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日本における建築のモダニズム

加古川市立川西小学校円形校舎の建築的内容と象徴性

所収:『日本建築学会近畿支部研究報告集 計画系』第59号(2019年6月) pp.913-916
発行日:2019年6月


加古川市立川西小学校円形校舎の建築的内容と象徴性
正会員 梅宮弘光

キーワード:円形校舎 坂本鹿名夫 戦後建築 学校建築 市町村合併

はじめに

 本稿は,加古川市立川西小学校(兵庫県加古川市米田町)にかつて存在した円形校舎【写真1】について,その建築的内容と建設経緯を明らかにしたうえで,それが構想過程でもつことになった象徴性について若干の考察を加えるものである。
 この円形校舎は,坂本鹿名夫(1911-87年)の基本設計に基づいて「加古川市役所建築係」が実施設計したもので,1958(昭和33)年6月に竣工,2007(平成19)年に建て替えのため取り壊された。
 一般に,円形校舎は,1950年代から60年代前半期にかけて建設されたことが知られている。筆者の現時点での把握では約120例にのぼり,分布も全国的である。その割合は,当時の学校建築全体に比すればごくわずかとはいえ,一定期間中に全国的にまとまった数が建てられたことは,一種の流行現象といえよう。
 この流行現象化については,これまでいくつかの要因が指摘されてきた。代表的なものは,ベビーブームによる児童数急増で生じた不正常授業解消のための教室面積確保という喫緊課題に,円形校舎がよく応えるものだったというものである。これは建築生産の論理であって,当時の時代状況において一定の合理性があったことは想像に難くない。しかし同時に,この論理が円形校舎を唯一解として規定するものでもない。解決策として他の可能性も十分考えられるし,じじつ同時代に多くの矩形校舎が建設されている。
 したがって,円形校舎の流行現象化を検討する際には,円形でなくてはならなかった要因,それがより好ましいと判断された要因を探る必要があろう。そこで筆者は,その建築形態が,戦災復興期から高度成長期にかけての日本において有したであろう象徴性に着目したい。こうした問題認識において,本稿でとりあげる川西小学校は,その建設経緯において興味深い時代表象を示す事例である。

1.校地

 川西小学校は戦後の町村合併を背景にした新設校なので,新たに校地を求める必要があった。選ばれたのは,山陽本線が加古川を渡る南西角,すなわち川の西側の一隅である。当地は日本毛織印南工場に隣接するも,当時一帯は農地であった。【写真2】
 設置当初の校地は南北に長い逆台形の形状で,下底が約45メートル,上底が約100メートル,脚がそれぞれ約130メートル,約100メートル。この狭い方の下底に寄せて直径28メートルの円形校舎1棟を配置し,その北側が運動場とされた。
 校地に至る道路が未整備であるため,このときに市道(米田井ノ口線)が新たに敷設された。
 なお,川西小学校は現在も同地に存するが,現在の校地はその後順次東側に拡張された結果である。

2.円形校舎の採択経緯

 校舎建設計画において,そもそも円形校舎案が浮上することになった端緒の事情は,その流行現象化を検討する際にもっとも興味深い点である。しかし一方,管見の限り,他の円形校舎事例を含めて,こうした事情を知らせる決定的な資料は見出せていない。むしろ噂が噂を呼び,先行する実例が評判をとって実施に結びつく,その循環が流行現象化たる所以であろう。この点については,後述するとして,本節では市会記録に円形校舎が登場して以降の経緯を記す。
 『加古川市議会史 記述編』1)によると,1957年4月5日開催の加古川市文教構成委員会において,新設小学校を円形校舎とすることが話題になった。このとき,円形校舎の利点として,狭隘な敷地に適すること,廊下が不要になることによる建設費節減が委員から説明されたという。しかし十分な理解が得られず,2班に分かれて近隣地方に建設されている円形校舎を視察することが決定された。このときの視察先は次であった。西宮市立今津中学校(坂本鹿名夫設計,1955年11月竣工),摩耶小学校(同設計,1956年1月竣工,現神戸市立美野丘小学校),温泉町小学校(同設計,1957年5月竣工,現新温泉町立温泉小学校),鵯越小学校(同設計,1958年4月竣工,神戸市立東山小学校,のち統廃合により現夢野の丘小学校) 2)。
 なおこの視察団には,浅見市長と市会議員も含まれていたらしく,第5回市会議事録の予算と起債や補助金との関係をめぐる発言に次のようにある。「(十番岩崎勇市議)市長さんも現在の時代で幾らほど要るかということを,私どもと共に視察もし,よく御存知のことと思います」「(市長)先般も数カ所円型校舎を見て参り,また事実当った技術屋にも当り,私も大体の知識を得ています」3) 。
 川西小学校に限らず,他の事例でも先行する円形校舎の視察が行われていることが多い。本校の場合,西宮市,神戸市といった比較的近いところに竣工間もない事例が存在した。また『加古川市史』に言及はないものの,兵庫県宍粟郡(現宍粟市)には波賀町立引原小学校の円形校舎(高橋事務所設計,1958年2月竣工)もあった。同校の新築移転は引原ダム建設にともなう兵庫県による補償だったが,川西小学校新設には県の関与が小さくなかったから,その関係者にも円形校舎に関する認識があった可能性がある。いずれにしても,兵庫県下,阪神間のこうした円形校舎事例は,関係者の共通認識形成に多少なりとも資することになったと考えられる。

3.設計者

 設計者は,以下の資料記載状況より坂本鹿名夫としてよかろう。1)『坂本鹿名夫作品集 円形建築』 4)ならびに「経歴書 坂本鹿名夫建築研究所」 5)には,昭和32年の項に当校があがっている。2)加古川市建築部営繕・住宅課所蔵の図面(青図)に「建築綜合計画研究所取締役所長坂本鹿名夫」とあり「坂本」の押印がある。なお別図面には「設計 加古川市役所建築係」の印があるものもあり,坂本の基本設計に基づき同係が実施設計を行ったと推測される。3)第6回(定例)加古川市議会(1957年9月28日開催)議事録6)中に浅見久夫市長答弁のなかに「円型校舎の設計者である,発明者と言いますか,坂本氏にも聞いて」のくだりがある。
 なお興味深いのは,第5回(臨時)加古川市議会(1957年8月8日開催)議事録中にある次の浅見市長答弁である。「私建築の内容については,もちろん全然素人で分りませんが,この円型校舎には特許権者があり,設計を依頼することになっているわけで,そういう点は十番議員さんがよく御承知かと思います」。実用新案「円形校舎」(番号:昭30-16744)は,坂本鹿名夫を出願人として1954(昭和29)年6月9日付けで出願され1955年11月16日付けで公告されたものである。当時,この実用新案が特許と混同され,建築界でも小さな論争になったことがあった7)。前述の浅見市長発言は,坂本が円形校舎を実用新案としたことが,円形校舎の採用を検討する事業主体への波及とみることができよう。

4.建築的内容

 加古川市建築部営繕・住宅課所蔵の図面によると,本円形校舎は,鉄筋コンクリート造地上4階建てで,最上階を鉄骨トラス梁によるドーム屋根を架けた講堂兼体育館とする。【写真3】【写真4】【写真5】
 平面形式は,1~3階が直径28メートルの円形で,中央の螺旋階段の周囲をホールとし,その外周に扇形の教室と諸室を配し,さらに外側に幅1メートルのバルコニーを巡らせる。4階講堂兼体育館へは,外周に沿わせた二方向の階段が通じる。各回バルコニーには鉄骨製非常階段で結ばれている。竣工当時の各階主要室は次のとおりである。
 1階:普通教室(3室),教員室,校長室,応接室,保健室,放送室,給食室,宿直室。
 2階:普通教室(6室),理科室。
 3階:普通教室(5室),工作室,音楽室。
 4階:講堂(ステージ付き)兼体育館(6人制バレーボールコート1面)。
 スラブ外周部は柱よりも1.6メートル張り出されており,その中間位置で立面全面を木製建具のガラス戸が覆っている。3階と4階を結ぶ階段部の外壁のみ,スティールサッシュのガラス・カーテンウォールとなっている。
 坂本鹿名夫設計による円形校舎には,最上階をペントハウスとするものと講堂兼体育館とするものの2類型があるが,本校の以上の特徴は後者の典型を示すものである。
 1957年5月20日開催の議員懇談会において示された「新設事業計画書」なるものには,4階建て円形校舎(最上階講堂)と,3階建て円形校舎に矩形講堂を廊下で接続する2案が示されていた8)。

5.学校新設の背景(1)―町村合併問題の紛糾

 川西小学校新設の契機は,1956年9月に成立した印南郡米田町の分町合併,すなわち米田町を二つに分離して,南部の大部分を高砂市に,北部の平津(ひらつ)地区と船頭(せんどう)地区を加古川市にそれぞれ編入するという事態であった。
 一般に,1949(昭和24)年のシャウプ勧告による税制改革論議によって町村合併が促進されたとされる。加印地区(加古川の河口左岸と右岸地域の総称)においても,東部の農村地域への拡張を目指す旧加古川町を中心とした動きと,海浜工業都市構想を掲げて合併を画策する旧高砂町を中心とした動きの二つがあった9) 。前者が加古川市発足(1950年),後者が高砂市発足(1954年)へとつながる。
 加古川河口右岸にあって,この二つの動きの境界に位置した米田町は,両派から働きかけを受けて町内世論が分裂した。一方町議会はそれを静観するに終始したため,事態は余計に紛糾した。『加古川市議会史』はこのさまを,「キャスティング・ボードを握る立場に期せずして立た」され「板ばさみ」になったと論じている10) 。
 前述したように分町合併が成立する。このとき,旧米田町立米田小学校は高砂市域に入ったため帰属も同市となった。そこで兵庫県合併審議会は,「裁定書付帯事項」に米田小学校を両市の組合立として継続することを定めた。これにもとづいた加古川市の意向は,したがって新たな単独校舎の建設はしないというものであった11) 。一方の高砂市の立場は,付帯事項に法的根拠はなく,平津・船頭両地区の児童に対しては,翌1957(昭和32)年3月末までは「委託教育」とするが,それ以降は通学させないというものだった。ここにきて,合併問題は教育問題へと転化したことになる。

6.学校新設の背景(2)―財政再建下の建設計画

 1町4村の合併によって成立した加古川市は,合併地域からの債務引継ぎと事業要求山積により赤字額が増大し,財政が逼迫していた。そこで,財政の根本的立て直しを期して自主財政再建計画を立てることとし,1957(昭和32)年をその初年度として,新規事業を一切織り込まない予算編成を行った12)。昭和30年代から40年代初頭の時期は「加古川市財政苦闘の時期」とされる13) 。
 新しい小学校建設の必要に迫られ,それを決断したのは,このような時期だった。前述したように,加古川市が米田小学校の組合立化に執着し,独自校舎建設になかなか踏み切ろうとしなかった背景には,こうした財政状況があった。
 加古川市が新小学校の組合立継続案を断念し,独自校舎建設に舵を切ったのは,1957年2月初旬の文部厚生常任委員の合併委員との協議会においてであり,翌3月半ばの議員総会では新築方針を決定され,建設起債の申請にこぎ着けた14) 。
 こうしたなかで,「教育第一主義」15)を掲げる第一代市長・浅見久夫をはじめ,教育行政を司る立場にとって,経済設計を旨とする坂本鹿名夫の設計思想と円形校舎の提唱が大いに 惹きつけるものであったことは,想像に難くない。
おわりに―川西小学校円形校舎の象徴性
 円形校舎の川西小学校誕生の背景には,加古川市の町村合併と逼迫した財政状況があった。分町合併により,従来は一体であったコミュニティに対立や不信が生じることになった。財政は厳しくとも義務教育に停滞は許されないから,校舎の建設は喫緊であった。こうした苦しみのなかから生み出される学校のイメージには,それを克復して未来に歩み出す強く明るい気分が託されたのではなかったか。あるいは,組合立化を拒み続けられ,今や高砂市立となっている米田小学校に対する捲土重来の意気も重なったかもしれない。浅見市長の次の答弁では,円形校舎に託されたそうした象徴性が如実に語られている。「ここに提案する川西小学校の建築様式については,実情狭隘な土地の関係等もありますが,円型校舎として当地方初めての試みであるこの校舎が,苦難を経て建立されんとするこの校舎が将来当地方大同団結のシンボルとして,あるいは平和の殿堂として聳え,永遠に尊い記念校舎たらんことを,心から諸賢ともどもお祈りしたい次第であります。最後に今日に至るまでの間,地元米田町民各位におかれては,大切な御子弟の義務教育に対し,長期間にわたり昼夜多大の御心痛を煩したことを,深くおわび申します」16) 。1960(昭和35)年に制定された校歌には「まるい校舎の銀の屋根/青雲にじをふきあげる」と歌われている。


謝辞:
本稿作成に関わる調査においては次の方々,機関にお世話になりました。記して謝意を表します。又賀静香氏(加古川市教育委員会教育指導部中央図書館),加古川市役所建設部営繕・住宅課,加古川市教育委員会教育総務課,加古川市議会事務局,松嶋晢奘氏。

注:

1)加古川市議会史編さん委員会(編),加古川市議会,1988年,p.491。
2)神戸市立学校の円形校舎については,拙稿「校地取得事情から検討した円形校舎の採用理由―1950年代の神戸市立学校円形校舎4棟を事例として」『平成24年度日本建築学会近畿支部研究発表会』参照。
3)「第5回(臨時)加古川市議会会議録」,加古川市議会事務局蔵,ページ表記なし。
4)建築綜合研究所(編),日本学術出版社,1959年。
5)1980年頃に作成されたものと思われる。松嶋晢奘氏提供。
6)加古川市議会事務局蔵,ページ表記なし。
7)実用新案「円形校舎」をめぐる状況については,拙稿「坂本鹿名夫の実用新案〈円形校舎〉について」『日本建築学会大会学術講演梗概集(中国)2017年8月』参照。 
8)注1)前掲書,p.492。
9)高砂市史編さん専門委員会(編)『高砂市史 第三巻 通史編近現代』高砂市,2014年,pp.652-653。
10)注1)前掲書,p.102。
11)注1)前掲書,pp.487-488。
12)注1)前掲書,p.988。
13)注1)前掲書,p.971。
14)注1)前掲書,pp.490-491。
15)注1)前掲書,p.973。
16)注3)に同じ。