著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

融合する音と空間―山田耕筰の音楽堂構想「音楽の法悦境」をめぐって

所収:木村理恵子(編)『山田耕筰と美術』栃木県立美術館 pp.191-199
発行日:2020年1月

「音楽の法悦境」――山田耕筰の建築構想力

 1922(大正11)年9月、山田耕筰(1886-1965)は北原白秋(1885-1942)と共同主幹で芸術雑誌『詩と音楽』を創刊した。「音楽の法悦境」は、その第1巻第4号、同年12月号に掲載された山田の執筆記事である。この中で山田は「音楽は究極に於いて宗教にまで高められなければなら」ず、そのような音楽は人を「単なる官能的感情的陶酔以上の霊の法悦の境」に導くと説く*1。「音楽の法悦境」とは、そのような音楽享受によってもたらされる精神的境地であり、同時に、それを可能にする環境でもある。山田が日本における交響楽運動、楽劇運動の先駆者であってみれば、まともなオーケストラも音楽ホールもないところに、まずはそれを実現する環境を構想する必要があったことに不思議はない。けれども、彼の言葉によって徐々に姿を現していくその姿は、洋の東西に参照すべき類例も見あたらないと思えるほどに、まことに不思議なものなのだ。

最近に於いて私は、ふとこんなことを考へるやうになつた。といふのは、外でもない。一つの新しい音楽の殿堂を築くことである。それは謂ふ所の音楽堂でも、劇場でもない。特殊な組織のもとに建てられた礼拝堂か、祈祷場の如き聖堂である。この殿堂は人里離れた静かな森の只中に建てられなければならない。深い樹林と、そして清澄な泉の水とによつて、俗界の噪音の外に埋められ、秘め隠されてゐなければならない。此の聖堂は一つの大きな円形から成る。その半ばは地下に、半ばはかのビザンテインのドームの如く、ゆるやかにまろく、古木の樹間にもれ上つて居る。オペークな厚い壁が、此の円天井の中心へと、地下の凹形の周囲から、円錐形に上つて行く。楽人は此の半透明な円錐形の底に影をひそめて、其処から純美な音楽の精髄だけを円天井の頂へと開花せしめる。そして聴衆は、壁の外にしつらへられた、一人々々の柔かな、深い座席に身を埋め、祈るやうな気持で瞑目しながら、聖堂の底から鳴り響いて来る音楽を心の底まで泌みこませる。*2

 立地環境から内部空間、動線や音響に関する機能へと、的確に全体像を浮かび上がらせる山田の描写は見事というほかない。それは建物というよりも、まるで巨大な音響装置だ。描写はこのあと、人びとがここでどのような体験をすることになるのかに移っていく。

 此の堂に入り、此の森に踏み入るものゝ是非とも遵奉しなければならぬ信条は、絶対の孤独と沈黙とである。人々は此の森に足を踏み入れると同時に口を噤み、心を静めて俗世から離れねばならぬ。人々は此の聖堂を目指すと同時に、親は子と、兄は妹と、恋するものはその愛人と、袂を分つて、別々の路から、水をめぐる樹林の間を縫うて此の聖堂へと歩み寄る。其処で、個々人は真実の孤独な自分に帰つて、静かに、厳粛に、音を聴き、内に聴き、音と一つになつて敬虔ないのりの心を、円天井の屋根を通して見えざる神の御座へと昇らせる。そして彼等は、浄められ、高められ、美化せられた心で、又沈黙のまゝ静かに此の聖堂を出て、ひとりびとり、森の入口へと静かに歩み去る。そこでは親は子と、兄は妹と、恋するものはその愛するものと、生れ更つたやうな清浄な気持でめぐり逢ひ、澄みきつた心でお互ひの存在をことほぎあひ、聖なる愛と悦びに輝く面をそろへて、又日毎の生活にかへつて行く。*3

 それにしても山田の建築構想力には感嘆するほかない。この「聖堂」は、彼の頭のなかにすでに完成している。彼には見えている! そう思わないではいられない。
 この建築物の独自性の核心は、円形平面中央の地下にオーケストラ・ピットを沈めて聴衆から隠し、音楽だけを堂内に響かせるというコンセプトだ(今は音響の適否は問わないでおこう。日本における本格的な建築音響学の発達は第二次大戦後のことだ)。山田はそれを「花の生活」からの暗示だという。「花の美しい所以は、植物が花を咲かしむる根本の力である根の営みを地に葬つて外に見せないからではないだろうか。人間に於ける芸術は、植物に於ける花の如きものである」*4

 山田が述べる花の美しさの所以に相通じることを、「音楽の法悦境」よりも先に、『詩と音楽』創刊号に北原白秋が書いている。

 こゝに一輪の白薔薇がある。その白薔薇の神気は既にその葉にも刺にも枝にも幹にもその根にも充満してゐるのである。決してその花にだけ突然あの清高複[ママ]郁たる神気が現はれたのでは無い。その凡てから押し上げる神気と品位とが、即ちその白薔薇さながらの気韻を躍動させるのである。[中略]真の、つまり神韻なるものは、むしろこの人の目にもつかぬ奥所の美徳から紛々と高い霊魂の香気を発して来るのである。外に現はるゝはその余香である。薔薇の気品は一先づその根に於て完備し尽されてゐる故からの気品である。*5

 耕筰と白秋の出会いは1919(大正8)年、鈴木三重吉(1882-1936)主宰の児童文学誌『赤い鳥』の企画で白秋の詩に山田が曲をつけたことがきっかけという。それから『詩と音楽』創刊までのそう長くない間に、花にたとえてなされる芸術談義が二人の間であったのか。
 「からたちの花が咲いたよ 白い白い花が咲いたよ」。そうなのだ。歌曲「からたちの花」(1925年)の詩は、山田が白秋に語った少年期の思い出にもとづいている。耕筰10歳、父の死後、勤労学校を備えた活版工場「自営館」に入れられた頃のこと。この最年少の見習い工は、年長の職工からつらくあたられ足蹴にされることもあった。そんなとき彼は工場のはずれのからたちの垣根まで走っていき「人に見せたくない涙をその根方に灌いだ」。それを近所のおばさんに慰められ、うれしくもつらくもあり、また涙してしまう耕筰*6。「からたちのそばで泣いたよ みんなみんなやさしかつたよ」。
 長じて山田は振り返る。「枳殻の、白い花、青い棘、そしてあのまろい金の実、それは自営館生活に於ける私のノスタルヂアだ」*7。根から吸い上げられた涙によって花は咲く。美しいのは涙ゆえである。この涙は白秋の「神気」に通じる。そして白秋のいう「神気は既にその葉にも棘にも枝にも幹にもその根にも充満している」は、「まだ粗雑な液が植物のなかに大量に上ってくると、発芽がおこなわれ、逆にもっと洗練され、精神化された力が優位を占めると、開花にいたる」*8と説いたゲーテの「植物のメタモルフォーゼ」を連想させる。
 いずれにしても、美は「奥所の美徳」からもたらされる。少年期の経験がこうした思考を育むのか、こうした思考によって想い出が再構成されたのか、それは判然としない。おそらく両者は渾然としたものだ。「音楽の法悦境」はその渾然とした感覚から生み出されている*9

霊楽堂の草案――法悦境の建築化

 「空想ではない、それは一つの秩序だつた計画であり、事業とさへなつてゐる。私の心には既にその森もその円天井も出来てゐるのだ」*10。「音楽の法悦境」の末尾付近で山田はこのように書いて、「日本の何処かを捜ねたら、私の此の計画を理解し援助してくれる金持が必ずあるにちがひないと思ひながら、私は例になく昂奮して、白紙の上に又新しい法悦の宮の縮図を描いてゐる」*11と締めくくっている。その「縮図」というのが、たとえ話なのか実際に描かれたものかはわからない。しかしともあれ、ほどなくその設計図を描くことこそ、自分の使命だと考える者が現れることになった。
 『サンデー毎日』(1922年創刊)の1924(大正13)年9月21日号に次のような記事が掲載されている【図1】。「花の生活から教へられた純美な音楽の法悦境 山田耕作氏の描いた『霊楽堂』の夢」。記事曰く「所が最近、たゞ山田氏の頭の中に描かれてゐたばかりのこの法悦の宮が図らずも具体的な形を取つて現れることゝなつて来た-といふのは外でもない。今年工科大学を卒業した若い設計家-川喜田煉七郎氏が、山田氏のかうした計画に共鳴を感じて、まづその聖なる楽堂を、紙の上に書き現したのである」*12

図1 『サンデー毎日』1924年9月21日号掲載記事誌面

図1 『サンデー毎日』1924年9月21日号掲載記事誌面

 この匿名記事、山田に取材したとおぼしきところはあるものの、大部分は「音楽の法悦境」からの引き写しである。目新しいことは2点。ひとつは川喜田煉七郎(1902-1975)という人物、いまひとつは「霊楽堂」という名称の登場である。
 川喜田の名が世の中に現れたのは、このときがはじめてであろう。後に彼はウクライナ劇場国際設計競技での入選(1931年)やバウハウス流のデザイン教育実践(1932年)などを通じて、昭和戦前期の建築界でちょっとは知られた存在になるのだが、このときはまだ東京高等工業学校附設工業教員養成所建築科を卒業してやっと半年、いまだ何者ともいいがたい時期ではあった。
 川喜田が描いた一連の図面は《霊楽堂の草案》*13と名づけられている。「このまづしい草案を私の山田先生にささげます。一九二四年四月」という献辞が添えられている。描かれているのは平面、立面、断面など全13枚【図2】。変形の円形ホールは長径約100メートル、細かく描き込まれた座席を数えると約4600席。当時の日本の代表的な劇場、帝国劇場(1911年)の約1700席、宝塚大劇場(1924年)約4000席を考えるなら、構想の壮大さがわかる。その外観は、当時の日本の若い建築家たちに注目されていたドイツの建築家ハンス・ペルツィヒ(1869-1936)設計の《ザルツブルク祝祭劇場計画案》(1920年)【図3】に明らかに倣っている。

図2 川喜田煉七郎《霊楽堂の草案》立面図 明治学院大学図書館付属遠山一行記念日本近代音楽館蔵

図2 川喜田煉七郎《霊楽堂の草案》立面図 明治学院大学図書館付属遠山一行記念日本近代音楽館蔵

図3 ハンス・ペルツィヒ《ザルツブルク祝祭劇場計画案》1920年

図3 ハンス・ペルツィヒ《ザルツブルク祝祭劇場計画案》1920年

 山田の文章と比較するとき、いくつかの興味深い異同があるが、ここでは山田構想を特徴づけている主要な二つのコンセプトがどのように建築化されているかに注目したい。ひとつは「此の堂に入り、此の森に踏み入るものゝ是非とも遵奉しなければならぬ信条は、絶対の孤独と沈黙とである」、いまひとつは「聴衆は、壁の外にしつらへられた、一人々々の柔かな、深い座席に身を埋め、祈るやうな気持で瞑目しながら、聖堂の底から鳴り響いて来る音楽を心の底まで泌みこませる」である。
 《霊楽堂の草案》は「絶対の孤独と沈黙」を空間の即物的な分節によって達成しようとする。建物外周の回廊にぐるりと設けられた100の入り口、その先は狭い階段によっていったん地下に導かれ、長い廊下を経て再び階段に続く。それを上がりきったところが、低い壁で分割された聴衆席。一区画に40~50席ある。その中の自分の席にたどりつくと、ひとつひとつが深いフードに覆われた椅子があり、着席するとからだはすっぽりと覆われる。上も左右も視線はフードによって遮られる。【図4】この案では、「孤独」は動線を徹底的に分割することによって、「瞑目」は物理的に視線を遮ることに実現しようというのだ。これに対応するように、ホールの天井は全部が無装飾である。座席がこの形状ではホールの内部空間は視覚上は無価値ということになる。

図4 川喜田煉七郎《霊楽堂の草案》聴衆席

図4 川喜田煉七郎《霊楽堂の草案》聴衆席

 一方、「聖堂の底から鳴り響いて来る音楽」はどうか。楽座が聴衆から見えないようにホール中央に配置されるのが要点であった。この点が大きく異なる。同案では聴衆席と舞台は緩やかに傾斜する同一平面上にあり、前方の舞台は聴衆席と対面させながら、境界部分が堤防のように盛り上げて視線を遮るようにされている。【図5】こうした点はヴァーグナーが実現させたバイロイト祝祭劇場(1867年)のオーケストラピットの構造に源泉があると思わせるものの、堤防のような装置は目隠し以上にはなっていない。ホール天井の断面形状には音響反射を考慮した形跡がみられるが、山田の構想の核心である花のアナロジーをそこに見出すことはできない。

図5 川喜田煉七郎《霊楽堂の草案》断面図

図5 川喜田煉七郎《霊楽堂の草案》断面図

 いずれの点においても《霊楽堂の草案》にみられる川喜田の方法は即物的だ。山田のいう「孤独」や「瞑目」を字面通りに受け取り、それを物理的に実現しようとしている。生真面目というか馬鹿正直というか、それを烏口の極細線で細部まで手を抜かずに描いているものだから、最後には鬼気迫る一種異様な迫力を生じさせているのが、この作品の特徴ではある。しかし、この生硬さをひとり川喜田の未熟に帰すのは酷というものだろう。当時の日本の建築界では、ビルディングタイプとしての音楽ホールがまだまだ未知だったし、建築様式においても西洋歴史主義を規範とすることが一般的だった。それにもまして、山田の構想があまりにも新奇だからである。
 ところで、川喜田の図面の標題にある「霊楽堂」の出所については、いまだ不明である。山田はこの施設を「音楽堂」「劇場」というよりも「礼拝堂」「祈祷場」と説明しつつ、ついに一言で名付けることはしていない。それはそうだろう、同種の既存施設がないからだけでなく、そもそも彼が標榜する音楽が名状しがたいのだから。それに、ここではじめて「霊楽」の名が当てられたことになった。
 「霊楽堂」の名称が、山田と川喜田のどちらから提出されたのかはわからない。ともあれ、図面の表紙には「霊楽堂の草案」とあり、献辞で「私の山田先生」と呼び、その日付は川喜田卒業の翌月「一九二四年四月」である。川喜田は東京高等工業学校で「音楽部」に所属しており、一方詳細は不明ながら、山田は同校の音楽部を指導していたことがあるというから、両者の交流はすでに始まっていたと思われる。

霊楽堂――音楽に照応する建築

 山田の遺品の中に《霊楽堂の草案》とは異なるもうひと組の音楽堂構想図面がある*14。表題も作者名も見あたらないが、その一部は当時の建築雑誌に川喜田名で《或る音楽礼拝堂》あるいは《霊楽堂の設計》*15として発表されている。こちらにも「この設計を山田耕作氏ならびに日本交響楽協会にさゝぐ」との献辞がある。日本交響楽協会は山田が近衛秀麿(1898-1973)とともに1925年3月に結成、しかし1926(大正15)年9月に分裂し近衛は翌年新交響楽団(現NHK交響楽団)を結成する。したがってこの制作は1926年前後と考えてよいだろう。その図面は40枚。そのすべてが黒いコンテで描かれたフリーハンド・スケッチである。勢いのある筆致、強調されたコントラスト。ほかに平面図と断面図の二点が当時の雑誌に掲載されているが、この2点の現物は失われているようだ。本作もまた、あきらかに「音楽の法悦境」に基づいて制作されたものだ。
 「霊楽堂」はあたかも池に浮いているように配置されている。【図6】そこに異なる方向から斜路がつながっている。「音楽の法悦境」にはこうあった。「人々は此の聖堂を目指すと同時に、親は子と、兄は妹と、恋するものはその愛人と、袂を分つて、別々の路から、水をめぐる樹林の間を縫うて此の聖堂へと歩み寄る」。生まれ変わって出会うためには、まず別れる必要がある。別れること、それがこの2本の斜路で象徴的に表現されている。

図6 川喜田煉七郎《霊楽堂》模型

図6 川喜田煉七郎《霊楽堂》模型

 内部ではホールの中央地下に楽座が配置され、そのまわりを聴衆席が囲む。楽座の真上を中心に聴衆の頭上へと広がっていく何本ものリブ。楽座から上がってくる音が聴衆の頭上に広がる様子がこの天井の造形に象徴されている。【図7】聴衆席は、高い仕切によって独立性が高められているが、《霊楽堂の草案》にあった頭上を覆うフードは、ここにはもうない。【図8】むしろ、聴衆には天井の造形が見えていなくてはならないのだ。ここでは視線を遮るという物理的操作によって瞑目状態におかれるのではなく、空間造形の象徴作用によって瞑目状態に導かれるのだ。「霊楽堂」においては、建築もまた音楽とともに、聴衆を「霊の法悦の境」に導くことへの参加が目指されている。

図7 川喜田煉七郎《霊楽堂》ホール天井意匠

図7 川喜田煉七郎《霊楽堂》ホール天井意匠

図8 川喜田煉七郎《霊楽堂》聴衆席

図8 川喜田煉七郎《霊楽堂》聴衆席

 ところで、「霊楽堂」にはオーディトリアム以外に「小劇場」と名付けられたごく小さな施設が付いている。じつは、これは《草案》にも「ホール」という名ですでに現れていた。ところが、山田の文章「音楽の法悦境」には、この小劇場に触れた箇所はない。それは純粋な音楽聴取を論じたものだったから、一見したところ、小劇場はむしろその純粋性を疎外するようにさえ思われる。しかしそうではないことを、山田は「綜合芸術より融合芸術へ」*16で次のように述べている。

 今此処に説かうとする融合芸術の境地は、此の法悦境への憧憬が眼に見えぬ種子として意識の底に潜在してゐた数年前、従来の純音楽や楽劇の境地から一歩踏み出して私自身創称し、開拓し初めたものであるが、私の所謂融合芸術の世界は新しい法悦の信条によつていさゝかも傷け[ママ]らるべきものではなく、此の信条と少しも抵触することなしに両立し得るものである。*17

 山田がここで論じる「融合芸術」とは、舞踊家・石井漠(1886-1962)と共同で創出した音と運動を融合させた新ジャンル「舞踊詩」である。「舞踊詩に於いては、音を除いた運動、運動を除いた音楽共に其自身としては完全な意味を成さない」*18。同文で山田は、「(楽劇における)光線や背景も、厳密な意味に於いて音と歩調を合せることによつて、一つの重要な力を楽劇の全般に及ぼす」ことになり、台詞と音楽と舞台装置とが「密接な有機的関係」に置かれたとき、楽劇ははじめて「融合芸術」となるはずだが、しかし、ヴァーグナー、ドビュッシー、シュトラウス以後、そのような境地にまで達した作品はないという。「劇という個形物[ママ]を音楽といふ流動物に溶かしこむことのいかに難く、いかに支障多きか」と。そこで山田が目指したものが「言葉の精髄である詩が真実に音楽と融合」した「舞踊詩」であった*19

 川喜田が「音楽の法悦境」に続いてこの「綜合芸術より融合芸術へ」を読んでいただろうことは間違いない。というのも川喜田は,この舞踊詩上演のための舞台機構を検討しているからである。《霊楽堂》に続いて建築雑誌に発表したスケッチ《ある舞台への提案――古事記神代篇・古代篇の音楽的演出》*20がそれで【図9】、「霊楽堂」の図面には「小劇場」と室名だけ書かれていた部分を詳細化したものである。

図9 川喜田煉七郎《ある舞台への提案――古事記神代篇・古代篇の音楽的演出》1930年

図9 川喜田煉七郎《ある舞台への提案――古事記神代篇・古代篇の音楽的演出》1930年

 「劇という個形物を音楽といふ流動物に溶かしこむ」という言葉遣いは、川喜田の琴線を激しく振るわせたに違いない。そうならば、建築も音楽と融合することで新たな創造に向かうことができるのではないかと。 
 《霊楽堂の草案》では,建築は山田の音楽芸術に奉仕する立場にとどまっていた。しかし後者では、建築空間の役割が音楽と融合して聴衆の精神に作用するものへと変化している。空間の象徴機能に目覚めているのだ。このことが、山田との交流によって川喜田にもたらされた飛躍であった。後に川喜田はこの間のことを次のように記している。「学生中より山田耕筰氏に師事して作曲を学ぶ。当時いだける1種の建築芸術至上主義より〈氷結せる音楽〉を創作せんがためなり」*21

*1:p.5

*2:山田耕筰「音楽の法悦境」『詩と音楽』第1巻第4号(1922年12月)、p.4

*3:同前、pp.4-5

*4:同前、pp.3-4

*5:北原白秋「芸術の円光」『詩と音楽』第1巻第1号(1922年9月)、pp.2-3

*6:「白い花青い棘」、山田耕筰『若き日の狂詩曲』大日本雄弁会講談社、1951年

*7:同前

*8:ゲーテ、高橋義人(編訳)、前田富士男(訳)『自然と象徴』冨山房、1982年、p.42

*9:山田耕筰研究の第一人者後藤暢子氏からいただいた示唆によると、耕筰には奥や不可視の場所に対するオブセッションがあって、それは幼少期の体験からきているのではないかとのことである。具体的には,彼の自伝『若き日の狂詩曲』の「築地居留地」中で紹介されている、宏壮な屋敷の暗い窓から聴こえてくるピアノの音のエピソードである。

*10:注1に同じ

*11:同前

*12:『サンデー毎日』第3年第41号、1924年9月21日、p.9

*13:明治学院大学図書館付属遠山一行記念日本近代音楽館蔵

*14:同前

*15:『建築新潮』第8年第3号(1927年3月)、『建築畫報』第19巻第8号(1928年8月)ほか

*16:『詩と音楽』第2巻第1号(1923年1月)

*17:同前、p.58

*18:同前、p.62

*19:以上の引用は、山田「綜合芸術より融合芸術へ」より

*20:『建築新潮』第11年第7号(1930年7月)、口絵

*21:川喜田煉七郎『図解式店舗設計陳列全集Ⅰ』モナス、1940年、p.493