきたことが幸いして放置による劣化を免れ、現状において内外ともにオリジナルの状態がよく保たれているといえる。
この建物は、日本建築学会が1970年後半に行った全国的な近代建築調査で注目され、その成果をまとめて1980年に出版された日本建築学会(編)『日本近代建築総覧』(技報堂出版)にリストアップされており、文化財的価値が高い建物として学術的に評価されている。近年、建築家・清水栄二の評価が高まっており、本建物は彼の代表作のひとつとしても、きわめて重要である。
意匠上の価値
本建物の最大の特徴は、その外観意匠にある。それは、日本の近代建築が1920年代から1930年代にかけて、先行するヨーロッパ近代建築の新傾向-オランダの「アムステルダム派」やドイツ語圏の表現主義建築-を取り入れながら、鉄筋コンクリート造建築の意匠を模索した過程を示すものとして、全国的にも貴重な存在である。
巧みな立面構成
本建物が、比較的小規模(間口約11m×奥行約17m)ながら存在感を示している要因は、その巧みな立面構成による。建物の基本的な構成としては、まず単純な四角形の平面全体をそのまま2階建てにし、2階壁面上部に軒蛇腹を廻して全体を引き締めている。そのうえで、正面側の両隅部を前方にわずかに突出させることで正面の立面を3分割し、間に挟まれた部分の1階中央に玄関、2階には左右対称に開口を設けている。
一方、正面両端部のうち南東隅の部分のみ頂部の造形を変えて、左右対称性を崩して建物に表情を生み出しながら、中央に大きく迫り出させた玄関庇によって、中央と左右両端部をつなぎ、正面の立面構成に変化と同時に一体感を生み出している。
このようにして生み出された特徴ある外観によって、この建物は周辺地域におけるランドマークともなっている。
シンボリックな南東隅の塔
建物南東隅は階段室で、その頂部は放物線(パラボラ)アーチを描き、屋根面より高く突出している。結果として、この隅部分は塔状の外観を呈している。頂部のアーチ面中央には同形の小窓が穿たれアクセントとなり、その下には四角い窪みが並んだ帯状の装飾がついている。さらにその下の中央には1~2階を貫いて縦に伸びるプリズム状の出窓によって垂直性が強調され、その下端はダイヤモンド型の窓台で支えられている。
この塔状部分と似通った造形は、アムステルダム派の代表的建築家ミヘル・デ・クレルク(Michel de Klerk 1884-1923年)の設計になるスパールンダマー地区(Spaarndammerplantsoen)の集合住宅(1912-15年)に見出すことができる。
全体を引き締める畝模様の軒蛇腹
搭状部分を除いて、2階壁の上半分近くを占める幅広の軒蛇腹には、水平方向に14本の畝が付けられ、それらは上にいくにしたがって少しずつ迫り出している。この装飾によって、水平性を強調しながら建物全体に一体感をもたせると同時に、前述した塔状部分が際立つことになっている。
【ボリュームとダイナミズムを感じさせる玄関庇】
玄関庇は2階バルコニーを兼ねた変形六角形の平面で、上面は水平だが、下面は玄関幅から扇状に広がる曲面をなし、このことによって、ボリューム感と、あたかも幅の狭い玄関からズームアウトしたような造形上のダイナミズムが生み出されている。こうした造形的特徴は、1910年代のドイツ語圏で展開した表現主義と称される傾向と共通する。
重量感を演出する外壁と基壇との一体的造形
本建物の壁は柱の室内側に面を揃えて設えられているため、東西の外壁には柱型が顕わになる。したがって、外側の柱と柱の間では、壁は基壇より奥まった位置にあり、基壇に接する部分には水勾配をとる必要がある。この時代の建物では、この部分に石材やタイルを斜めに入れるのが一般的だが、この建物では、壁面から基壇部にかけて、スカートがなだらかに広がるように、曲面で連続的に処理されている。
こうした造形は、建物が大地に根を張っているような印象をもたらし、2階軒蛇腹が上方に向けて迫り出していることとあいまって、この建物に重量感と安定感を与えている。
神戸で活躍した建築家・清水栄二の作品としての価値
設計者・清水栄二は神戸の近代建築において最重要の建築家であり、本建物は清水31歳、まさに青年期を脱して円熟期を迎えんとする時期に生み出された充実した意欲作である。
清水は1895(明治28)年、現在の神戸市灘区(当時は武庫郡六甲村)に生まれ、第一神戸中学校(現・神戸高等学校)、第三高等学校(現・京都大学の前身のひとつ)を経て東京帝国大学建築科に進み、1918(大正7)年に卒業した。卒業後は請負会社での実務経験後、1921(大正10)年、神戸市役所土木課に技師として奉職した。1926(大正15)年8月に神戸市を退職するまで、多くの市立小学校の鉄筋コンクリート造校舎、神戸市立生糸試験所(1927年)、御影公会堂(1932年)などの公共施設のほか多くの作品を神戸に残したが、現存するものはわずかである。
1922(大正11)年、神戸市公会堂の建設計画がもちあがり、設計競技に付された。審査を経て入選作が決定したものの、実施には至らなかった。このとき清水は神戸市の担当責任者を務めており、その経験が、後に自身が設計することになる公会堂-駒ヶ林、西尻池、御影-に活かされたと思われる。
一方、清水は神戸市在職と並行して、おそらく1923(大正12)年、部下である営繕技師たちをスタッフとして設計組織「癸亥社」(きがいしゃ:干支の組み合わせの60番目。大正年間では12年が相当)を設立、勤務終了後の時間を当てて、神戸市編入前の近隣自治体から依頼された学校施設や公共施設、企業関連施設を設計した。退職後の清水は、この癸亥社を自身の設計事務所に発展させ旺盛な設計活動を継続すると同時に、神戸高等工業学校(現・神戸大学工学部)建築学科で教鞭を執り後進の育成にも尽力した。
建築家・清水栄二の特筆すべき意義は2点あげられよう。
ひとつは、モダンスタイルの先駆的作風である。それは、19世紀以前の西洋建築様式の骨格を残しながらも、表層的・部分的には20世紀初頭の新傾向も積極的に採り入れるもので、新しい意匠の断片も安定した様式的全体性のもとに統合されるので、全体のまとまりが保たれる。清水よりも2~3年若い世代になると、こうした全体と部分の関係そのものを問い直すさらに新しい考え方が登場するが、清水の世代はその前夜的状況にあって、モダニズムの下地を用意したといえる。
いまひとつは、鉄筋コンクリート造技術を神戸市とその周辺地域の建設活動に導入し、実践において指導的役割を果たしたことである。清水は神戸市役所の営繕部門における初めての大卒技師であり、彼の鉄筋コンクリート造建築の設計技術は、都市の近代化を推進しようとしていた当時の神戸市やその周辺地域から求められるものであった。この意味において前述の「癸亥社」は、この技術の貢献範囲を神戸市の管掌範囲外にまで広げようとしたもので、清水の私的設計組織というよりも神戸市営繕課の別動隊としての性質を備えるものだったといえよう。
すなわち、清水栄二は1920年代の神戸に、様式と技術の両面で新しい息吹を吹き込み、その実践において指導的立場を担った建築家であった。旧西尻池公会堂は、まさにこの両方の意義と特徴を体現する価値ある建築物である。
新しい地域環境創造のための文化財としての価値
西尻池公会堂は、地域の近代史の証人ともいえる唯一の建物であり、地域アイデンティティを発信し新しい環境創造のための優れた文化的リソースとなり得る建築物である。
本建物の立地である西尻池町は、神戸市長田区の中部地域に位置する。元来このあたりは低湿地の農耕地帯で、地名から窺えるとおり真野池(現在の真野町域)の苅藻川(新湊川)への落ち口にあたる場所であった。こうした土地が、市制・町村制(1888年制定)、神戸市への編入(1896年)、人口急増による池沼埋め立てと宅地造成、水田から畑地への変遷を経て、西尻池町(町制は1920年)周辺は、大正期よりゴム工業の集積地となった。戦後は、ケミカルシューズ産業の発展にともない、長田神社の門前や駒ヶ林の漁村といった古くからの長田に対して、中小工場の集積地「新長田」の一部を形成するに至った。
西尻池公会堂が建設されたのは、こうした長田の近代化過程のただなかにおいてである。それはまた、地域社会が大きく変化し、新しい市民社会の模索のなかで公衆が集まる施設が求められた時代でもあった。1920~30年代の新聞記事には、その時代性と土地柄を反映して、兵庫ゴム工業組合の設立大会(神戸新聞 1927年7月26日付)や失業対策懇談会(神戸又新日報 1933年6月8日)、川崎車輛工場の労働運動演説会(神戸又新日報 1930年4月5日)などの開催が報じられているが、会場となったのがこの公会堂である。その際の名称には「大橋公会堂」「西尻池大橋町公会堂」「林田区大橋公会堂」という呼称が散見される。「大橋」とあるのは、この公会堂が、阪神国道(のちの国道2号)が新湊川を渡る橋「大橋」のすぐ西に位置するからであろう。
1960年代以降、この付近では相次いで再開発が行われた。戦災復興区画整理の一環である国道2号拡幅工事、阪神高速神戸線の高架道路建設と湊川ジャンクション設置、これらを契機とした大橋地区市街地改造事業(1962-65年)などである。1995(平成7)年の阪神淡路大震災では大きな被害を受け、震災復興市街地再開発事業によりさらに変化を遂げた。
西尻池公会堂は、戦災と震災というふたつの災害とその復興にともなう環境変化をくぐり抜けて今日に残る。この周辺では唯一の歴史的建造物であり、この町の歴史を証し、次代に伝える貴重な近代化遺産である。
まとめ-神戸ゆかりの建築文化としての価値
以上にみてきたように、西尻池公会堂は、神戸で活躍し、地域の建築文化の発展に大きく貢献した建築家・清水栄二の作品であり、その優れた建築的内容によって日本の近代建築史上重要であることに加え、未来の環境創造のための文化的リソースとしも価値を有する建築物である。