著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

旧神戸市立生糸検査所および旧国立神戸生糸検査所について

「旧神戸市立生糸検査所および旧国立神戸生糸検査所(現独立行政法人農林水産消費安全技術センター神戸センター) 保存要望書」に付す見解書(案)として執筆
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要望書(神戸市長矢田立郎殿宛,2009年1月29日付)
「旧神戸市立生糸検査所および旧国立神戸生糸検査所(現独立行政法人農林水産消費安全技術センター神戸センター)保存要望書」
社団法人日本建築学会近畿支部 支部長 渡邊史夫
「旧神戸市立生糸検査所および旧国立神戸生糸検査所(現独立行政法人農林水産
消費安全技術センター神戸センター)についての見解」
社団法人日本建築学会近畿支部 近代建築部会 主査 橋寺知子

https://www.aij.or.jp/scripts/request/document/20090217.pdf

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旧神戸市立生糸検査所・旧国立神戸生糸検査所の建物について


 兵庫県神戸市中央区小野浜町1-4に建つ農林水産消費安全技術セター神戸センターの庁舎は、1927(昭和2)年に建設された旧神戸市立生糸検査所と、1932(昭和7)に建設された同検査所新館の建物が用いられている。これら新旧2棟の生糸試験所は、いずれも千前期日本の近代建築として、建築史上高い価値を有する。さらに、これらの建物は近代神戸の発展を象徴し、都市としてのアイデンティティを高める文化資産としても意義深いものである。
 以下、ますこれらの建物の文化的意義との関連が深い施設建設の歴史的背景を概観し、その上で、それぞれの建物の特徴を示し、文化的価値について評価を示すこととする。

1.神戸市立生糸検査所の歴史的背景

(1-1)神戸における生糸検査所の設置

 明治政府は生糸を最重要輸出産物と位置づけ、品質向上を目指した。1896(明治29)年には、農商務省のもとに横浜と神戸に生糸検査所が置かれ、生糸の正量・品質検査が行われるようになった。品質向上により日本の生糸輸出量は、1905(明治38)年にはイタリアを、1909(明治41)年には中国のそれを上回り、世界最大の輸出国としての地位を確立した。
 生糸の輸出は、当初その大部分は横浜港経由で、関西生糸市場の不振から、農商務省神戸生糸検査所は1901(明治34)年に閉鎖されることになった。しかし、大正期に入ると関西生糸市場が隆盛となり、さらに1923(大正12)年の関東大震災により横浜港の機能が麻痺状態となると、神戸における生糸取引および輸出業務に対する期待が高まった。全国の製糸業者は神戸で大会を開催し、生糸検査所の設置を神戸市に要請した。第6代市長・石橋為之助はその必要性を認め、市議会に提案したところ全会一致で可決され、ここに神戸市立生糸試験所が誕生することとなった。

(1-2)生糸検査所の庁舎建設と拡張

 神戸市立生糸検査所の初代庁舎は、メリケン波止場の神戸税関監視部跡を借り受けて建設された木造平屋建てであった。しかし、検査数は漸次増加し、大正末期にはすで手狭となったため元町4丁目の元株式取引所跡を借り受けて移転し、1924(大正13)年12月に煉瓦造3階建て、ルネサンス様式の新庁舎が完成した。
 政府は1926(大正15)年3月、生糸の正量取引実施を目的として、輸出生糸検査法が公布され、翌27(昭和2)年、主務大臣が指定する検査地として神戸市と横浜市が指定された。正量とは国が定めた一定の水分率(公定水分率)を含んだ重量のことである。
 輸出生糸のすべてが正量検査によることが義務付けられたことにより、この検査体制に対応した施設拡充が課題となった。第7代市長・黒瀬弘志は、神戸市繁栄のためには生糸輸出の振興をはかる必要があると考え検査所の拡張を決断、神戸税関構内の敷地を借り入れ、現在の地に庁舎(現在の旧館)が新築されることとなった。
 いっそうの生糸市場発展と生糸貿易振興のため、神戸市は市立生糸検査所の国への移管を求めた。一方政府においても神戸・横浜両検査所を国立検査所として検査の統一適正を図る必要を認めていた。その結果1931(昭和6)年4月1日付けをもって、神戸・横浜の両検査所は国に移管されることとなり、国立神戸生糸検査所が誕生した。このとき職員も大幅に増強され全700名となり、うち400名が女性であった。
 1932(昭和7)年には、生糸の品位格付け検査が強制実施されることとなったため、検査機器整備と庁舎増築の必要が生じた。しかし、国の緊縮財政政策により神戸・横浜両検査所の拡張費は望めなかった。そこで政府は、両市がそれぞれ工事費を調達して拡張工事を行い、国がその設備を借り受け、その借料として国から両市に償還することとした。そこで神戸市は1931(昭和6)年5月に増築工事に着手、当時最新の工法により完成を急ぎ、翌32年5月に増築庁舎(現在の新館)が完成した。

2.建物の特徴

(2-1)旧神戸市立生糸検査所

 旧神戸市立生糸検査所は、1926(大正15)年8月17日起工、1927(昭和2)年6月末日に完成した。鉄筋コンクリート造地上4階建て地下1階建て。建築面積2369平方メートル、延べ床面積5917平方メートルは、神戸港における生糸の輸出量と将来の増加を考慮して決定された。設計は神戸市営繕課、施工は竹中組、建設費は当時の額で76万円と伝えられる。敷地は神戸税関と対面する場所で、おりしも税関は同年に完成したばかりであったから、木造平屋の港湾倉庫が立ち並ぶ中に新築庁舎が対峙するという、新港地区にふさわしい壮観を呈することとなった。
 内部は、乾燥、重量測定、肉眼検査等などの専門業務に特化した室に加えて、関連事務室からなる。
 意匠上の特徴を端的に述べるならば、オフィスビルとしての機能性を保持しながら、外観が単調に流れることのないよう、ファサード(主要立面)をゴシック調にまとめ上げたものといえる。すなわち、ファサードの9つの柱間をすべて連続する腰高の窓とし、その窓面を壁面から後退させずにほぼ同一とすることで採光を確保している。この壁面に太さの異なる2種のマリオン(細い方立て)をリズミカルに付加することでゴシック調の雰囲気をまとわせ、さらに中央玄関の両端で4層を貫いてさらに上方に伸びる八角形断面の柱とし、尖頭アーチやテラコッタ装飾を組み合わせるなど、装飾的要素を玄関周辺に集中させることで建物に格式を与え、全体を垂直線を強調する特徴をもつチューダー・ゴシック様式でまとめている。このテラコッタ(焼き物)装飾は、黄金の生糸を吐き出す蚕の頭部を模していると伝えられる。
 設計を担当した神戸市営繕課は、改組により1923(大正12)年4月に独立設置されている。その背景には、この時代の神戸市の急速な都市発展があった。産業や神戸港の発展にともない人口が急増、公共施設の新築や鉄筋コンクリート造による建て替えが進められたのがこの時期である。こうした建築計画を通して神戸市営繕課に蓄積されていった近代建築設計の経験が、この生糸試験所の設計にも投入されたと考えられる。

(2-2)旧国立神戸生糸検査所

 旧国立神戸生糸検査所は、1931(昭和6)年5月起工、工期短縮のため当時最先端の上下階同時施工法を採用し、翌1932年5月に竣工。地上4階地下1階建てで、旧検査所の建物にL字型に接続するように増築、延べ床面積にして約1万平方メートル拡張された。設計は置塩建築事務所(置塩章)、監理は神戸市営繕課、施工は錢高組である。
 地階には電気室、ボイラー室、生糸倉庫、食堂、浴室など、1階は庁舎南側に敷設されている神戸港貨物線の引き込み線に面して総荷取扱場、検査受付室、料糸秤量室、化学試験室など、2階には各種検査室からなる検査部門、3階には所長室、会議室、研究室等の事務部門、4階には正量部長室、正量検定証室など正量部門各室が置かれた。
 職員の半数以上が女性ということもあり、コルク貼りの上に畳を敷いた休憩室が設けられたほか、花壇や遊歩道にベンチを配した屋上庭園も設けられた。
 意匠は、ネオ・ゴシックを基調としながら、垂直性や装飾性はさらに抑えられ、外壁は暗褐色のスクラッチタイル(表面に平行な引っ掻き溝を施したタイル)貼りで、1回の開口部上部のまぐさや、建物東南隅の塔屋に付されたマリオンに白色の石材系材料用いることでアクセントとしており、一部に採用された丸窓の扱いなどともあいまって、アール・デコ的な趣も感じさせる。
 設計者の置塩章(おじお・あきら)は、神戸の近代建築を語る上で重要な建築家のひとりである。1881(明治14)年、静岡生まれ。1910(明治43)年、東京帝国大学建築学科卒業、陸軍省を経て兵庫県都市計画委員会技師、兵庫県営繕課長。このときに県会議事堂(1922年、現存しない)や警察関係の多くの公共建築の設計を手掛けている。1928(昭和3)年、神戸に置塩建築事務所を開設、神戸を拠点に全国的な設計活動を展開した。戦前期の作品に、三宮警察署(1923年、現存しない)、旧兵庫県信用組合連合会事務所(1929年、現駐神戸大韓民国総領事館) 、茨城県庁舎(1930年)、宮崎県庁舎(1931年)、旧加古川市公会堂(1935年、現加古川市立図書館) などがある。また神戸高等工業学校(現神戸大学工学部)の講師も務めた。
 戦後は兵庫県建築士会の初代会長を務めたほか兵庫県文化財審議会委員、都市計画兵庫地方審議会委員などを歴任、地元の建築文化の向上に尽力した。戦後の神戸にゆかりの作品として、日本貿易産業博覧会(神戸博覧会、1950年)におけるパビリオン「第一生産館」がある。ここでは、装飾を配したモダニズム風の意匠を採用されている。1952(昭和27)年、兵庫県文化賞、兵庫県建築功労者賞、1958(昭和33)年、藍緩褒章を受章。1968(昭和43)年、没。

3.評価

(3-1)日本における近代建築の秀作としての評価

 旧神戸市立生糸検査所と旧国立神戸生糸検査所の両庁舎は、日本における代表的近代建築として、とくに神戸の近代化を象徴する建物として、高く評価される。1980年に日本建築学会が編纂した『近代建築総覧』において、旧神戸市立生糸検査所はとくに注目すべき作品として記されている。旧国立神戸生糸検査所は、没後時間の経過とともに評価が高まりながら、その失われていく置塩章の作品として、近年注目が高まっている。
 旧神戸市立生糸検査所の新築が企図された大正末期の日本の建築界では、ゼツェシオンと呼ばれる19世紀末のドイツ、オーストリアに発する様式が流行していた。対面する神戸税関には、この要素が色濃い。また旧国立神戸生糸検査所が計画された1930年代初頭には、国際様式と呼ばれる装飾を廃した箱形の造形も主流になりつつあった。にもかかわらず、両検査所に用いられた様式はゴジック系のものである。しかし、すでに前項でみたように、その採用には、様式性の墨守というよりも、現実的な機能性への適合や、新味の付加が見られる。これらの建物にゴシック様式が採用されたのは、神戸の玄関口たる神戸港の施設としての、加えて日本の輸出額の首座を誇る生糸(1934年に綿織物に奪われるが)の高品質を保証する機関の施設としての威厳を与えようとする意図があったと考えられる。
 結果として両検査所の建物は、昭和初期の日本における歴史主義建築(西洋の過去の様式を参照する設計方法)を、現実的な建設の課題に高いレベルで適合させた建築として、高く評価できる。

(3-2)神戸市営繕課、置塩章の傑作としての評価

 両検査所の設計者については「2.建物の特徴」の項においてすでに述べた。今日、地方自治体や官庁の営繕部門が設計集団として注目されることは少ないが、近代化の初期においては優秀な設計力によって多くの建物を設計し、近代建築の傑作を残している。
 神戸市営繕課についても同様のことがいえる。大正期後半から昭和戦前期に鉄筋コンクリート造で大規模施設を設計する能力を備え、とくに小学校建築に特徴ある作品がある。旧神戸市立生糸検査所もそうした系譜に連なり、神戸市営繕の設計力を今日に伝えるものである。
 置塩章は、自ら得意としたネオ・ゴシック様式を基調としたが、建物が建設される環境に合わせて意匠を調整し、建物を街に溶け込ませることを旨とした。旧神戸市立生糸検査所が前面道路側からの一方向の視線を意識した設計であったのに対して、置塩は、その拡張である旧国立神戸生糸検査所において、そのファサードを南面から東面へと延長し、施設に面的な存在感をもたせ、東南隅に塔を配して建物の核を追加することでこの大規模施設に異なる表情を加えている。
 神戸を拠点にしながら全国規模で活躍した建築家であるにもかかわらず、近年、神戸市内の置塩作品の多くが失われていることは残念だが、一定の規模をもち、この建築家の特質をよく保っている旧国立神戸生糸検査所があることは幸いというべきであろう。
 旧神戸市立生糸検査所と旧国立神戸生糸検査所の両庁舎は、神戸市営繕課と置塩章という、神戸の建築文化にはなくてはならない存在の傑作として高く評価できる。加えて神戸の建築文化の豊かさを実作品をもって未来に伝え、神戸の都市的アイデンティティを高める貴重な文化資源でもある。

(3-3)景観上の評価

 旧神戸市立生糸検査所と旧国立神戸生糸検査所の敷地は、神戸港の新港第3突堤の付け根にあたる。この新港地区は、神戸港第2期修築工事により1927(昭和2)年に完成した。この工事完成により神戸港は近代的港湾としての骨格を整え、国の重要港に指定されることになった。
 この時代は日本の客船史上でも黄金時代であり、第一次世界大戦参戦国の船が軍事徴集されるなか、太平洋航路は日本船の独占状態となり、1930年代には日本の船腹量は英米に次ぐ世界第3位になる。
 一方同じ頃、神戸の都心部では阪神国道(現国道2号線)が1926年に開通し、阪神・阪急の三宮乗り入れが完了(33年、36年)。これに刺激された鉄道省は山陽~東海道線の電化を次々と延伸し、当時流行の流線形特急電車モハ52を投入した。駅前には1926年に三越、1927年に大丸神戸店(村野藤吾設計)、1933年にそごう神戸店(久野節設計)がそれぞれ開店している。
 版画家川西英の連作「神戸百景」(1933~36年)に描かれたのは、まさに近代化が長足の勢いで進み、神戸の都市文化が開花するこの時代の風景である。
 前述したとおり、神戸税関、旧神戸市立生糸検査所、旧国立神戸生糸検査所もこの時期に相次いで完成した。さらに周辺に目を配るならば、生糸検査所の南側の旧新港相互館(現新港貿易会館)が1934年に、さらに南の岸壁に沿って並ぶ大倉庫群―三菱倉庫、三井倉庫、川西倉庫―も、1924(大正13)年から1928(昭和3)にかけて竣工している。すなわち、これらの建築群は、先に述べたような神戸の近代化と同時期に、神戸の近代化を支えた港湾地区の景観を形成する要素だといえる。
 周知のとおり、1980年代以降の物流はコンテナ輸送が主流となり、神戸でも人口島の南岸にコンテナヤードが建設されていった。それにともない、かつての港湾付近は親水公園や物販ゾーンとなり、港の風景は大きく様変わりした。
 しかし、神戸市が行った神戸のイメージ調査によると、今日でも「港」が最も高く、次いで「異国情緒」「おしゃれなファッション」「六甲の山と緑」と続く。「ミナト・コウベ」のイメージは今日でも健在であるのに、そのイメージを支える実際の景観は今やほとんど失われている。今日、唯一残っているのがこの新港地区なのである。
 『神戸税関沿革史』(1931年)は、新築なった庁舎を「帝国の大玄関番」と表現している。大玄関であるならば、門柱が片側だけでは心もとない。もう一方の門柱がぜひとも必要である。景観の上でこのもう一方を形成しているのが、旧神戸市立生糸検査所と旧国立神戸生糸検査所からなる一街区にほかならない。税関と両検査所の建物は、景観上において一対と捉えることによって、1+1=2以上の文化的価値があるといえよう。
 神戸税関は1996年から2年にわたる再生工事によって、かつての姿を残しつつ最新施設として見事に完成した。「大玄関」のもう一方の門柱である両検査所の建物を活用することによって、新港地区のヒストリック・ディストリクト(歴史的価値の高い環境)としての潜在力を引き出し、神戸らしさを高める可能性があるという意味でも、両建築は重要なものである。

 以上により、旧神戸市立生糸検査所と旧国立神戸生糸検査所の両庁舎は、いずれも、神戸の意味深い場所に立地する近代建築の傑作として、重要な価値を有するものである。


〈参考文献〉
神戸農林規格検査所(編)『神戸生糸検査所史』神戸農林規格検査所、1982年