著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

円形校舎にみるモダニズムの戦後―坂本鹿名夫の「純粋機能主義」と円へのこだわり

初出:『まちなみ』第26巻第297号(大阪建築士事務所協会,2002年3月) pp.22-25
再録:石田潤一郎(監修)『関西のモダニズム建築―1920~60年代,空間にあらわれた合理・抽象・改革』淡交社,2014年6月


円形校舎にみるモダニズムの戦後
坂本鹿名夫の「純粋機能主義」と円へのこだわり
梅宮弘光


 平面が円形の建物のことを円形建築と呼ぶことはあると思うが、呼称としてはどれほど一般的なのだろうか。ともあれ、円形建築と言われれば、古代ローマから現代まで『建築史図集』に載っているようないくつかの代表作を、私たちは共通に思い起こすことができるだろう。
 しかし、ここでとりあげようと思うのは、そうした円形建築一般のことではない。そうではなくて、1950年代半ばの日本でちょっとしたブームになりながら、現在では忘れ去られた感さえある一連の円形の建物、すなわち時代の産物としての円形建築である。
 直径三十メートルほどの正円の平面。外周と内周に柱を均等に並べるラーメン構造。外壁一面のガラス。中心部は動線と設備のコア。扇型に間仕切られた諸室。規模や用途による違いはあるものの、基本はこの形式による。
 この形式を考案し、多くの「円形建築」を設計したのが、建築家・坂本鹿名夫(1911年~)【写真1】である。坂本は1937(昭和12)に東京工業大学を卒業しすぐに大倉土木に入社、1941(昭和16)に海軍に徴用され技術大尉となる。戦後は大成建設と名を変えたもとの会社に戻り設計主任を務める。1954(昭和29)年に独立して建築綜合計画研究所を主宰する。坂本の信念は「最も経済的に造る」であった。目的にかなったものを最小の経費で建設すること、彼はそれを「純粋機能主義」と呼んだ。最小の周長で最大の面積を囲む円。能率と経済を考えれば「建物のかたちは必然的に円形及至球形に近づく」のだと。最小の投資で最大の成果を目指すという理念は、建築においてもモダニズムの主要な理念であった。
 しかし、坂本の円に対するこだわりはこうした理屈のみで説明しきれないように思われるし、大衆的支持もかならずしも経済性に対してのみではなかったように思われる。坂本の「円形建築」を代表する類型である円形校舎の消長をたどりながら、戦後日本におけるモダニズムの現れ方をみてみたい。

円形校舎の登場

 「円形建築」は、まず学校建築に登場する。背景には、戦後の教育改革があった。1947(昭和22)年、教育基本法とそれにもとづく学校教育法の施行により新しい教育体制がスタートした。中等教育機関として中学校が新設され、小・中義務教育の6・3・3・4制が確立する。
 しかし、学校施設の状況は惨憺たるものだった。1946年後半から開始された校舎の戦災復興は1950年代にはいっても罹災校舎全体の半数に及ばず、制度的前身をもたない中学校では施設不足が深刻化していた。まずは施設の量的確保が急務だったのである。各地で応急の木造校舎が建設されたが、粗悪な設計・施工は台風のたびに被害を出し、教育にも支障を来していた。
 こうした状況を受けて文部省は省内に教育施設部を新設し、建築学会に委託して学校建築の標準づくりに乗り出した。それがもはや木造でないことは明らかだった。不燃化、耐久化、中層化に対応し、同時に森林資源の保護にも配慮するとなれば、1937(昭和12)年の規制以来中止されていたRC造への期待が高まっていたからである。当時の小・中学校のじつに9割近くが木造校舎だった。文部省は、移行措置的な性格である木造学校建物に関する日本建築規格(1947、49年)の発表と並行させて、来るべきRC造校舎を実施に移すモデル校の選定を始めた。
 一方、文部省の委嘱を受けた建築学会では「鉄筋コンクリート造学校建築物標準設計に関する委員会」を設けて研究を進め、翌1950(昭和25)年には「鉄筋コンクリート造校舎の建築工事」をまとめる。7×9メートルの教室を幅3メートルの廊下南面に並べた一文字型平面。この定型は、東京都建築局によって建築モデル校に指定された西戸山小学校などの設計に採用されることになった。
 こうした一連の標準設計策定作業の輪の中に、坂本鹿名夫の姿があった。大成建設の設計技師だった坂本は1947年頃、上司である清水一(1902-75年)の代理として文部省の委員会に出席するようになったという。計画学や構造学の研究者に加え、戦前から10年以上にわたるRC造技術の空白を埋めるためには、実務経験のある技術者が必要だったのだろう。やがて臨時委員の資格で正規メンバーとなり、RC造標準設計の基本設計、断面詳細などの図面作成に働く。
 作業が西戸山小学校の実施設計まできたとき、廊下側間仕切りの検討をめぐって委員が私案を持ち寄ることになった。ここに、最初の円形校舎が現れることになる。坂本が示したのは、正円の校舎2棟を矩形平面の雨天体操場で連結するというものだった。生徒は扇形の教室の中心に向かって着席する。背面からの採光は、日本の学校建築史上一度もなかった形式である。これならば半径部分にあたる間仕切壁すべてが掲示板や生徒用黒板として活用できるというのが坂本の主張だったが、奇抜に過ぎるとして委員会で顧みられることはなかった。1950年5月、西戸山小学校は標準設計のままに着工する。
 しかし2年後の1952(昭和27)年、大成建設在職中の坂本に円形校舎実施のチャンスが巡ってくる。私立金城高等学校(現・遊子館高等学校)【写真2】である。坂本の提案は、かつての西戸山小学校案と同じ円形校舎2棟を雨天体操場でつなぐ案だったが、実現したのは円形校舎1棟のみだった。これが実作としての最初の円形校舎だが、実施段階で設計者の要求が容れられず、不本意な結果であったという。坂本自身は、次作である私立山崎学園富士見中・高校(東京都、1954年【写真3】)を実質的な第1作としている。
 1954(昭和29)年、坂本は独立し建築綜合計画研究所を設立する。「円形建築」実現の兆しが見えてきたことや、あるいは国立国会図書館コンペ(1954年)への応募(結果的には大規模な「円形建築」で佳作入選)が背景に考えられる。独立後の坂本「円形建築」への取り組みには、すさまじいものが感じられる。坂本自身が1959(昭和34)年にまとめた作品集『円形建築』で「主要作品」としてあげるものに限っても、1954年に2件だったものが、55年には14件(うち校舎10)、56年には13件(うち校舎11)、57年には26件(うち校舎15)、58年には18件(うち校舎15)という数である。そして、これらのうちの少なからずが公立学校の校舎である。坂本自身は自ら手がけた円形校舎は、1959年の半ばで100以上と書いている。

関西の円形校舎

 すでにふれたように、坂本の円形校舎は学校建築のプロト・タイプとして構想された。プロト・タイプであれば、それを特定の場所と結びつけて論じるのは不自然かもしれない。じじつ、坂本の円形校舎は北海道江別市から鹿児島市まで遍在している。しかし、坂本自身が「円形校舎は早くから関西方面に認められ」と書くように、独立の翌年1955年に設計された円形校舎の中には、大阪、兵庫、奈良の事例が約20例見出せる。これらに、学校建築以外の「円形建築」や、実現しなかった計画案を加えるならば、「円形建築」にとっての関西は、因縁浅からぬ土地である。ここでは現存する円形校舎を中心に、それらのいくつかを紹介したい。
 神戸市灘区の住宅街の細く急な坂道の途中に、神戸市立美野丘小学校の3階建円形校舎がある【写真4、5】。傾斜地に広がる住宅街のほぼ北限、すぐ後は摩耶山、南に市街と大阪湾を見晴らす。同校は1キロほど南にある摩耶小学校の分校として1956年1月にこの円形校舎1棟からスタートし、1958年に美野丘小学校となった。敷地が南北に長い斜面のため、教室を一文字型に長く南面させる従来型の矩形校舎は配置計画上困難だったのであろう。円形校舎採用の理由もこうした敷地条件にあったと推測される。竣工当時の写真を見ると、円周は縦に細かく桟を入れた木製建具で覆われており、軽快で明朗な印象を与える。木製建具は建設コストを抑えるために坂本が標準とした仕様だった。現在はアルミ・サッシュに替えられており印象は異なるものの当初の様子をよくとどめている。また、円形校舎との関連で、同校の校章【図1】も興味深い。中央の「美」の文字の周辺に六角形を6個をあしらったもので、美しい心を中心にした6学年の生徒の協調を円形校舎の平面形に託して象徴したものだという。
 神戸市立小学校では、ほかに布引小(当時生田区、1956年)、東山小(兵庫区、1957年)、西須磨小学校分校(須磨区、1957年)があったが、現存するのは美野丘小と東山小の2校のみである。
 奈良方面に目を転じると、学校建築以外の「円形建築」も含めて興味深い事例がある。坂本が近畿日本鉄道の沿線開発との関連で行った計画である。
 現在、良好な住宅地として知られる奈良市学園前の開発は、1941(昭和16)年に近鉄が大阪市住吉区帝塚山の帝塚山学院から中学校を誘致したことに始まるが、本格的な宅地開発の開始は戦後の1950年以降である。坂本と近鉄との関係にどのような経緯があったのかについては現在のところ手掛かりがない。しかしとにかく、その最初は1955年、帝塚山学園中学・高校の第1期円形校舎【写真6】だった。その後、同年のうちに、学園前の隣駅である菖蒲池のあやめいけ遊園内にO.S.K(大阪松竹少女歌劇)の本拠地である円形大劇場【写真7】、生駒ホテル計画案【写真8】、1957年に帝塚山学園第2期円形校舎、1959年に学園前ショッピングセンター【写真9】と一連の「円形建築」を設計している。この帝塚山学園第2期は、最上階である4階の全面を円形大講堂としたもので、最上階を講堂もしくは体育館にするこの形式は円形校舎のもうひとつの典型である。
 大阪府下の円形校舎には、ほかに私立四天王寺学園中学・高校(大阪市、1956年)、私立清風学園(大阪市、1956年)【写真10】、私立北陽商業高校(現・北陽高校、大阪市、1956年)、梅花学園(豊中市、1957年)、浪速短期大学(大阪市、1958年)、宝塚市立第一小学校(宝塚市、1958年)、大阪商業大学附属高校(東大阪市、1958年)などがある。

円形校舎にみるモダニズムの1950年代

 1950年代の後半はたしかに円形校舎の隆盛期であった。しかし同時に、円形校舎が体現するような生産・供給の理論としての合理主義は転換点に来ていたように思われる。計画学の分野は、利用実態の観察・分析と数理的手法を用いたプランニング手法やモデュラー・コーディネーションの導入に向かっていった。構造学においては、新しい構造形式を用いて積極的に意匠に関与しようとする傾向が現れ、シェル構造と大きなガラス開口をもつ広島児童図書館(丹下健三、1951年)のように、同じ円形の建物でも円形校舎とは異なる表現も実現しはじめていた。
 こうした傾向が「円形建築」のその後にどのような影響をもたらしたかはよくわからない。しかし、1959年上半期の作品リストを見る限り、増加の度合いには鈍りが見え始めているともとれる。同年出版の坂本の作品集『円形建築』の序でも「特に最近では、円形に限らず、却て在来の角形のものが多い位にもなって参り…」と書かれている。
 1950年代後半の円形校舎ブームの背後には、この形式への大衆的な支持があったと思われる。大衆は、円形校舎の清廉なたたずまいに戦後的な明るい気分を重ね合わせたのではなかったか。円にはそうした象徴的な作用があったように思われるのだ。しかも、坂本の円に対するこだわりも、理屈以前のどこか先験的なものが感じられるのである。しかし、坂本は「円形建築」を経済性からしか説明しようとしないのである。
 この図式は、戦前の日本のモダニストたちが、みずからの作品の意匠を機能性からしか説明しようとしなかったことによく似ている。彼らの多くは、実作の機会を得られないまま戦争状況を迎えたが、そうしたモダニニストとしての心性は、戦後の状況のなかでどのような活動へと結びついていったのか。この問題を考えるとき、坂本の円形校舎はそうした姿の一例を示しているように思われる。

 

参考文献:
建築綜合計画研究所(編)『坂本鹿名夫作品集円形建築』日本学術出版社、1959年
『学校建築(鉄骨校舎)』日本建築学会、1959年
長倉、長沢、上野、小川、渡邊『新建築学大系29学校の設計』彰国社、1983年
『近畿日本鉄道80年のあゆみ』近畿日本鉄道株式会社、1990年

 

キャプション:
【写真1】1958年、坂本邸におけるバックミンスター・フラー歓迎パーティーにて。中央のフラーを挟んで丹下健三(左)、坂本(右)、剣持勇(後中)(『坂本鹿名夫作品集円形建築』より)
【写真2】金城高等学校 模型写真(『坂本鹿名夫作品集円形建築』より)
【写真3】山崎学園富士見中・高校の教室内部、椅子付きの机は円形校舎用に坂本が設計したもの。
【写真4】神戸市立美野丘小学校の円形校舎、1956年
【写真5】神戸市立美野丘小学校の円形校舎、1956年
【写真6】、帝塚山学園中学・高校の円形校舎、第1期(左)1955年、第2期(右)1957年(『坂本鹿名夫作品集円形建築』より)
【写真7】あやめ池遊園円形大劇場、1955年
【写真8】生駒ホテル計画案、1955年
【写真9】1960年の学園前住宅地。なかほどの「円形建築」が学園前ショッピングセンター、1959年。写真下方に帝塚山学園の円形校舎が見える。(写真提供=近鉄資料室)
【写真10】清風高校の円形校舎、1956年。2~3階外周部のアルミサッシュはもとの開口部の外側に後付けされている。
【図1】神戸市立美野丘小学校の校章

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