著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

校地取得事情から検討した円形校舎の採用理由―1950年代の神戸市立学校円形校舎4棟を事例として

所収:『日本建築学会近畿支部研究報告集. 計画系』第52号
発行日:2012年5月


校地取得事情から検討した円形校舎の採用理由
―1950年代の神戸市立学校円形校舎4棟を事例として
Why was The Circular Type chosen for The New School Building in 1950's?
-A Case Study on Four Circular Type School Buildings of Public School in Kobe

正会員 梅宮弘光

キーワード:円形校舎 坂本鹿名夫 モダニズム 戦後建築 学校建築

はじめに

 本稿は、1950年代に神戸市内に建設された円形校舎4棟について、新校舎建設に際して円形校舎が採用された要因を、校地取得事情と取得された校地の敷地条件を検討して探ろうとするものである。
 「円形校舎」というとき、それが指し示す範囲は便宜的に3段階に分けることができよう。
 第一はもっとも狭義で、建築家・坂本鹿名夫(1911-87年)が考案し、1950年代から60年代初頭にかけて100棟以上に採用された鉄筋コンクリート造校舎の形式である。これを坂本は「円形校舎」と題して実用新案出願(1954年6月9日付)し、翌1955年11月16日に公告されている。実用新案公報の「登録請求の範囲」の記述によれば、この時点における坂本の「円形校舎」とは次のようである(引用に際して文中の付図番号を略した)。
 外周にベランダを設けたる円形校舎の中央部を廊下として該廊下の周囲に扇形教室を形成し該各扇形教室の外窓に硝子を用い、廊下え(ママ)の出口に下部がガラリで上部が硝子の扉と薄い鉄板より成る扉の2枚の扉を設け、ベランダえ(ママ)の出口に引違戸をつけ教壇の上部に光線反射板を設け、教室の側壁、光反射板、ベランダの床に明色塗料を塗附(ママ)し廊下の中央に排気筒を設けた円形校舎の構造1)。
 すなわち坂本のいう円形校舎は、単に平面が円形というだけでなく、こうした細部仕様が相乗効果を上げて全体の性能向上に資するよう設計された、いわばプロトタイプとしての性質をもつものである。
 第二は、坂本の考案になる円形校舎の採用実績増加に並行して出現し始めた、坂本以外の設計者による類似の円形平面校舎である。坂本によれば、こうしたなかには建設に際して坂本に許諾を求めたものと、そうでないものとがあったという2)。
 第三は、もっとも広義に捉えるもので、設計・建設された場所や時代を問わず、平面が円形であることのみを要件とするものである。

1.神戸市における円形校舎とその時代背景

1-1.神戸市における円形校舎の概要

 神戸市内に建設された円形校舎は、いずれも神戸市立学校のもので、3棟が小学校校舎―摩耶小学校分校(後の美野丘小学校、灘区)、鵯越小学校分校(後の東山小学校、兵庫区)、西須磨小学校分校(後の北須磨小学校)―、1棟が中学校校舎―布引中学校(当時の生田区・葺合区)―である。
 竣工時期は1955(昭和30)年から1959(昭和32)年の間で連続している。
 小学校は、いずれも分校設置が認可され校舎新築に際して円形校舎が採用された。布引中学校は戦後の新制中学として1948(昭和23)年に設置され、以後、1956(昭和31)年に校地を取得して校舎を新築するまで既存小学校校舎の共同利用が続いた。円形校舎はそれを解消して、新たに取得した校地における校舎新築に際して採用されたものである。すなわち、これら4棟はいずれも、校地の新規取得にともなって新築された点で共通している。
 これらの円形校舎の設計には、いずれも坂本鹿名夫が関与している。この点を坂本は「神戸市役所では同じ設計図で三度、別の設計図で一度程建てているが、当方の設計を多少変更されるためか、宝塚(宝塚第一小学校の講堂、筆者注)その他より見学に行く人の評判は余りよくないようだ」3)と述べており、その関与が基本設計のみであったことを窺わせる。
 これらの円形校舎は、小学校3棟が3階建て、布引中学校が4階建てである以外は、いずれも中央ホールに螺旋階段が貫通し塔屋を備え、外周に幅の狭い外部ベランダを巡らせた同タイプである。

1-2.円形校舎建設の時代背景

 教育施設をめぐる1950年代の時代状況は、終戦直後の極端な混乱状態からは脱しつつあったとはいえ、都市人口の急激な回復にともなって生じる児童数増加が深刻な事態を招いていた。たとえば1951(昭和26)年の神戸市における児童数増加は前年から8000人(学級数換算150学級)。以後52年1100人(45学級)、53年2000人(57学級)、54年6700人(84学級)、55年7000人(128学級)、56年4450人(69学級)、57年4400人(84学級)、58年5600人(111学級)と増加し、この間の1955(昭和30)年には、全児童数が戦前の最高であった1942(昭和17)年を越した4)。
 こうした児童数急増は二部授業や小・中学校併設などの不正常授業を生じさせ、その解消が1950年代を通じて喫緊の課題とされた。
 この事態への対応として国の対策がなされたが、その有効性が現れ始めるのは補助金制度が負担法に改正(公立学校施設国庫負担法)された1953年4月以降とされる5)。この間にも児童数増加が続く神戸市では、1956年度末に地方債によって財源を確保し対応に当たった6)。こうして1959(昭和34)年、神戸市では二部授業の全面的解消が達成されることになった7)。
 このかん、学校や校区の過大規模を解消する目的でいくつかの分校が設置され、また小・中学校平地の解消が進められた。円形校舎は、こうした状況の中で建設された。

1-3.神戸市立学校円形校舎の現況

 4棟のうち、布引中学校円形校舎は、山陽新幹線新神戸駅が同校校地を含む場所に設置されることになり1968年に他の校舎とともに取り壊され、校地が移転した。鵯越小学校分校は1958年に分離独立し東山小学校となり、2009年に近隣3校と統合して夢野の丘小学校となった。円形校舎は2009年の廃校直前まで使用され、新校舎建設にともない同年取り壊された。残る2校舎は耐震改修され8)現在も用いられている。

2.摩耶小学校分校(美野丘小学校)

 設計完了:1955年4月9)、竣工:1956年1月10)。所在地:灘区箕岡通1丁目3-17。現存。
 摩耶小学校区は灘区の中央部にある。このあたりは住宅の復興が早かったとされ、同時に山麓部の宅地造成とあいまって児童数が急増した。そのために二部授業解消問題が深刻化し、1954年、分校設置が決定された11)。
 校地として取得された土地は灘区箕岡通1丁目の傾斜地の一画であった。該当地の登記簿によれば、同地は1934(昭和9)年に耕地整理により「田」として登記され個人所有となっていた。1948年米軍撮影の空中写真(USA-R462-70)から判断すると、当該地周辺は田畑あるいは原野が広がっているが、その南面する一体と東方には人家が多く残っている。1955(昭和30)年7月29日付けで神戸市に所有権が移転されている。
 この場所が校地に決定した経緯を知る手掛かりは現在のところ得ていないが、分校設置決定と所有権移転の時間経過から推測すると、おそらく分校設置の必要性が高まってきたころから校地取得の模索が開始され、買収交渉が成立したところで分校設置が決定されたと想像する。
 1961年国土地理院撮影の空中写真(MKK611-C11-243)では、すでに山麓を這い上がるように宅地が迫っており、児童数増加の趨勢を窺うことができる。
 箕岡通のみならず、このあたり一体は六甲山南麓の上限附近で、南方に下る傾斜地である。校地全体は南北に長い若干彎曲した矩形で、短辺約48m、長辺約120m。校地としては決してよい条件とは言えないが、さまざまな制約のなかで最善が尽くされた結果であろう。
 この敷地の傾斜面が段状に整地され、まず直径約26mの15教室と職員室を収める円形校舎の建設が始まり、1956(昭31)年1月に竣工。神戸市内初の円形校舎となる。その約2年6ヵ月後、円形校舎の北側に小規模な鉄筋コンクリート造3階建て方形校舎が建設され、渡り廊下で連結された12)。
 こうした敷地条件では、一文字型やL字型という従来型校舎を従来規模で運動場に南面させて建設することは不可能である。したがって、この校地を取得するに至った背景には、建設予定の校舎として当初より円形校舎が想定されていた可能性が高い。
 神戸市教育史編集委員会(編)『神戸市教育史』(1964年)は、この円形校舎について「建設費が約一〇パーセント、延べ坪数で約一五パーセントの減で財政状態の悪かった当時としては効果の多いものであった」13)と評している。

3.鵯越小学校分校(東山小学校)

 設計完了:1957年4月14)。竣工:1958年4月15)。所在地:兵庫区東山町4丁目21。2009年取り壊し。
 同分校が設置に際しては、神戸市立東山病院敷地西端の一部を敷地として円形校舎が建設された。同病院は1876(明治10)年に内務省が設置した「避病院」を前身とし、1889(明治22)年の神戸市制施行にともない市に移管、1900(明治33)年に常設の東山病院となり、1910(明治43)年に上述の場所に移転した。1954(昭和29)年頃に病院機能の分散移転にともない同病院を閉鎖する計画が起こるが、病院機能は1957(昭和32)年頃まで存続したと思われる16)。したがって、同分校の敷地はもとより市有地であった。
 1953(昭和28)年現在の病院配置図17)と1957年神戸市発行の『神戸市街地図』(1/4000)18)の表示とを重ね合わせると、この時点ではいまだ東山病院が存続しており、その施設を縮小することで校地を確保したことがわかる。施設縮小を西端の隅部にとどめようとするならば、円形校舎にするほかなかったと思われる。
 同分校が東山小学校として独立するのが1958(昭和33)年4月、同年8月30日には円形校舎東側には「中校舎」と呼ばれていた鉄筋コンクリート造方形校舎が増築されるので、この頃には旧東山病院建物が取り壊され、跡地が増築校舎と運動場として整備されたと思われる。1961年5月撮影の空中写真(MKK611-C14-8)では、全体の整備が完了していると判断できる。前出の配置図によれば、病院時代の同地には、若干の段差があったことが窺えるが、運動場整備にともない平坦に整備されたと思われる。
 晩年の校地の姿のみからは同校に円形校舎が採用された理由を推し量ることはできないが、上述の経緯からすれば、校地取得事情に関係する合理的な理由があったと考えられる。

4.布引中学校

 設計完了:1956年4月19)。竣工:1958年2月20)。所在地:生田区加納町1丁目3(当時)。1968年取り壊し。
 戦後の中学校は制度的前身をもたないため、小学校校併置として開校されることが多かった。神戸市の場合も例外ではない。とくに布引中学校は、いわゆる「間借り校舎」時代が長く、二宮小学校、小野柄小学校と設置以来9年に渡る校舎共用を経て、1956(昭和31)年になって初めて独立校舎を得たが、それは神戸市立中学校のなかで最後であった。しかも、その鉄筋コンクリート造方形校舎は規模が小さいためにまずは3年生しか移転できず、1~2年生は依然小野柄小学校校舎に残り、同一校地に全学年が揃うのは、第2期工事として円形校舎が完成する1958年のことであった21)。
 この校地は、川崎造船所創業者・川崎正蔵の邸宅地の一部で、旧土地台帳の記載によると、少なくとも後に円形校舎の敷地となる加納町1丁目5-1(地番)周辺はその後、川崎芳太郎、川崎武之助と家督相続されたが、1938(昭和13)年の阪神大水害で被害を受け、1940(昭和15)3月25日付けで神戸市に所有権が移転されている。
 市はこの邸宅跡を公園地としたが、実際には未整備のまま戦時となる。このあたりは水害に続く空襲の被害によって荒廃し、戦後はそこに不法占拠によるバラック住宅が集まり、その間に芋畑が広がるというありさまだったらしい22)
 一方、市では1949(昭和24)年頃に中央市民病院(長田区三番町)の建て替え計画が起こり、戦後の中心市街地東遷の趨勢を受けて、三宮周辺での新病院設置が模索され、結果的に加納町1丁目に決定、1950(昭和25)年から新築工事に着手し1953(昭和28)年9月に完成する。この工事に際して、不法占拠住宅の立ち退き問題で難渋することになった23)。
 布引中学校の校地は、この新中央市民病院敷地の北側にあたり、一体は北に向かって傾斜しつつその北端で六甲山麓に突き当たる。布引の滝に発する小川が敷地内を横切り、生田川に合流していた。当初はここも中央市民病院の敷地に想定されていたが、宮崎辰雄助役(当時)の英断によって、布引中学校校地に振り向けられることになったと伝えられる24)。
 第1期校舎(方形)の小川を挟んだ段下は、運動場に整備される予定だったが、ここにも70余戸の不法占拠バラックがあり、第2期校舎(円形)建設工事と並行して立ち退き交渉が進められた25)。こうした状況を勘案すれば、全学年を収用するための第2期校舎の敷地は、一辺約30mの矩形平地を確保できる校地北端の三角形の頂部附近しかなく、そのために円形校舎が選択されたと考えられる。

5.西須磨小学校分校(北須磨小学校)

 設計完了:1957年12月26)。竣工:1958年12月27)。所在地:須磨区離宮西町2丁目1-1。現存。
 西須磨小学校区では児童数増加にともない、1955(昭和30)年から1957(昭和32)年にかけて、学校関係者による神戸市への分校設置の陳情が重ねられた28)。その結果、1958(昭和33)年3月には第1期工事として円形校舎建設が着手され、同年12月の完成とともに3年生が新校舎に移動、続いて2期工事(方形校舎1959年6月竣工)、3期工事(方形校舎、1960年2月竣工)と続き、1960(昭和35)年4月1日をもって北須磨小学校として独立した。どのような理由で3年生から分離することになったのか現時点では不明だが、二部授業の実施状況と関係があるのではないかと想像する。
 校地は、大谷光瑞別邸を宮内省が買収して1914(大正3)年に完成した旧武庫離宮の西側に細い道路を挟んで隣接する傾斜地で、登記簿記載によると、「宮殿地」だったところが1946(昭和21)年7月29日付けで神戸市に「下賜」され、市有地となっていた。
 1946年米軍撮影の空中写真(USA-M324-A-6-26)によって判断すると、円形校舎敷地の整備以前は、森林の中にできた樹木のないわずかな土地で、そのことをもって第1期工事の敷地となったと想像する。以後、2~3期工事は南に下る斜面の中間に平地を設けながら進められた。現在でも円形校舎の北東側には間際まで急傾斜が迫っている。
 以上のことから、こうした形状の敷地を校地として取得した背景には、円形校舎建設を想定して不正常授業解消する意図があったと思われる。

おわりに

 1950年代に神戸市立学校の円形校舎4棟の建設は、小学校、中学校ともに、児童数急増によって生じた不正常授業解消のための新たな校地取得、校舎新築という共通の背景をもつ。取得された校地は、狭小な傾斜地であったり、既存建物や不法占拠建物が残るなどの戦災復興期に独自の事情のため、従来的な全長の長い校舎建設は困難な土地でも取得されたのは、教室面積確保を優先させた結果であろうと想像される。この決定に先だって、新築する校舎として円形校舎が想定されていた可能性が高い。
 なお、筆者による美野丘小学校を含む円形校舎と坂本鹿名夫に関するいつくかの論考については注に示した29)。


謝辞
 本稿にかかわる調査に際し、次の方々にご協力とご教示を賜った。記して謝意を表します。松嶋晢奘氏、坂本紘一氏、後藤等司(美野丘小学校長)、上田旬司氏(東山小学校長)、常森一裕氏(布引中学校長)、向井淳三氏(北須磨小学校長)※学校長はどなたも2007年当時。神戸市会図書室。


注:
1)「実用新案出願公告 昭30-1677 出願人 考案者 坂本鹿名夫 円形校舎」p.2
2)建築綜合計画研究所(編)『円形建築』1959年、日本学術出版社、p.10
3)同前、p.43
4)「第六章第一節 終戦直後の戦災状況と学校施設」(神戸市教育史編集委員会(編)『神戸市教育史 第二集』1964年、同刊行委員会)pp.671-751
5)同前、p.685
6)同前、p.689
7)同前、p.692
8)奥村由和「兵庫探訪No.171 北須磨小学校円形校舎・塩屋小学校蜂の巣校舎」(『兵庫県建築士会会報「つどい」』No.392、2011年2月)pp.6-7
9)注(2)に同じ、p.156
10)『神戸市立美野丘小学校創立50周年記念誌』2007年、p.6
11)注(4)に同じ、p.687
12)注(10)に同じ、pp.6-7
13)p.637
14)注(2)に同じ、p.156
15)東山小学校長(2007年当時)・上田旬司氏提供資料「東山小40年のあゆみ」
16)堀道紀(監)佐藤静馬(編)『神戸市立東山病院史』神戸市衛生局・神戸市立東山病院、1956年
17)同前、口絵
18)神戸市立中央図書館蔵
19)注(2)に同じ、p.156
20)『布引―創立20周年記念』神戸市立布引中学校。発行日表記はないが1968年と思われる。
21)同前
22)『神戸市立中央市民病院50年史』神戸市立中央市民病院、1978年、p.95
23)同前
24)『神戸市立布引中学校創立30周年記念誌』神戸市立布引中学校、1978年、p.41
25)同前、p.6
26)注(2)に同じ、p.157
27)「学校要覧 1960・10」神戸市立北須磨小学校
28)同前
29)拙稿「円形校舎にみるモダニズムの戦後」『まちなみ』第26巻第297号、2002年3月。同「鳥羽市における坂本鹿名夫の作品」『日本建築学会大会学術講演梗概集(北海道)F』2004年。同「円形校舎―異形の学校建築」『大阪人』第59巻、2005年1月