著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

鳥羽市における坂本鹿名夫の作品

所収:『日本建築学会大会学術講演梗概集(北海道)F』 pp.467-468
発行日:2004年8月


鳥羽市における坂本鹿名夫の作品
正会員 梅宮弘光

キーワード: 戦後モダニズム 戦後建築 円形建築 円形校舎 機能主義

はじめに

 本稿は三重県鳥羽市における坂本鹿名夫(1 9 1 1 - 8 7年)の作品とその背景を紹介するものである。坂本は1 9 5 0年代に鉄筋コンクリート・ラーメン構造による円形建築を発案し,東京を設計活動の本拠としながら,日本全国に校舎を主とした多くの円形建築を設計したことで知られる。坂本は作品集『円形建築』において坂本は自らの設計理念を次のように述ている。「私の建築に対する信念はまず,最も経済的に造る,と云う事である。建築はまず目的にかなつたものを,最少の経費即ち最少の空間,材料及び維持費等でまかなう事から出発する事。私は自らのこのやり方を純粋機能主義と呼んでいる」1)。坂本は設計ごとに細部や施工法に改良を加え,この理念を十全に反映させることに腐心している2)。すなわち,坂本にとって円形建築はまずプロトタイプであった。建築生産における「純粋機能主義」やプロトタイプ志向は,1 9 2 0年代ヨーロッパに発するデザインにおけるモダニズム思想の典型であり,1 9 3 0年前後の日本においても前衛建築家たちによって主張されたものである。戦後における坂本の前述のような主張は,日本における建築のモダニズムの軌跡を検討する上で示唆に富む。こうした認識を踏まえ,本稿では,1 9 5 4年1 1月1日の市制施行直後からの鳥羽市において坂本が手がけた4作品を,その背景となる当時の状況とともに紹介する。

金比羅宮鳥羽分社社殿

 鳥羽市における坂本の最初の作品で,鉄筋コンクリート造の本殿,拝殿からなる。1 9 5 5年1 1月に設計完了,翌56年8月に竣工し3),現在に至る。
 照りのつく屋根が載るものの,もとより全体が鉄筋コンクリート造であり神社建築の伝統形式なぞるものにはなっていない。あえて形式を当てるならば,本殿は一間四方の神明造風で,千木・堅魚木はつくが棟持柱はなく,縁は妻側二面にのみつく。拝殿は三間四方切妻造で前方に一間の向拝がつく。しかし,むしろこの社殿を特徴づけているのは周囲にめぐらされた水平庇と壁の白色という非伝統的要素である。
 この計画には実施案とは異なる原案があった。作品集掲載の模型写真によると,この原案はコンクリート・シェルを想定していると思しき大小の放物線ヴォールトを水平庇で統合したもので,坂本が同時期に設計したあやめ池遊園円形大劇場の舞台上部を覆う部分と共通である。なお同分社所蔵の「金比羅宮鳥羽分社造営奉賛会趣意書」に掲載されているイラストレーションには放物線ヴォールトが直交する構成の,原案と実施案との中間的なものも描かれている。
 社殿の設計を坂本が手がけることになった経緯を示す資料は現時点ではない。しかし,いくつかの手がかりから以下のような推測が可能と思われる。香川県の金比羅宮を鳥羽に分祀する計画は,鳥羽市と近畿日本鉄道の主導で進められたという4)。すなわち地場振興を目指す市制施行直後の鳥羽市と輸送量増大を図りたい近鉄(近鉄山田線,志摩電気鉄道:後に近鉄鳥羽線)の思惑が一致したと思われる。その背景には,海上守護神としての金比羅宮に対する崇敬者が伊勢志摩地方に多かったことなどの要因も働いたようだ5)。分祀に際しては香川県出身の参議院議員・津島寿一を会長に金比羅宮鳥羽分社造営奉賛会が結成され,副会長のひとりには初代鳥羽市長・中村幸吉,顧問には近畿日本鉄道社長・佐伯勇ほか財界人が名を連ねている6)。同奉賛会のおもな機能は造営費募金で,事務局は大阪の近鉄本社内に置かれ,近鉄各駅にも募金箱が置かれたという7)。
 一方坂本鹿名夫は,1 9 5 0年代後半に近鉄に関連する施設の設計を複数(生駒ホテル計画案,帝塚山学園円形校舎,あやめ池遊園円形大劇場,学園前ショッピングセンター)手がけていた。坂本と近鉄との関係の端緒はわからないが,1 9 5 9年3月に竣工した浪速短期大学(現・大阪芸術大学)円形校舎の竣工パンフレットに「私は早くから関西で特に近鉄関係より可愛がられて随分と方々に私の作品を建てさせて頂いた」7)と書いており,その関係は継続的なものだったようである。以上のことから,金比羅宮鳥羽分社設計の坂本担当には近鉄の意向が働いていたと推測される。

鳥羽中学校円形校舎

 1 9 5 9年1月に設計が完了,建設中の同年9月に伊勢湾台風に見舞われ工事が遅延しながら6 0年5月に竣工した(加茂村船津新田)。中央ホールの周囲に6つの一般教室をもつ平面で3層,加えて最上階4層目が講堂兼体育館であった。同校は1 9 7 9年の学校統合により鳥羽東中学校となり移転,旧校舎はその後に取り壊された。
 戦後の新学制によって生まれた新制中学校は制度的前提を持たないため,その設置は各市町村にとって大きな負担となったことは教育史においても一般に指摘されている。鳥羽市も例外ではなかった。とくに当地は変化に富む地形に加えて離島も多いことから校地選定には困難がともなったという。同中学校は鳥羽小学校校舎の借用から始まり,神戸製鋼所鳥羽工場青年学校の木造校舎を買収し独立校舎を持ったが,谷間の狭小な平地に増築を加えるにも限界があった。運動場を平地として確保するために傾斜地を削り円形校舎が建設されることになった8)。この状況を当時の校長であった世古清三は次のように述べている。「学校を建てるような土地はどんなに探しても無かった。もし,建てるとしたら海面を埋めるか,山をけずり取るか,その二つの方法しかなかった。(中略)市当局も市民も種々方途に苦しんで,終わりにできたのが,あの円形校舎であった」9)。竣工パンフレットで市長・中村幸吉は「その狭い敷地を見,又先進各地の学校を視察した結果,ここに適した建物として円形校舎を決めたものの気になるのは財政面であった」1 0)と述べている。発足の1 9 4 7年には合計3 4 2名だった鳥羽中学校の生徒数は,翌年旧制中学校3年の受け入れと坂手中学校の統合により倍増し,円形校舎の敷地工事開始の前年である1957年には800名を超えていた。
 円形校舎の北側教室の冬の寒さは円形校舎で学んだ経験をもつ人びとが共通して指摘することで,鳥羽中学校でも同様であった11)。しかし,生徒数の増加,狭隘な敷地,逼迫する財政という当時の困難な状況において,坂本の提唱する円形校舎は一定の解決を導くものだったと思われる。

鳥羽観光センター

 1 9 6 2年3月,鳥羽町の海岸に面す敷地に竣工したホテルである。当時の鳥羽市は観光産業の振興を図っていたが近隣の伊勢,二見に比して収容力のある宿泊施設が少なく,修学旅行誘致を念頭に置いて約5 0 0名収容の宿泊施設経営会社が設立された。半径約1 4 mの円形建築で6階建,そのさらに上にルーフガーデンと展望室を備える1 2)。詳細は不明だが1980年代に取り壊されたという13)。
 この会社の設立発起人のひとりであった中村幸昭によると,このホテルに円形建築が採用されたのは,1 9 6 0年に開業した西熱海ホテル(伊豆箱根鉄道経営)の円形建築が視覚的効果をあげているように思えたことがあったという。当時,発起人たちは西熱海ホテルや竣工間もない鳥羽中学校の円形校舎を視察したという。西熱海ホテルの設計は,坂本が1 9 3 7年から5 4年まで籍を置いた大成建設(旧大倉土木)であった。建設計画を大成建設に依頼したところ,同社より坂本が推薦されたという1 4)(施工は大成建設名古屋支店)。
 鳥羽観光センターの発表に際し,坂本は西熱海ホテルを円形建築の失敗例として批判している。坂本によると,西熱海ホテルの平面は半径2 1 . 5 mと大きいため空間の無駄が多く円形平面の長所が活かされていないという。坂本に言い分では,西熱海ホテルは坂本の計画案・生駒ホテルの影響を受けながら,円形建築の本質を理解せず外観だけを模倣しているという15)。

鳥羽市庁舎

 1 9 6 2年1 0月に落成した。鳥羽城址の傾斜地に沿って緩やかに湾曲した平面をもつ3階建てで,灯台のような円形の塔屋が特徴的である。それまでの市役所は鳥羽町役場が用いられていた。落成にあたって市長・中村幸吉は,市制施行から日が浅く「すべてが建設時代」で市庁舎建設の余裕がなかったが「坂本建築綜合計画研究所のすぐれた設計」により落成をみることができたと,竣工パンフレットに記している16)。

おわりに

 鳥羽市における坂本鹿名夫の設計活動は,初代市長・中村幸吉の市政のもと地元財界とも関係しながら,市の発展に対応して,限られた経済的条件のもとで地域における問題解決に資するものだったといえよう。

 

謝辞 本稿の作成にあたり,次の方々に貴重なご教示および資料提供を賜った。坂本紘一氏,松嶋晢奘氏,鈴木健一氏,徳田享氏,中村幸昭氏,鳥羽市役所総務課。記して謝意を表します。

 

1)建築綜合計画研究所(編)『坂本鹿名夫作品集 円形建築』日本学術出版社,1 9 5 9年,p . 4
2)「序」,同前
3)「主要作品略歴」,同前
4)金比羅宮鳥羽分社宮司・鈴木健一氏のご教示による
5)鳥羽市史編さん室(編)『鳥羽市史 下巻』ぎょうせい,1 9 9 1年,p . 9 5 5
6)「金比羅宮鳥羽分社造営奉賛会趣意書」
7)坂本「円形校舎を設計して」『浪速短期大学円形校舎』(竣工パンフレット,1 9 5 9年3月1 5日)
8)徳田享氏(鳥羽市立鳥羽東中学校長)のご教示による
9)世古清三「非常時をよく乗り越えてくれた校舎」,鳥羽中学校閉校記念誌編集委員(編)『鳥羽中学校閉校記念誌 蛍雪の三十二年』1 9 7 9年,p . 3
1 0)中村幸吉「円形校舎を望見して」『鳥羽中学校円形校舎』(竣工パンフレット),1 9 6 0年5月
1 1)注8に同じ
1 2)「鳥羽観光センター」『近代建築』第1 6巻第1 2号(1 9 6 2年1 2月),東京
1 3)中村幸昭氏(鳥羽市商工会議所会頭)のご教示による
14)同前
15)注12に同じ
16)鳥羽市庁舎竣工パンフレット