著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

1950年代後半の大阪府八尾市において連続的に建設された公共施設としての5件の「円形建築」について

所収:『日本建築学会大会学術講演梗概集(東海)』pp.741-742
発行日:2021年9月


1950年代後半の大阪府八尾市において連続的に建設された公共施設としての5件の「円形建築」について
正会員 梅宮弘光

キーワード:円形校舎 円形病舎 病院建築 坂本鹿名夫 岡隆一 建財設計工務株式会社

はじめに

 大阪府八尾市では1950年代後半に,公共建築として,坂本鹿名夫(1911-87年)設計による4件,別の設計者による1件,計5件の「円形建築」【表】が連続して建設された。本稿はその経緯を紹介し,この事例をとおして,円形校舎の流行現象について若干の考察を加えるものである。また,これまで不明とされていた八尾市立南山本小学校円形校舎の設計者についても報告する。

円形建築と戦後八尾市政の対応表

1.背景としての1950年代の八尾市政と都市発展

 1948年4月,八尾町,龍華町,久宝寺村,大正村,西郡村の5カ町村合併により八尾市が発足し,初代市長には,久宝寺村長だった脇田幾松(1897-1968年)が選ばれた。このときから1963年まで,脇田は4期にわたり市長を務め,戦後混乱期に都市基盤整備に着手し,高度成長期の発展へと繋げた功績大と伝えられる*1
 1950年代に八尾市は,周辺地域の編入と公営住宅や工場誘致を進め,1957年には人口10万人を超えた。財政規模の膨張につれ公共施設の整備拡充に追われることにもなったが,均衡財政を維持しつつこれに対応した*2。こうした脇田市政のうち,連続的な「円形建築」建設の背景をなすのは,第2期(1952年5月~)と第3期(1955年4月~)である。

2.八尾市の公共施設における5件の「円形建築」

2-1.八尾市立病院伝染病棟【写真1】

1960年頃の八尾市立病院全景

 同病院は,日本医療団の解消後に同団八尾病院を発展的に引き継ぎ,1948年4月の市制施行にともない「市立八尾市民病院」として開設,1950年2月には南太子堂に移転し,木造病院を新築した*3。1955年に公立病院整備事業の国庫補助によりRC造1階の本館と深部治療棟を新築することになったが,同時期に八尾市と厚生省との間で,旧八尾町を含む周辺23カ町村の組合立八尾伝染病院を市立病院敷地に移転・新築することが決定された。その結果,病院敷地内の空地にこれらをどう配置するかが懸案となった*4
 このとき,初代市長・脇田幾松が厚生省当局の勧めで武蔵野赤十字病院内武蔵野三鷹地区衛生組合伝染病棟の円形病棟(坂本鹿名夫設計)を見学して「俄かに円形病棟を当市の伝染病棟に採用してはとの議がおこり」,続いて初代院長・林秀雄も武蔵野赤十字病院を見学,このとき厚生省衛生局技官・中野勘良と坂本からさらなる改良の余地について説明を受け,武蔵野赤十字病院の図面を携えて帰阪,建築関係者,病院関係者と協議の結果,「円形建築」採用となった*5 。このことを林院長は「(坂本氏は)経済性と動線の短い,管理のしやすい病棟を強調,誠に脇田氏好み。その後,八尾市の小・中学校,市民ホールなどの円形建物のすべて坂本氏の設計であるのが,何よりの証拠である」と記している*6

2-2.八尾市立病院看護婦宿舎【写真2】

 前述の病院整備計画には,看護婦宿舎の新築も含まれていた*7。それは,当時の病院敷地内における「看護婦」の分散寄宿を一カ所に集約する計画で,これにも坂本設計による「円形建築」が採用された。
 この事情を,ともに坂本の先行実績である,武蔵野赤十字病院看護婦寄宿舎に倣ったとする資料*8と横浜赤十字病院看護婦寄宿舎をあげる資料*9がある。ただ,いずれであろうと,両者には武蔵野赤十字病院関係施設における「円形建築」採用に積極的だった院長・神崎三益(1897-1986年)の存在が共通している。横浜赤十字病院看護婦寮が「円形建築」となったのも,神崎をとおして坂本が紹介されたためとされる*10

2-3.八尾市立南山本小学校【写真3】

南山本小学校と曙川中学校の遠望

 河内山本地区の近鉄河内山本駅以北では,戦前期から宅地化が進んでいたが,以南には戦後も田畑が拡がっていた。1956年9月に,RC造4階12棟全328戸の住宅公団山本住宅が完成すると児童数が急増,これへの対応として,児童数545名の南山本小学校が開設されることになった。同校は翌1957年4月からの山本小学校13教室の借用を経て,同年9月に円形校舎をもつに至った*11
 この校舎は,円形校舎の基本プランを踏襲しているものの形状や中央階段の形式が独自で,坂本作品ではないと推測されてきた。じじつ坂本鹿名夫の作品リスト*12にも記載がない。設計図書の残存は八尾市にも同校にも確認されておらず,設計者は不明であった。
 しかし,このかんの調査で筆者は,ローカル紙『河内新聞』記事中に「(設計を)建材株式会社大阪支店と随意契約」「特許バランスド・ラーメンで同建設では全国的に建設をしている」*13 という記述を見出した。「バランスド・ラーメン」は構造技術者・岡隆一(1902-不詳)の創案になり,RC造を経済的に実現する構造として戦後に流行をみたものだが,岡隆一主宰の岡建築設計事務所とともに,この構造の普及・推進を担ったのが「建財設計工務株式会社」である*14。記事中の「建材」は誤植で,同社のこととみてよいだろう。
 同社は尼崎市立浦風小学校の円形校舎(1960年1月竣工)を手掛けていることがわかっており*15 ,それは南山本小学校とも形状や外見が類似する。
 ところで,当時の新聞報道に次のようにある。「音響への配慮が足りなかったのは,もともと木造で建てる間際になって地元から円型でもよいから鉄筋にと要望があり,起債の期限に押し迫られて,設計は他の学校のをそのまま使ったためだと土木課では弁明しており,次に建てる曙川中学校では完全な防音装置をするという」*16。流用元となった円形校舎の存在,「円型でもよい」というニュアンスに窺われる当時の円形校舎の評判など気になるところで,その調査は今後の課題としたい。

2-4.八尾市立曙川中学校円形校舎【写真4】

 曙川中学校は,1955年4月の曙川村編入により現在地に移転新築された。校地は,南山本小学校の南に隣接する。移転の事情について,当時の市広報紙は次のように伝えている。「曙川中学校の新設は,同校が曙川小学校に併設され貧弱な施設に放置されていたが合併された今日,この地域が当市住宅造成の中心地であるため生徒の急増により悩んでいる八尾成法中学校等の不正常授業を緩和する一石二鳥をかねて建設されたものです」*17

2-5.八尾市民ホール【写真5】

市庁舎増築と建設中の市民ホール

 八尾市発足当初の市庁舎は旧八尾町役場が使用されたが,たちまち狭隘となり,その西側にRC造3階の新庁舎が建設された。その後数次にわたる周辺町村編入により職員はさらに増大,本庁舎南側に増築計画が持ち上がった*18。一方,公民館の新築計画に際してその移転先が二転三転するなか*19,脇田市長は,庁舎増築と公民館新築を同一敷地内で行う計画を打ち出した。敷地の形状が台形で狭隘なことから議会の反対もあったが,坂本の設計になる矩形庁舎と円形市民ホールをあわせて,市制10周年記念事業と位置づけることとなった*20

おわりに

 八尾市における5件の「円形建築」の端緒は市立病院の伝染病棟と看護婦宿舎で,その実現には武蔵野赤十字病院における坂本鹿名夫の先行事例にもとづくプロモーションが有効に働いたと考えられる。すなわち,円形校舎の流行は,学校に限らずそれ以外の公共施設への「円形建築」採用*21の一部をなす現象でもある。それは施設内容とは無関係に,まず円形プランありきで「円形建築」の優位性を主張した坂本の設計論の現れといえよう。
 なお当時,こうした坂本の設計論に対して,『病院』誌上に東大LV(吉武泰水研究室若手グループ)による批判記事が掲載され,武蔵野赤十字病院の神崎院長や八尾市立病の林院長をも巻き込むかたちで話題となった。その議論は,「円形建築」流行現象の本質にも関わって興味深いが,稿を改めることにしたい。

謝辞 本稿の作成にあたり,次の方々に多大なご協力とご教示をいただいた。記して謝意を表します。八尾市教育委員会,同文化財課,同市政情報室,八尾市立八尾図書館,倉本清三郎氏,西辻豊氏,船曵悦子氏,尼崎市立歴史博物館地域研究史料室"あまがさきアーカイブズ"

ummy.info



*1:八尾市史編集委員会(編)『八尾市史(近代)本文篇』1983年,八尾市 「特集:故脇田幾松氏を想う」『河内どんこう』32号(1990年9月),やお文化協会

*2:前掲『八尾市史(近代)本文篇』

*3:「病院沿革」『八尾市立病院創立15年史』八尾市立病院

*4:林秀雄「円形病棟の得失 使用した病院の立場から」『病院』17巻4号(1958年4月)

*5:同前,p.44

*6:林秀雄「拾遺史 円型伝染病棟」前掲『八尾市立病院創立15年史』p.56

*7:注4に同じ

*8:注3に同じ

*9:「円形建物評判記」『朝日新聞』1957年11月18日付

*10:松本吉友「病院を顧みて」『横浜赤十字病院創立45周年記念誌』1969年,横浜赤十字病院,p.29

*11:『創立四十周年記念誌』1997年,南山本小学校,p.10

*12:「主要作品歴」建築綜合計画研究所(編)『坂本鹿名夫作品集 円形建築』1959年,「坂本鹿名夫研究研究所経歴書」1980年頃

*13:第25号(1957年4月11日付)1面

*14:『バランスド・ラーメン』(発行年表記なし),岡建築設計事務所

*15:船曵悦子氏(大阪産業大学)のご教示による

*16:注9に同じ

*17:『八尾市時報』188号(1958年11月20日),八尾市

*18:八尾市史編纂委員会(編)『八尾市史』1958年,八尾市

*19:『河内新聞』32号(1957年6月21日付)1面

*20:『八尾市時報』180号(1958年6月5日),八尾市

*21:類似の事例に,小樽市(校舎,病院),(旧)江刺市(校舎,庁舎,農協),小浜市(校舎,病院,図書館),鳥羽市(校舎,庁舎,宿泊施設),朝日町(校舎,保育所,公民館・図書館案)などがある。このうち鳥羽市と朝日町については,かつて発表したことがある。拙稿「鳥羽市における坂本鹿名夫の作品」『日本建築学会大会学術講演梗概集(北海道)2004年8月』,同「三重郡朝日町における坂本鹿名夫の設計になる円形建築について」『日本建築学会大会学術講演梗概集(北陸)2019年9月』