著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

甲南病院本館の建物について

「甲南病院本館の建物の保存活用に関する要望書」に付す見解書(案)として執筆
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要望書(一般財団法人甲南会理事長宛,2016年12月2日付)
「甲南病院本館の建物の保存活用に関する要望書」

社団法人日本建築学会近畿支部 支部長 門内輝行
甲南病院本館の建物についての見解」
一般財団法人日本建築学会近畿支部 近代建築部会 主査 笠原一人

https://www.aij.or.jp/scripts/request/document/20161202kinki.pdf
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甲南病院本館の建物について

1.建築の概要

1-1.建設経緯

 甲南病院は,平生釟三郎(1866-1945年,当時東京海上火災保険取締役)の社会貢献と医療に対する長年にわたる尽力の結果,理想の近代的病院として1934(昭和9)年6月に竣工,開院したものである。その構想具体化の背景には,平生の理念にもとづいた医療関係者と建築技術者の協働があったと伝えられる。
 病院の計画に先立ち平生は親交のあった竹中藤右衛門(1877-1965年,竹中工務店社長)に新病院の設計について相談した。竹中工務店では,欧州建築事情の視察に派遣することになっていた同社設計部主任の鷲尾九郎(1893-85年)に,病院建築についても調査するよう命じる。折しも病院側では,医師岡通(初代院長)がドイツに留学して新病院開設に向けて調査・研究中であった。鷲尾と岡は彼の地で協力して調査研究を進め,帰国後にその成果がまとめられた。並行して,平生の門下生たちによって海外医療施設の先進事例や,国内に新築された病院の情報が収集され,新病院構想にもりこむべきアイデアが蓄積されていた。
 そうした折,建築家木下益治郎(1874-1944年)が平生に奉仕的協力を申し出る。木下は工手学校出身で,臨時陸軍建築部,山口半六主宰の設計事務所,逓信省,東京海上火災保険を経て自営建築家となった人物である。東京海上火災保険在籍時には,東京海上ビルディング(1930年,曾禰中條建築事務所設計)の現場主任を務めており,この頃に同社取締役であった平生の知遇を得ていたと思われる。
 平生は木下の申し出を大いに喜んだと伝えられ,最終的には,病院計画に関わるそれまでの研究調査の蓄積をふまえて木下に設計が,竹中工務店の施工が依頼されることになった。

1-2.施設内容と変遷

 敷地は神戸市東灘区鴨子ヶ原1丁目の北東隅四分の一近くを占める。当時は武庫郡住吉村の村有地約6000坪で,背後に六甲山,眼下に市街と大阪湾を見渡す高台で,未だ低木の松林に囲まれた一画であった。その一部にはかつて住吉聖心女子学院(現小林聖心女子学院)があったが同校の宝塚移転後,空き地となっていた。
 開院時には本館を中心に北側に「第二病棟」,南側に看護婦養成所と院長および医長の住宅4棟が建設された。医師宿舎は入院患者の急変に即応するためであった。「第二病棟」は伝染病に対応したものである。
 本館は鉄筋コンクリート造地下1階地上5階建てであり,開院時の7診療科(内科,第二内科,外科,小児科,産婦人科,眼科,耳鼻咽喉科)に対応した諸室および病室が配置された。病床数は116床,各階諸室・設備の概要は次のとおりであった(室表記は当時)。
 地階:ボイラー室,焼却炉,調理および配膳室等のユーティリテイ関連機能および,物療各室。
 1階:玄関,事務室,待合室,調剤室,製薬室,レントゲン室,手術室,電機および光線治療室,等。
 2階:大手術室,小手術室,麻酔室,産室,看護婦室,休憩室,等。
 3・4階:病室,院長室,研究室,応接室,会議室,図書室,看護婦室,配膳室,等。
 5階:保養室,日光浴室,動物舎,動物手術室,洗濯室,等
 こうした平面計画に反映された本病院の特徴として,設計者・木下益治郎は竣工当時に発表した解説において次の各点をあげている。①来院者の快適性を重視した総合待合室(窮屈な診療科別待合室を排する),②隔離患者専用待合室(小児の麻疹,百日咳ほか伝染性疾病対応),③電機装置による患者呼出装置,④最新設備を導入した大手術室,⑤医師・看護士の呼び出し装置,⑥付添人を廃するための給食および選択装置,⑦X線装置および物理療法設備,⑧伝染性疾病患者に対応した消毒設備。
 戦時下の甲南病院は淡いクリーム色のタイルに黒色の迷彩が施された。空襲を免れたものの,医師の多くも応召従軍し,人員と物資の極端な不足のなか医療活動を奮闘継続し戦後を迎えた。
 このかん,本館は竣工時のまま使用されてきたが,戦後の結核蔓延に対応して病床数を増やすべく,1951(昭和26)年に本館西翼が既存部分と同一意匠,同一外壁材で約30メートル延長された。これによって30床の増床となった。さらに,結核病棟として本館5階を大幅に拡張することとなり,1955(昭和30)年,軽量コンクリートによる壁体とアルミニウム部材による屋根を用いた大規模増築がなされた。病床数は225床と,戦前期の約2倍となっている。
 その後今日までに,本館西側に接続した新館(東畑建築事務所設計)の増築をはじめ,南棟,東棟など3棟が新築されたが,いずれも別棟として渡り廊下で本館と接続されているため,本館の佇まいは今日まで保たれている。

2.建築史学上の価値

2-1.歴史的価値

 同病院の計画に際しては,前述したように,当時の最新病院である聖路加病院(1933年,A,.レーモンド),同愛病院(1929年,近藤十郎),バルナバ病院(1928年,W.M.ヴォーリズ),北野病院(1928年,森田慶一)などが参考にされたと伝えられている。甲南病院が開設された1930年前後期は,日本における病院建築の飛躍的近代化の時期であった。竣工したばかりの同病院を掲載した『建築と社会』誌(日本建築協会編集・発行)は1934年9月号を「病院建築」の特集号としているが,その巻頭言で,自らも日本赤十字病院京都支部病院を完成させたばかりの建築家武田五一(1872-1938年)は次のように述べている。「近年我邦に於ても(中略)其新築され,或は其計画を発表されて居るものの其数は全く空前の盛況と云ふても敢へて過言ではない」。これを証するように,1930年代前半期には次のような近代的大規模病院の建設が相次いだ。
・京都府立医科大学病院(1931年,京都府営繕課),
・日本赤十字社兵庫支部姫路病院(1931年,置塩章),
・京都帝国大学医学部附属病院耳鼻咽喉科教室(1932年,大倉三郎),
・大阪女子高等医学専門学校附属病院(1932年,藤井厚二)
・日本赤十字社静岡支部病院(1933年,置塩章),
・同京都支部病院(1934年,武田五一),
・同大阪支部病院北病棟(1934年,木子七郎),
・京都帝国大学医学部附属病院耳鼻咽喉科教室(1934年,大倉三郎),
 これらの病院建築は規模や敷地形状に応じた異同はあるものの,共通した全体的特徴が見られる。具体的には,いずれも西洋の歴史様式を採らず,装飾を控えたシンプルな箱型を基本とし,明るい色のタイルと大きなガラス開口を備えていることである。
上述した病院の設計者はいずれも西洋歴史様式をも得意とした建築家たちだが,病院の設計に際しては,それを採用しなかった。先の武田五一は,先の発言に続けて次のようにも述べている。「近時我邦の病院建築の設計設備等に至るまで嘗て前に見ない進歩をして来た。近代建築の著るしい傾向は,機能を尊重し経済の許るす範囲に於て其最大効果を発揮する事を旨とすることである。特に病院建築は其内容が純科学的方面を主として居るが其一面に於いては,患者又は其近親者の精神的慰安の方面をも考慮しなくてはならない」。先進的で高度な医学と患者本位の医療実践には,明朗で親しみやすい外観意匠と,患者本位の内部構成こそがふさわしいと考えられたのである。
 甲南病院は,まさにこの時代の病院建築の理念を建築的に体現するものであった。外壁全体はクリーム色のタイルで覆われ,同病院の明るい印象を決定づけている。病室を南面させるために南立面は平坦だが,壁面の控えめな凹凸に窓上の庇を代用させ,中央部にこれも控えめなバルコニーを置くことで,単調さを免れている。一方,北立面はアプローチのキャノピー(天蓋)から玄関および1階:受付と薬局ブロック,2階:手術室ブロック(当時),3階:会議室・院長室等の管理ブロック,5階:保養室(当時)と,立体を分節して階段状に連ねることで変化と記念性を生み出している。
 平面計画においては,総合待合室とオープンカウンターの採用,各階休憩室,屋上保養室など来院者や入院患者への配慮がなされている。
甲南病院本館では,その後の発展過程における用途変更にもかかわらず,こうした建築的特徴をよく留めており,日本における近代病院建築の戦前期における到達点を示すものとして貴重な存在といえる。

2-2.景観形成重要建物としての価値

 甲南病院の建設予定地として,当初は本山村(当時,現在のJR摂津本山駅を中心とした一帯)に土地が購入されていた。しかし,この近辺が神戸市都市計画区域編入に伴い工業地帯化する将来案が発表されたことで,新たな敷地が求められ,現在地に建設されることになった。このことが,甲南病院本館建築と周辺環境が一体となった阪神間の良好な景観形成に決定的要因となっている。
 甲南病院本館が建設された頃の六甲山南麓はいまだ人家も疎らであったから,病院の偉容は市街からも遠望できるものであった。その後,阪神間の郊外化の中で病院周辺の宅地化が進み,その良好な住環境を求めて,とくに1970年代以降にはマンション建設が相次いだ。今日,市街地や電車の窓から眺める阪神間の斜面地は,豊かな木々の緑が残るものの,いささか混乱した様相を呈しているようにも見受けられる。
 そうしたなかで,周辺の木々の緑色に埋もれるように建つ明るいクリーム色の建物には,その規模の大きさにもかかわらず周囲を睥睨するような威圧感はなく,この一帯のランドマークとなっている。同様の存在には,たとえば,灘区住吉山手の白鶴美術館(1931年,鷲尾九郎),東灘区岡本の甲南大学学舎群(1951年~,竹中工務店ほか),東灘区森北町の甲南女子大学学舎群(1964年~,村野藤吾)などがあるが,それらは単体としての価値のみならず,阪神間の景観をシーケンシャルに秩序立てているといえる。この状況に大きく貢献しているのが,甲南病院本館の建築である。