著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

1960年代初頭に建設された山形県大石田町立学校の2つの円形校舎について―大石田第一中学校と次年子小学校

所収:『日本建築学会大会学術講演梗概集(北海道 )2022年』 pp.619-620
発行日:2022年9月


1960年代初頭に建設された山形県大石田町立学校の2つの円形校舎について
正会員 梅宮弘光

キーワード:
戦後建築 近代建築 学校建築 市町村合併 秦伊藤建築設計事務所 坂本鹿名夫

次年子小学校の講堂内部写真

はじめに

 本稿は,山形県北村山郡大石田町(おおいしだまち)に建設された大石田第一中学校円形校舎(1961年,2010年取り壊し)と次年子(じねんご)小学校円形校舎(1963年,閉校後用途転換,現存)の概要を報告する。円形校舎建設の社会的背景として,一般的にはまず1950年代のベビーブームによる児童数増加と教室面積不足が思い浮かぶが,そればかりではない。市町村合併の促進過程で誕生した新自治体では,円形校舎に,施設の量的充足以上に地域コミュニティ統合の象徴的意義が託された可能性がある。本稿で紹介するのは,そのような事例である。

円形校舎と戦後建築の社会的構図

大石田町におけるRC造校舎建設の社会的背景

 1955年1月,(旧)大石田町,亀井田村,横山村の合併によって大石田町が発足した。このときの町政の大きな課題が,大石田中学と横山中学の統合および新校舎建設1)と,山間の辺地次年子の総合整備であった2) 。両校の円形校舎は,この新町建設計画のなかで構想された。中学校の統合は1957年3月に町議会決議,1961年7月に敷地選定が難航の末に決着3),同年8月着工。名称は「大石田第一中学校」とされた。
 統合に至るまでの一学年生徒数の推移を卒業者数でみると,大石田中学校が110名前後,横山中学校が90名前後と横ばいである4)。合併時(1955年)の大石田町の人口は15,126人だったが,その後は減少傾向が続く。
 一方,次年子小学校(1878年,明治11年創立)には,新制中学校設置とともに亀井田中学校次年子分校が併設されることになった。1954年10月,小学校木造校舎(1910年建設)の隣接地を次年子部落負担で買収,住民によって校地拡張が行われ,中学校木造教室が増築された5) 。円形校舎は,明治期以来の老朽校舎の「改築」6)として,1963年10月に建設されたものである 。
 大石田町の大字である次年子は,山間の辺地だった。「へき地教育振興法」(1954年)および「同施行規則」(1959年)にもとづいた1959年度のへき地等級指定(5段階で数が大きいほどへき地程度が高)では四級であった7)。1962年に「辺地に係る公共的施設の総合整備のための財政上の特別措置等に関する法律」が施行され,整備計画の財源となる地方債の発行が可能になったが,これがRC造校舎建設の背景にあったと推測する。

RC造校舎建設の社会的背景の説明図

設計者:秦伊藤建築設計事務所

 ともに,秦伊藤建築設計事務所である。同社は,佐野利器の縁戚にあたる秦鷲雄(じんわしお,1881-1957年)とその友人伊藤高蔵(たかぞう,1888-1954年)により1924年に創設され今日に至る,東北地方最古参の設計事務所である。県下初のRC造校舎山形市立第一小学校(1927年,登録有形文化財,近代化産業遺産)の設計者としても知られる。
 両円形校舎は,高蔵の子息高(たかし,1915-76年,日本大学卒)が第三代所長時代の作品である8)。同社は東北地方の公共建築をはじめ多くの実績を誇るが,円形校舎はこの2件のみである。その採用事情,とくに大石田第一中学校に中央吹き抜けと螺旋スロープをもつタイプ(後述)が採用されたことは,きわめて興味深い。しかし,この点について,高の子息で同社現会長の剛氏は,事務所内の会話で坂本鹿名夫(1911-87年)の名を聞いた記憶はあるものの他に特段の認識はない,とのことだった9)。

秦伊藤設計事務所の系譜図   

 ところで,山形市には山本学園高等学校(現惺山高等学校)の円形校舎(1962年4月,2017年取り壊し)があった。設計は,早稲田大学理工学部建築学科卒業後に山形市で建設業を営み,戦後は山形市議,同高校校長・理事長を務めた山本竹司(1903-83年)の原案による10)。
 山本が高校新設に際して円形校舎を採用した背景には,坂本鹿名夫との交流や,市立学校に円形校舎を採用した習志野市長白鳥義三郎(1898-1965年)に対する共感があったことを,自身が記している11)。一方,山本と秦伊藤建築設計事務所には戦前から交流12)があったが,1960年から1963年にかけて山形で相次いで建設されることになった円形校舎に共通する何らかの背景や事情があったかというと,それは手掛かりがなく,わからない。

大石田第一中学校円形校舎

大石田第一中学校の円形校舎写真

 大石田町教育委員会所蔵の青図(昭和36年8月,「秦伊藤建築設計事務所」の図面スタンプ)等にもとづいて概要を記す。
 直径約32mの18角形平面4層のRC造で,中心に各層を貫く直径12mの吹き抜けを囲んで幅2.5mの螺旋状スロープ(約3.6%),その周囲に2スパン分を基本単位とする扇形教室が並ぶ。すなわち,各室の床レベルはスロープに沿って変化する。外観意匠では外周柱の外側に4層を通してリブが付けられ,多角形が強調されている。
 教室は,界壁に付く黒板向きに机を並べ,外周窓を左側にした側面採光で,背面採光とする円形校舎の典型とは異なる。教室床は水平で,これを基準に,出入り口の前扉で廊下側が390mm高く,後扉で195mm低く,それぞれ2段,1段の段差を設けている。4スパンを一室とした職員室では,スロープと床レベルのこうした調整により,室の中ほどに段差を設けている。
 トイレは,1階から渡り廊下で接続する木造別棟とされた。これは南北に細長い敷地における将来の増築を見越しての配置だっただろう。各層を結ぶもうひとつの動線として,折り返し階段が中央吹き抜けに張り出すように設けられ,吹き抜けの空間的効果を高めている。
 中央の吹き抜けと螺旋状スロープをもつ円形校舎は,習志野市立習志野高等学校(1957年,平松義彦),習志野市立第二中学校(1958年,同)13)に次ぐもので,この3件のみであろう。それぞれに異同があるが,大石田第一中学校の場合,4層の中央吹き抜けと,その空間性を際立たせるように設置された折り返し階段が注目される。内部の円形空間に求心性と上昇性を表現しようとする意図が読み取れるからである。校舎完成後3年目にホール中央に設置されたブロンズ像(峯田義郎作)のモチーフも明らかにその意図を意識したもので,空間と響応している。この点が,円形の象徴性が主にその外観に起因する坂本鹿名夫設計の円形校舎との相違だと考える。
 また,スパイラル・アパートメント計画案(1949年,I.M.ペイ) 14) やグッゲンハイム美術館(1959年,F.L.ライト)といった螺旋状円形平面をもつ海外事例の日本への紹介との関連は気になるところだが,今のところ手掛かりがない。

次年子小学校円形校舎

次年子小学校の円形校舎写真

 図面の所在は不明。具体的な寸法・規模の確認は今後の課題としたいが,関係資料と実見の範囲で概要を記す。
 14角形平面3階建て,1,2階がRC造で,中央の円形ホール周囲に外周柱2スパン分を基本単位とした扇形教室が並ぶ。3階はS造,平面は外周柱からさらに外側に向けて片持ち梁で張り出され,講堂兼屋内体操場となっている。この3階のみ,外周柱外側のリブで多角形が強調されており,大石田第一中学校の意匠と類似する。
 次年子小学校は中央の円形ホールの周囲に扇型教室を配置し,背面採光としていた。最上階の平面を一回り大きくして,そこに昇降階段(二カ所)を収める。これは,最上階を体育館とする円形校舎の典型と共通である。
 豪雪地帯の円形校舎には,落雪対策としてRC造の矩形エントランス棟が付属する形式がある15)。それは次年子小学校では木造だったが,現在は撤去されている。
 校地は,明治以来,地域の人びとによって徐々に拡張されてきた16)。校地が現在のように平坦になったのは円形校舎完成後で,1968年に校舎敷地より低かったグランドの埋め立てが行われたことによる17)。
 同校の100周年記念誌は「戦後の次年子は,電力の導入と,道路の拡張,そして学校の建築の歴史でもあった。それらを達成するためには多くの負担もしいられた」,「鉄筋コンクリート円形校舎の利点は面積・建築工事費の節約によって約四割節約可能であり,結果的には木造建築と同じ校費で建設できるという。その上敷地の経済性もうたっている」18)と記す。この両方の記述を考え合わせるならば,円形校舎には,単なる窮余一策ではない,地域の不利な条件の克復や挽回といった積極的な意義が託されていたように思われる。

おわりに

 大石田町立学校の円形校舎は,1955年の合併による新町建設計画において,大石田第一中学校が1961年,次年子小学校が1963年に建設された。設計はともに,伊藤高所長時代の秦伊藤建築設計事務所である。前者は,内部中央に螺旋状スロープと吹き抜けをもつ円形校舎として希少な事例で,その内部空間は学校統合の象徴的空間となっている。後者は円形校舎の典型を踏襲したものだが,その採用にはへき地振興の思いが込められていたと推測される。すなわち,両事例ともに,円形校舎採用には,施設の機能的要求以上に,地域の象徴的存在としての意義と期待が込められていたと考えられる。

大石田町に円形校舎建設の背景説明図謝辞 本稿に関する調査に際して,次の方々にお世話になりました。記して謝意を表します。大石田町教育委員会,大石田町立図書館,池田史明氏,伊藤剛氏(株式会社秦・伊藤設計),高橋廣道氏(次年子窯/株式会社ブリッジ),惺山高等学校,関義人氏,木村和幸氏。


1)大石田町(編)『大石田町史』大石田町,1993年,p.802
2)『広報おおいしだ』大石田町,99号(1963年10月10日),1面
3)同前,第77号(1961年8月10日),1面
4)前掲『大石田町史』,p.803
5)次年子小学校創立百周年記念実行委員会(編)『次年子―部落と学校の記録』1978年,pp.100-101
6)「設計台帳」(株式会社秦・伊藤設計所蔵)
7)財団法人教育設備助成会『へき地学校名簿 北海道地方,東北地方』1961年
8)「大石田中学校建築工事設計図」図面スタンプ
9)伊藤剛氏の筆者への談話(2019年3月27日,山形市)
10)佐々木瑞穂『山本竹司伝』1992年,学校法人山本学園,pp.303-304
11)『くれ竹』第12号(1962年3月),竹田女子高等学校,p.77。前掲『山本竹司伝』,pp.200-201
12)前掲『山本竹司伝』,p.76, p.94
13)藤木竜也「建築家・平松義彦による千葉県習志野市に所在した2つの円形校舎について」『2017年度日本建築学会関東支部報告集』2018年
14)『国際建築』第17巻第2号(1950年8月)
15)桑島小中学校(白山市),土湯小学校(福島市)など
16)前掲『次年子』p.100
17)同前,pp.96-100
18)同前