所収:日本建築学会歴史・意匠委員会(編)『2021年度日本建築学会大会(東海)建築歴史・意匠部門研究協議会資料「戦後昭和の建築―その価値づけをめぐって―」』 pp.66-69
発行日:2021年9月
(※公開に際して画像追加)
1950年代の円形校舎ブームとは何だったのか
The Circular School Building Boom in 1950s Japan
梅宮 弘光 Hiromitsu UMEMIYA
神戸大学,教授,博士(学術);Prof., Kobe Univ., Ph.D.
本稿では,1950年代半ばに登場した円形校舎について,1)円形校舎ブームの概要,2)考案者である建築家坂本鹿名夫の設計理念,3)同時代の建築計画学の状況,4)当時の日本で円形校舎がもつことになった象徴性について検討した。結論として,円形校舎はベビーブームによる教室不足の解決策として登場したが,建築計画学の本格的発展前の当時にあって,学校建築としての性能よりも,その不燃建築としての経済性が優先され,一方で,その形態のもつ好ましい象徴性によって,当時の社会に肯定的に受け入れられたことを示した。
This article discuss the circular school buildings and its boom in mid-1950s Japan as follows: 1.An overview of the circular school building boom that peaked in 1958; 2. The design philosophy of the inventor, Kanao Sakamoto; 3.The status of architectural planning as an academic field at that time; 4. How the symbolism of the circular school building was accepted in the society at that time. In conclusion, In the background of lack of classrooms due to baby boom,the reason for the boom was that the circular school building had a positive symbolism despite being an inexpensive reinforced concrete building.
キーワード:円形校舎,坂本鹿名夫,日本の戦後建築,モダニズム,建築計画学,吉武泰水
keywords:circular school building, Kanao SAKAMOTO, postwar architecture in Japan, Modernism, architectural planning, Yasumi YOSHITAKE
はじめに
平面が円い建物を円形建築というならば古今東西さまざまあり,それが学校ならば円形校舎ということになろう。近年多様化する学校建築には円形平面のものもあり,その地域では円形校舎と呼ばれているのかもしれない。
しかし,本稿で論じる円形校舎は,円形平面の校舎一般ではない。1950年代の半ばにブームといえる現象を示した,いわば時代の産物としての円形校舎である。この円形校舎の設計を精力的に展開したのは建築家の坂本鹿名夫(1911-87年)だが,第一作が現れるや,たちまち追随する他の設計者による円形校舎が続くのも,ブームたる所以である。
ブームが去ってのち,円形校舎も坂本鹿名夫も,いったんは忘れられていたかに思われる。たとえば,北海道には円形校舎を有する11校と円形体育館2棟があったが,日本建築学会北海道支部(編)『北海道の建築1863-1974』(丸善,1975年)には,巻末年表にわずか2校が記されるのみである(しかし,円形校舎を対象にした最初の研究が発表されたのも北海道支部であった*1。
その後,登録文化財指定―朝日小学校(2013年指定),新島学園短期大学研究棟(旧高崎市立女子高等学校円形校舎)(2018年指定),ドコモモジャパン選定―明倫学園(横浜,2005年選定),倉吉市立明倫小学校(2018年選定),坂本設計の円形庁舎,大崎市田尻総合支所(旧田尻町役場)の保存要望提出(2016年,東北支部),絵鞆小学校(室蘭市)の保存活動でクラウドファンディング成立があった。
改めて考えてみるに,『北海道の建築1863-1974』に円形校舎の掲載がなかったのは,編者たちにとってそれはふつうの存在であり,ことさら注目するものではなかったからではないか。1975年には,それらのほとんどが現役だったし,1950年代の記憶さえも,人びとのあいだではいまだ生々しかったであろう。
こう考えてくると,円形校舎研究に求められるのは,それをブームの渦中に置き戻してみることではないか。ハードとしての円形校舎には共通要素が多く,それらはタイポロジー*2として捉えられる。一方,ブームの意味を歴史叙述しようとするならば,当時の言説の交錯のなかに円形校舎を浮かび上がらせることが必要であろう。
こうしたことは,個別事例に則して帰納的に明らかにされるべきものと考えるが,今日,実作,資料,関係者の残存状況からすれば,限界があると言わざるを得ない。その一端を紹介しようとする本稿は,エピソードの羅列に終わる恐れがあるが,ひとつのエピソードの背後には類似の集合,すなわち外延があるようにも思われる。
1.ブームの初発とその後
建築家坂本鹿名夫が円形校舎の中核である扇形教室を発案したのは,文部省と日本建築学会による「鉄筋コンクリート造校舎の標準設計」(1949年)の検討過程だったということになっている*3。とうぜんこのとき,坂本には,それを連続的に並べて円形にし,積み重ねて円筒状にするというアイデアも同時に生まれていただろう。さらに,この円筒同士を矩形平面の共用棟で連結するならば,最小限の動線で必要機能を経済的にまとめることができる。これが,坂本の円形校舎のプロトタイプである。
最初の実作は1954年に竣工した金城学園高校(金沢)である*4。前述のプロトタイプが提案されたが,円筒形一棟のみの実現にとどまった。新奇な校舎として話題となり,一般紙・誌にも取り上げられ,全国から見学者が絶えなかったという。この評判を聞いて坂本に円形校舎を依頼したのが,相場師として有名だった山崎種二(1893-1983年)である。こうして,山崎学園富士見中学・高校(東京)の円形校舎が二番目の実作となる。
以後,この2件が話題と評判を導いて,坂本のもとには多くの依頼が寄せられることになった。完了した設計を携えてある地方都市に説明に行くと,そのたびに出張先で新たに二三の依頼を受けて帰って来るという具合だったらしい*5。またブームたる所以というべきか,直後より坂本以外の設計者による模倣案も登場した。
こうして円形校舎は各地に拡がりながら1958年にピークを迎え,1960年代前半期には新規竣工数を減らしていく。1960年代までをいちおうの区切りとしたとき,円形校舎は,筆者の現時点での把握では,保育園,幼稚園,小・中学校,高校,大学,専門学校,福祉施設等と全国に123件が建設された*6。
1960年代に,円形校舎と入れ替わるように登場する異形の学校建築が蜂の巣型校舎である。八角形の中央ホール周囲に正六角形の教室を充填するように配置するところからその名がある。飯田精次郎(1907年-)による考案で,1970年代にかけて,約70校に採用されたといわれる*7。蜂の巣型校舎は,円形校舎の欠点を解消しながら経済性を追求*8している点で,円形校舎の延長上にある。
2.坂本鹿名夫の設計理念
坂本は自身の設計理念を次のように述べている。「私の建築に対する信念はまず,最も経済的に造る,と云う事である。建築はまず目的にかなつたものを,最少の経費即ち最少の空間,材料及び維持費等でまかなう事から出発する。私は自らこのやり方を純粋機能主義と呼んでいる」。坂本の理念「純粋機能主義」は,平面計画,構造,設備,施工までを総合して経済性を追求するものであった。「私の作品と云えば,円形許りかと思われる方もあるようだが(中略)能率,経済を考えて,必然的に円形に落ちつく場合が多いのであつて,少しも作為や故意にやつているわけではない」*9。坂本にとって円形建築は,この理念の体現ということになる。
円形校舎は,登場の当初から使用上の欠点が指摘されていた。これに対応して,坂本は円形校舎の設計毎に改善を加えた。それを具体的に示したものが,坂本鹿名夫による「実用新案 円形校舎」である*10。1954年6月出願,翌55年11月に公告されている。「登録請求の範囲」には円形校舎がそなえるべき要件として,光線反射板や中央の排気塔など11項目があげられていた。
光線反射板は,背面採光による生徒の手暗がりを解消するために,教壇上の天井を巾2メートルほどにわたって生徒側に傾斜させるというものである。坂本は,これを逆張りと合わせて中空スラブにすると,強度を維持しながら経済性を向上できるとしている。
中央頂部の換気塔は,教室背面から取り入れた風を,教室扉下部や黒板下に設置した換気ガラリから抜き,螺旋階段を通じて上方に導くための装置である。しかしこれでは,中央ホールでの声の反響までも他の階に届いてしまう。坂本は,ホール周壁を有孔木毛版とコペンハーゲンリブの組み合わせで解決しようとしている。しかし,後期の円形校舎では,中央螺旋階段を排してホールを各階独立とした事例が増えることからすると,この対策にも限界があり,施主側は納得しなかったのかもしれない。
円形校舎の実用新案化は,業界に波紋を起こすことになった。池田宮彦(大阪建築事務所)が『建築雑誌』に批判を書き*11,坂本が反論した。池田は,樟蔭中学・高校円形校舎(1956年,東大阪市)の設計者であった。
池田の言い分は,「構造の一部分のとくに優れた考案」というならまだしも,設計上の工夫は人それぞれが自由に行うべきものであり,それを円形平面と一体にして「特許」と吹聴し,円形校舎全体を独占しようとするのはよろしくない,というものであった。
これに対する坂本の反論は,当否はともかく,興味深い。「建築には芸術面と機械面とあり特に後者については創作者の細かい意向が十分に実施される様保護育成されて然る可きではあるまいか。(中略)芸術面の取扱方は勿論自由ではあるがこの様にメカニックな建物になると色彩,造型共に相当制約されて来る事も見逃せない」*12。坂本は学校施設(のような「メカニック」な建物)の設計は恣意性を排した客観的なものであり,その正当性が確立されるまでは「保護育成」が必要なのだと主張する。
坂本の真意は,実用新案をいわば仕様書として,誰でもが一定水準以上の円形校舎を設計できるようにすることにあった。そのためには,喜んで助言をするし図面も提供する。まして特許料など取らないと言っている。
しかし,特許という言葉は一人歩きしたようだ。旧所員の松嶋晢奘氏は,坂本以外の設計になる円形校舎が,多角形平面としたり一部を変更しているのは,坂本の「特許」に抵触しないようにする対策ではなかったかと推測されている*13。また,清風学園(大阪市,1957年)のように,別業者で基礎工事まで進めたところで特許云々の情報が伝わり,坂本と契約し直したという例もある*14。
3.建築計画学の確立以前に始まるブーム
坂本の円形校舎のプロトタイプが提案されたのは,文部省と日本建築学会による「鉄筋コンクリート造校舎の標準設計」(1949年)と,西戸山小学校のモデル校舎検討委員会だったことは前にふれた。このとき,円形校舎案は「面白いが奇抜すぎる」として不採用だったと坂本は書いている*15。このときの委員長が,東京大学助教授の吉武泰水(1916-2003年)だが,吉武の回顧には円形校舎は登場しない*16。
さもありなんと思わされるのは,1955年4月付けの吉武の文章の次のくだりを読むときである。「建築的施設の設計計画にあたって,使われ方に対する考慮がなされていないものはほとんどないが,その使われ方がどのような方法でどの程度まで設計計画に組み入れられているかといえば,建物により設計者によりきわめてまちまちというほかない。(中略)設計が施主,設計者,施工者の3者の間を出ない限り設計者は使われ方に立ち入った分析を加える余裕,というより必要がなかったのである」*17。
吉武が述べるのは,人が使うモノである限り,素朴な機能主義はいつの時代でもあるが,科学的方法にもとづいて検証された機能主義はいまだ現れておらず設計者任せになっている,ということだ。そこで吉武の主張は,「設計が施主,設計者,施工者の3者の間を出」ること,すなわち建築計画学が独立した科学となることである。こう考える吉武にとって,まず円形ありきで始まる坂本の設計は,「設計者のかたよりがちな経験や嗜好が加えられるような建物」としか映らなかっただろう。
吉武は坂本の円形案を無視したのかもしれない。しかし,吉武研究室の若手は,おさまらなかった。後に病院建築の権威となる伊藤誠(1927年-)らが,坂本設計の八尾市立病院円形伝染病棟の批判を『病院』で展開した*18。それは,多数の実績を誇る建築家に対する礼儀をわきまえながらも容赦なく,坂本があげる円形建築の利点をことごとく論破したうえに,同面積,同収容数で,矩形平面の対案を提示するという徹底ぶりであった。
1950年代は,建築計画学発展の確立以前である。当時の計画学は,建築学の先行分野から「調査もの」*19と揶揄されたように地道な調査と分析の段階で,その確立には時間がかかる。一方,教室や伝染病床の不足は喫緊の課題である。しかも,土地も金もない。そうした状況下,現実問題を解決すべく学校や病院が建てられていった。そのなかに,円形建築もあったということである。
4.円形校舎の象徴性
円形校舎を,坂本は「純粋機能主義」だと主張し,草創期の建築計画学は「使われ方」に基づく機能主義からそれを批判した。しかし円形校舎の象徴性は,円形校舎を受け取る地域の人びとにとって,設計者の理念や使い勝手以上に大きな意味をもったと思われる。
円形校舎は何を象徴したのか。それを端的な言葉にするのはむずかしいが,ここではひとまず「好ましい何か」としておき,事例を通して検討したい。
川西小学校(加古川市,1958年)の場合,それは統合であった*20。この学校の新設の背景には,昭和の町村合併と新市制をめぐる悶着があった。ひとつの町が加古川市と高砂市に分町合併されるにともない,本来ならば学校を新設すべき加古川市は,合併による債務引継ぎで緊縮財政を強いられて新築を躊躇,そうこうしているうちに,このままでは通う学校を失う子どもたちがでてしまうところまできた。そのぎりぎりのところで建設されたのが,円形校舎であった。市長は議会で「苦難を経て建立されんとするこの校舎が将来当地方の大同団結のシンボル」とならんことを祈念すると答弁した。同校の校歌には「まるい校舎の銀の屋根/青雲にじをふきあげる」とある。
石山中学校(小樽市,1957年)では復興であった。1956年5月の色内地区火災の類焼で木造校舎と屋内運動場を失い,生徒たちは近隣学区5校への分散を余儀なくされた。そのあとに新築されたのが,2棟を連結した円形校舎だった。当時の『広報おたる』は,「建設急ぐ円型校舎」の見出しで建設中の写真を載せ,「工事現場では長橋中学校をはじめ5校にわかれて勉強に励んでいる石山中学校の生徒たちに一日も早く自分たちの学校に入つてもらおうと,日夜懸命の努力を続けている」と書いている*21。続いて,落成を伝える記事では,2ページにわたって新校舎を紹介し,こう伝える。「わあ,まんまるな学校だ 落成式の日父と一緒に来た弟が,私たちの新しい校舎を見て完成の声をあげた(中略)この十八カ月は長かつた―でもいまは遠い昔のように思われる」*22。
この新築なった石山中学校を視察して円形校舎採用を決めたのが,1958年1月31日に火災で校舎を失い,やはり分散授業を経験した大湊小学校(現むつ市,1959年)である。大湊小学校の再建では,不燃建築としたい意向から当初,ブロック造が検討され,再建委員,助役ら8名が北海道に出張,小樽,札幌を視察したという*23。
その後日談が,新築円形校舎時代の初代校長祐川卯一の回顧でこう語られる。「委員会の人達が視察にいき,円い学校がいいのではという話を聞きました。当時の工藤秀明教頭と相談し,自費で北海道の石山中学校を見にいきました。階段を上って円い石山中学校が見えた時,五分ほど言葉もなくただみつめていました。〈どんでえ〉〈いいですね〉私と工藤教頭の気持ちはいっしょだったと思います」*24。
ちなみに,同年2月には小浜小学校(小浜市)の木造校舎が火災焼失,同月末には早々に円形校舎で三期にわたる再建計画を発表し,そのとおりに実現している*25 。
学校に限らず公共施設の新築では,計画段階で近隣の類似施設視察が行われるのが常である。円形校舎ブームの背景として,こうした視察ネットワークともいうべきひとの動きと口コミにも着目する必要があろう。
おわりに
1.円形校舎は,集合的にはタイポロジーを示しているが,個別には設計者・坂本鹿名夫によるバージョンアップの過程であった。
2.坂本は実用新案出願の意図を,多くの設計者に正しく設計してもらうためと説明した。これは,いわばオープンソースの思想でライセンスフリーであるべきだが,それは今だから言えることかもしれない。いずれにしても,これは,建築作品の個性,作家性,芸術性,匿名性,商品性といった概念を検討する際の興味深い先例である。
3.円形校舎ブームは,校舎という建築類型に閉じた現象ではなく,坂本の多様な円形建築の一部であり,さらにその背景には,円形も矩形も区別しない坂本の地方都市における旺盛な設計活動があった,その全体を復興期から成長期へと発展する日本の社会状況が覆っている。こうした事例には,小樽市,(旧)江刺市,小浜市,鳥羽市,朝日町,八尾市などがある。
4.1950年代は建築学における計画学の草創期であり,学校生活の分析にもとづいた教育施設設計の理論は,未確立であった。坂本鹿名夫は円形校舎において機能主義理念を強く主張したが,それは吉武泰水の表現では「設計者のかたよりがちな経験や嗜好」だったと言わざるを得ない。計画学が未確立な時代だったからこそ,円形校舎は一定数の実現をみたといえるだろう。
5.前述した建築領域内の議論とはべつに,円形校舎を受け取る側―P.T.Aや地域社会―の人びとにとって,円形校舎の象徴性は,戦後の気分にフィットする好ましいものだったと思われる。当時は不燃構造が求められた時代だったが,実際に火災による建物被害を受けたり,急な新築を余儀なくされた地域にとって,RC造校舎を得ただけでも喜ばしいことだっただろうが,それが円いとなれば,さらに気持ちも高揚したのではないか。その意味で,今日からすればシンプルにみえる円形校舎の佇まいは,当時にあっては十分異形であったといえよう。
*1:三河智子,角幸博,石本正明「北海道における円形校舎について」北海道支部研究報告集,2003年6月
*2:多木浩二「ベッヒャーのアルケオロジー―給水塔」,ベルント&ヒラ・ベッヒャー『給水塔』リブロポート,1992年
*3:建築綜合計画研究所(編)『坂本鹿名夫作品集 円形建築』日本学術出版社,1959年,pp.8-9
*4:拙稿「日本初の円形校舎・金城学園校舎(1953年)にみる円形校舎ブームの初発」日本建築学会大会学術梗概集(関東)2020年9月
*5:坂本の子息で建築家の坂本紘一氏の筆者への談話,2004年2月7日,東京
*6:件数は円形校舎を棟数で数えた筆者の現時点での把握による。円形校舎の数をどのように数えるかについては悩ましい側面があり,今後の検討事項である。後述の藤木竜也氏,宇井啓一郎氏の研究では学校単位としておられる。円形校舎の全体的把握に関する業績および既往研究には次がある。インターネットサイト「前村記念博物館(前村敏彰)」円形校舎リスト,森山学「昭和30年代に円形校舎が流行した原因に関する研究」日本建築学会九州支部研究報告第44号(2005年3月),森山学,高橋弘一,中山悠「昭和30年代に流行した円形校舎の流行と衰退の原因に関する研究」『八代高専紀要』第28号,2006年,川﨑圭祐,大川三雄「『円形建築』にみる建築家・坂本鹿名夫の設計理念と建築メディアの評価」『平成25年度日本大学理工学部学術講演会論文集』,2013年,藤木竜也「小学校における円形校舎の全国分布に関する実証的研究」日本建築学会大会学術梗概集(中国)2017年,同「中学校における円形校舎の全国分布に関する実証的研究」,宇井啓一郎・藤木竜也「高等学校における円形校舎の全国分布に関する実証的研究」日本建築学会大会学術梗概集(北陸)2019年,宇井啓一郎『円形校舎の全国分布に関する実証的研究』千葉工業大学修士学位論文,2021年,種田元晴「文化服装学院円型校舎の形態構成と空間構造に関する研究」『文化学園大学・文化学園大学短期大学部紀要』第51集,2020年1月,同「坂本鹿名夫による円形建築の概算直径に基づく年別の型」『図学研究』第55巻第1号,2021年3月
*7:上田渓「蜂の巣校舎の概要と与条件への応答―平面パターンの時系列分析」法政大学2017年度卒業論文
*8:西山夘三「蜂の巣型校舎について」『施設月報』No.48,文部省,1963年12月
*9:建築綜合計画研究所(編)『坂本鹿名夫作品集 円形建築 附経済的建築』日本学術出版社,1959年,p.4
*10:拙稿「坂本鹿名夫の実用新案〈円形校舎〉について」日本建築学会大会学術梗概集(北陸)2017年
*11:池田宮彦「建築の特許と実用新案について」『建築雑誌』第845号,1957年4月
*12:坂本鹿名夫「円形校舎の特許(新案)について」『建築雑誌』第847号,1957年6月
*13:筆者への談話,2004年2月7日,東京
*14:平岡英信氏(学校法人清風学園理事長)の筆者への談話,2004年10月27日,大阪
*15:前掲『坂本鹿名夫作品集 円形建築』p.9
*16:鈴木成文教授退官記念出版編集委員会(編)『建築計画学の足跡―東京大学建築計画研究室 一九四二-一九八八』東京大学工学部建築学科高橋研究室,p.42
*17:吉武泰水『建築計画の研究 建築の使われ方に関する建築計画的研究』鹿島研究所出版会,1954年,p.1
*18:東京大学建築学教室LVグループ 伊藤誠ほか「円形病院の得失について」『病院』第16巻第1号(1957年1月)
*19:前掲『建築計画学の足跡』p.14
*20:拙稿「加古川市立川西小学校円形校舎の建築的内容と象徴性」日本建築学会近畿支部2019年度研究報告集計画系,2019年6月
*21:第99号(1957年6月1日)1面
*22:第105号(1957年12月1日)4面
*23:『旬報志もきた』第232号(1958年4月17日)
*24:大湊小学校PTA広報部(編)『あんこう』No.136(1997年11月1日)p.2
*25:『小浜市広報おばま』第76号(1958年2月28日)