著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

構造の表現意欲―神戸ポートタワー

初出:『まちなみ』第27巻第310号(大阪建築士事務所協会,2003年5月) pp.14-17
再録:石田潤一郎(監修)『関西のモダニズム建築―1920~60年代,空間にあらわれた合理・抽象・改革』淡交社,2014年6月


構造の表現意欲―神戸ポートタワー
梅宮弘光(神戸大学発達科学部助教授)

ある交代劇

 1962(昭和37)年、神戸港のシンボルが姿を消した。1912(大正元)年に建造された川崎造船所のガントリー・クレーンである[写真1]。高さ50メートル、幅44メートル、全長300メートル。船体各部を吊り上げて建造し最後に一体にするこの方式は、造船効率を飛躍的に上げた。船成金という言葉を生んだ大戦景気の中で、国内造船業の生産額は工業諸部門中最大の20倍という伸びを示したが、それを支えたのがこの巨大な鋼構造だった。神戸にまだ高い建物がなかった頃、それはまちのどこからでも見えたという。頂部に掲げられた"KAWASAKI DOCKYARD"の巨大な赤いネオンは、100万ドルと謳われた高台からの夜景に彩りを添えた。その無骨な偉容は神戸港のランドマークであると同時に、ミナト神戸の繁栄の象徴でもあった。

写真1 川崎造船所のガントリークレーン

写真1 川崎造船所のガントリークレーン

 しかし、ガントリー・クレーンを登場させた技術革新は、自ら生み出したものを無用にするものでもあった。溶接技術の発達は大型船の建造を可能にしたが、吊り上げ能力が船の重さについていけなくなったとき、その50年に渡る役目を終えたのである。
 ガントリー・クレーンの解体が終盤にさしかかっていた同年8月、その現場のちょうど向かい側、中突堤の突端近くでなにやら新しい工事が始まっていた。やがて現れた3層ほどの円形の建家。その中央には一基のエレクターが載っていた。深夜になると続々とトラックが到着し、巨大な鋼管製の部品を下ろしていく。朝になると、それをエレクターが次々に吊り上げていく。やがて、長細い円柱形の中筒が伸びるの追いかけるように、周囲の外筒が建ち上がっていった[写真2]。

写真2 建設中の神戸ポートタワー

写真2 建設中の神戸ポートタワー

 建方が始まって3カ月、姿を現したのは防錆処理のサビ色を全身にまとった高さ103メートルのタワーだった。しかしその姿は、これまでに誰も見たこともないものであった。優美な双曲線を描くシルエット。しかし、それを構成する部材はすべてまっすぐな鋼管である。内筒の鉄骨の淡いグレーに対し外筒の鋼管は赤一色に仕上げられ、ポートタワーは1963(昭和38)年11月に完成する。頂部には"PORT OF KOBE"の白色ネオンが灯された[写真3][図]。
 ガントリー・クレーンからポート・タワーへ。1962年という年は、神戸港のシンボル交替の年であった。それはまた民間交易の国際港へ向けて、ミナト神戸の変化を象徴するものでもあった。

写真3 完成した神戸ポートタワー(『神戸ポートタワー』神戸港振興協会,1964年,朝日新聞撮影) 図 立面図

写真3 完成した神戸ポートタワー(『神戸ポートタワー』神戸港振興協会,1964年,朝日新聞撮影) 図 立面図

タワー・ブームのなかで

 ポートタワーの建設話が持ち上がったのは1961(昭和36)年の春頃、時の神戸市長・原口忠次郎の発意による。市長が会長を務める神戸港振興協会は全会一致でこれを承認、翌62年5月には市議会を通過する。神戸港にタワーを、原口にとってそれは単なる思いつきなどではなかった。
 佐賀県出身の内務省土木技師・原口忠次郎と神戸との関わりは、1939(昭和14)年にさかのぼる。1938年に起きた阪神大水害の復旧に際して神戸土木出張所所長として活躍したのが原口だった。この経験を買われ戦災復興計画に参画、戦後の1949(昭和24)年、第12代神戸市長に当選すると、港湾整備や宅地造成など専門知識を活かした土木系事業を推進する。ポートアイランド造成(1981年第1期完成)や明石海峡大橋(1998年)も、そもそもは原口のアイデアに端を発するものだ。神戸港に国際港湾博物館を設けて市民に交易の重要性を啓発し、その実際をタワーから見学させることで認識を深めさせ、ひいては貿易振興に寄与する。タワー計画はこうした港湾整備の一環として、市長就任以来十数年にわたりあたためてきた構想であった。1959(昭和34)年7月、外遊中にオランダのロッテルダム港を視察した原口は、完成間もないユーロマスト(1960年)を見学し、これに勝るタワーを神戸にもと、構想の具体化に動き出したのだった。
 折しも日本は高度経済成長の真っ最中。そんな中、テレビ放送が始まる。1953(昭和28)年2月のNHK、8月の日本テレビ放送網をかわきりに、59年までに日本テレビ、東京放送、フジテレビ、朝日放送(テレビ朝日)の民放4局体制が確立し、続いてなされた地方局への免許大量交付によって全国化が進んだ。テレビ放送で用いられる極超短波を広範囲に飛ばすには、なるべく高いところから送信するのが有利である。そうなると必要になるのが電波塔だ。当初、有力局は自前で電波塔建設を進めようとした。しかしそれでは、各家庭は局ごとに異なる方向から飛んでくる電波に向けてそれぞれ別のアンテナを立てなくてはならなくなる。そんなことを強いるようでは業界の発展はおぼつかない。というわけで放送アンテナや中継アンテナをひとまとめに設置できる集約型の電波塔が計画された。まだ高層建築がない時代、それではついでに展望台でも付けておきましょうかと、その第1号として名古屋テレビ塔(1954年)ができた。
 名古屋に始まり、東京タワー(1958年)をハイライトとして京都タワーに至るこの10年は、日本における第1次タワー・ブームだったといえる[表]。

表 1950年代1960年代に日本で建設された鉄塔

しかし、それぞれの姿を思い浮かべるなら、前半と後半で明らかに傾向が異なることに気づくだろう。名古屋、札幌、東京の三つの電波塔と通天閣(これは純然たる観光塔)はすべてエッフェル塔風の展望台付き四角構桁式自立鉄塔で、同じ設計者すなわち日本における耐震構造学の権威・内藤多仲によるものである。対して、横浜、神戸、京都の各タワーは明らかにそれとは異なるスタイルを打ち出そうとしている。ブームもこの時期になると独自性への志向が出てきたのか。しかし、なによりそれを可能にした大きな要因は、これらがいずれも電波塔ではなかったことだろう(横浜は灯台を兼ねる)。電波を飛ばす必要がないなら、展望台より上を伸ばさなくてもよい。観光タワーとしては、むしろ展望台をなるべく上にもってくることの方が肝要なのである。結果として後半の三つは、それぞれに異なる構造形式を備えることになった。
 神戸のタワー計画の出発点における要求は、「神戸市民のシンボルとなり、しかも他都市のタワーに負けないもので、できれば世界的な価値があり、しかも美しい神戸の街にマッチしたもの」というまことに欲張りなものであった(土肥三郎「ポートタワー建設の構想について」『神戸ポートタワー』神戸港振興協会、1964年)。要するにミニ東京タワーはもういらない、日本でただひとつの、いや世界にひとつのタワーにしなくてはならない、ということだ。
 急遽、東京・横浜・名古屋・大阪の関連資料が集められた。もちろんブームの中で先行する各地のタワーに関するものである。とりわけ意識されたのは、宿命のライバル横浜であっただろう。横浜では前年の1961年1月、開港100周年記念として山形鋼トラス構造の十角構桁式で、ちょっと変わったかたちのマリンタワーを完成させていたからだ。しかし、関係者の目はむしろ海外に向けられた。ロッテルダムとシアトル(後の1967年に両港とも姉妹港提携)からも資料と写真が取り寄せられたという。前者は、原口にタワー建設を決意させたユーロマスト[写真4]。全高100メートル(現在は伸張されて180メートル)の鉄筋コンクリート製シリンダー構造、頂部に大型の展望台を備える。後者はシアトル万博のために建設中であった全高184メートルのスペース・ニードル[写真5]にちがいない。鋼製の細い合成柱によって持ち上げられた円形の展望台。この万博のテーマ「宇宙時代の人類」をお気楽に反映して、エレベータで空中の展望台に登ると、そこはごていねいにも宇宙ステーションならぬ回転レストランという趣向であった。

写真4 ユーロマスト, 写真5 スペースニードル

写真4 ユーロマスト, 写真5 スペースニードル

 神戸で要求されているのは観光塔である。大切なことは、機能以上に象徴性であった。タワー・ブームの中で各地に出現することになった電波塔では、単なる高さ競争に巻き込まれるだけだ。そうではないところで人々をアッと言わせるようなものはできないか。計画の関係者に課せられたのは、この要求だったのである。

新しいかたちを求めて

 タワーの建設計画は、原口が会長を務める神戸港振興協会から日建設計に依頼された。神戸市と日建との関係は、市庁舎などの設計を通じてすでに実績もあった。まず問題になるのは構造である。従来型の電波塔であれば、日建はまさに、内藤多仲と組んで名古屋タワーそして東京タワーを設計した輝かしい実績をもっていた。しかし今目指されているのは、それらとはまったく異なるタワーなのである。
 日建の構造部門の中心であった多田英之は、その可能性を構造力学的に追求するために母校東大の教授で溶接工学の第一人者・仲威雄に相談し、ふたりを統括役として、鋼構造に加藤勉(東大)、風圧に亀井勇(東北大)、耐震に中川恭次(建設省建築研究所)という研究態勢が整えられた。仲、加藤は東大建築学科の溶接工学講座にあって戦後の建築界に大きな指導力と影響力をもった研究者。多田は日建退社後、福岡大学教授を経て現在日本免震研究センター代表を務める免震構造の大家。全員がそれぞれの研究で建築学会論文賞受賞者でもある。しかし、当時は皆まだ若かった。戦前に研究経歴をスタートさせていた50代の仲を除けば、あとは皆30代の若い構造家たちだったのである。
 敷地に選ばれたのは、メリケン波止場に400メートルほど突き出した中突堤である。岸壁の東側は荷揚げ用の船溜まり、西側は別府航路などの旅客ターミナル。つまり神戸港の中では唯一、一般人が港の半ばまで来ることのできる場所なのである。近くの繁華街元町通りから直接アプローチできるとなれば、港を見渡す観光塔を建てるのにまず候補となるのは納得できる。しかし、ここは神戸港の諸施設の中でも古い方で幾度となく増築されており、地盤の性状は定かではなかった。それになんといっても幅はたかだか50メートル、しかも両側は海。高塔を建てるには地盤強度の面でも施工計画の上でも決してよい条件とは言えないのである。
 とかく高さに関心が向きがちなのがタワー計画というものだが、そんなわけでポートタワーの設計チームには高さで競う気が最初からなかった。計画部門の一員で神戸市庁舎の設計も手掛けた岡橋作太郎の論理はこうだ。東京タワーがいくら世界第二の高さ(当時はモスクワのオスタンキノ・タワーに次ぐ)を誇るといっても、それは所詮てっぺんまでの高さ。人が登ることのできる展望台はせいぜい120メートルではないか(実際は145メートル。特別展望台は250メートルだが当時はここに上がることはできなかった。1968年にできた霞ヶ関ビルの展望階に抜かれたので名誉挽回のためオープンすることになったと言われている)。したがって、ポートタワーはそれくらいでよい。諸条件からすれば100メートルが無理のないところだろう(避雷針先端までで103メートル。屋上を展望台と位置づけたのは、公称値を少しでも稼ごうとしたのか。実際は開放されていないが、ここまでだと94.35メートル)。それより「ユニークな形態を獲得することが何よりも重要」なのだ(岡橋「計画」前掲書)。
 ガラスの塔、コンクリートの塔……、形態に関してさまざまなアイデアが出されたという。しかし、構造、工費、インパクトを兼ね備える案はなかなか出なかった。そんななかで、実施案の原型となったのが広瀬二郎の着想だった。迫力と優美さを兼ね備え、展望室を頂部に置くことにも形態上の無理がない。チーム一同、「決定打」の感触を得たという。
 このかたち、一葉双曲面という。要するに双曲線の回転体だが、それは直線から生成させることができる。ポートタワーの場合、円形の上底と下底をそれぞれ16等分して対応点を直線で結び、下底を固定したまま上底を135度回転させると外筒の基本形になる。幾何学形態としては古くから知られており、たとえばバウハウスの1期生で卒業後に彫塑工房のマイスターとなったヨースト・シュミットは、この原理から1928年に「光の彫刻の実験―球体と双曲線」という作品を制作している[写真6]。ただそれは、バウハウスの予備課程で生み出された多様な折版構造のアイデアと同じく、机上のペーパー・モデルにとどまっていたのである。

写真6 ヨースト・シュミット「光の彫刻の実験―球体と双曲線」1928年

写真6 ヨースト・シュミット「光の彫刻の実験―球体と双曲線」1928年

 斬新なイメージも条件が整わなくては現実のものとはなり得ない。近代建築史においてもアヴァンギャルドの悲哀の多くはここにあったし、それがまたアヴァンギャルドたる所以でもあった。しかし、斬新なイメージは条件が満たされ準備万端整ったところでしか実現しないのだろうか。そういうものではないだろう。真に新しいものはいつも、いまだ残されている問題を克服しようとするその地熱の高まりの中から登場するものだ。ポートタワーの場合もそうだった。かたちは決まった。頭の中ではいけそうである。しかし、どうすれば……。そこから初めて問題を洗い出す作業が始まるのである。
 円形断面の鋼管でつくられる円形平面の高塔。そんなものは過去に類例がないのである。そこでまず25分の1、高さ約4メートルの模型が二つつくられた。ひとつは東北大の風洞で風圧試験、もうひとつは建研で振動実験、そのあと東大での応力解析に供され、設計データが収集された。この模型は川崎重工鉄鋼部で製作された精巧なものだったが、模型は模型、外筒を構成する鋼管は1本の直材であった。しかし1本で100メートルを超す鋼管など不可能である。実際の一葉双曲面は、工場で製作され仮組立された単位ブロックを現場で組み上げるかたちで生み出されている。こうした単位ブロックの分割と、それらの組み立てで重要になる接合部の設計においても、タワー全体のかたちをいかに美しく見せるかは最優先事項だった。模型がいくら美しくとも、原寸の接合部がスッキリせず、しかもそれがいたるところに現れるとなると、全体の美しさは台無しだからである。
 一葉双曲面の純粋な形態を現すためには、主目的であるはずの展望台も外筒の内側に納めてしまった。観光塔としては大胆な判断と言えるだろう。しかし、最後の最後まで問題は降りかかってきた。塗装色である。当初は銀一色で各方面の了解をとり計画が進んでいた。しかし、高塔は航空法上オレンジ色と白の塗り分けが国際ルールである。だからといって横縞ダンダラ模様にされてしまっては、細部にまでこだわった立面の美しさは台無しだ。関係諸機関との折衝により、これはなんとか内筒を白一色、外筒を赤一色とすることで話がまとまった。こうして神戸ポートタワーがその全貌を現した。六甲の山並みを背景に海面に姿を映すその様を、統括役・仲威雄は「鉄塔の美女」と言い表した。

都市の象徴として

 近代タワーの歴史の原点にあるのは、言うまでもなくエッフェル塔である。過去との連続性を断ち切るように突然パリ市中に現れたこの鉄の構築物に対する市民の違和感は、案外長く続いた。10年後の1900年、再びパリで開催された万博に際しては、美観のためにエッフェル塔を改装することが盛んに議論されている。しかし、そうしたことも自らの歴史としながら、エッフェル塔は工業技術の記念碑としてのみならず、パリの象徴として唯一無二の存在となった。この意義は、後に塔の高さの記録がどれほど塗り替えられようとも、ぜったいに奪えない。
 パリとエッフェル塔の強い関係性のためか、外国のタワーにはエッフェル塔風というのは見あたらない。四角構桁式が構造学的に合理的とはいえ、総重量も敷地面積も大きくなるこの形式がその後の高塔に用いられることはほとんどなかった。しかし、日本では事情が少々異なっていた。もともと強い西洋憧憬に加えて、各地に富士や銀座をつくる心性は、1912年の初代通天閣でエトワールの凱旋門にエッフェル塔を載せてみせた。それは娯楽施設ならではのご愛敬だったかもしれない。しかし戦後になってもまだエッフェル塔というのはいかがなものか、というのができたばかりの東京タワーに対する識者の批判であった。
 その東京タワーの蝋人形館に並ぶ数少ない日本人のひとり、テレビ時代の到来を見越して東京タワーを構想した時の産経新聞社社長・前田久吉は、どうせつくるならエッフェル塔を凌ぐものをと、アンテナ部分で高さを稼いだ。利潤追求を旨とする企業活動であるからには、少しでも高く少しでも安くは当然の判断だろう。おのずと従来からある四角構桁式の採用となり、そこに体よくエッフェル塔が引き合いに出された感は否めない。
 仲威雄が厳しく指摘するのはこの経済効率優先から生まれる安易な選択だった。「当時、わが国では、テレビ塔を含めて各種の可成り高い鉄塔が諸所に建てられていたが、いずれも山形鋼などをトラス状に組み合わせた上は細く下は脚を踏ん張った、いわゆる自立鉄塔の形式で、デザイン上からは千偏一律といったものである。もちろん、高さが高く、重量が大きくなればなるほど、構造計画上の問題で解決を要する新しい事項が増えてはくるが、何といっても、パリのエッフェル塔で証明済みがあるから、甚だしい疑問点も残らないし同時に1900年初頭とは違った近代感覚を盛る形態も生じない」(仲「序 神戸ポートタワーの設計計画について」前掲書)。
 仲や、さらに若い多田や加藤ら戦後派の構造家にとって、構造学とは実用と象徴を建築として止揚する力を備えるものだったにちがいない。構造に表現意欲を注ぎ込むことは可能なのだ。神戸にふさわしい都市の象徴が求められたポートタワー建設計画は、その可能性を試す千載一遇のチャンスだった。その成果もまた、日本における高塔デザインの画期をなしている。

 

参考文献:神戸港振興協会(編)『神戸ポートタワー』神戸港振興協会、1964年

 

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