著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

坂本鹿名夫の実用新案「円形校舎」について

所収:『日本建築学会大会学術講演梗概集(中国 )2017年』 pp.207-208
発行日:2017年8月


坂本鹿名夫の実用新案「円形校舎」について
正会員 梅宮弘光

キーワード:戦後建築 近代建築 モダニズム 機能主義 学校建築 円形建築

はじめに

 本稿は,坂本鹿名夫(1911-87年)による実用新案「円形校舎」(公告1955年11月16日)について,その内容を整理し,当時の建築界の反応と坂本の応対を検討して,実用新案登録に込められた意図と建築理念を明らかにするものである。

実用新案「円形校舎」の概要

 この実用新案「円形校舎」(番号:昭30-16744)は,出願人・考案者を坂本鹿名夫,代理人を弁理士荒木友之助として1954(昭和29)年6月9日付けで出願され,翌1955年11月16日付けで公告された。
 本考案の「登録請求の範囲」として坂本が記す要件とその「性質,作用効果」を整理すると【表1】【表2】のとおりである。

実用新案出願の時代状況と出願タイミング

 終戦から1950年代を通じて,学校建築の喫緊の課題は教室の増設であった。戦災学校の未復旧と児童生徒の社会的・自然的増加に起因する不正常授業を一刻でも早く解消するためである。これが円形校舎登場の背景となる基本的時代状況であることはよく知られている。
 坂本は1959年末までに86件の円形建築を設計しており,このうち円形校舎は62件だが,出願の1954年6月時点で設計が完了していた円形校舎は,金城高等学校(金沢市,現・遊学館高校),富士見中学高等学校(東京都練馬区)の未だ2件であった(注1)。
 この円形校舎の出現はマスコミで大きく報道された【表3】。一方,少し遅れて坂本以外の設計者による円形校舎が登場し始めた。坂本が『円形建築』で「当方が全然知らぬ間に建ち,見たこともない」としているものが5件,「他の設計者又は建築主より直接又は間接に模倣する事を申入れ」されたものが7件,計12件ある【表4】。
 以上から,坂本の実用新案「円形校舎」出願・登録のタイミングは,戦後初期における教室不足を背景として,坂本考案の円形校舎が脚光を浴び始め,ほどなく追随者が現れる直前というタイミングであったことがわかる。

実用新案の出願・登録に対する建築界の反応

 当時,円形校舎の実用新案の登録を報じた新聞や建築雑誌は,管見の限り見当たらない。しかし,『建築文化』1955年9月号は「俎上にのつた円形校舎」と見出しを掲げて「さきごろから,特許問題や円形の是非論などによつて,建築界に話題をまいた円形校舎」と記しているから,円形校舎の実用新案がその登録以前から,限定的にしろ建築界に波紋を広げていたことが推測される。
 それがより広まることになった発端は,池田宮彦(大阪建築事務所所長)による『建築雑誌』投稿記事である。ここで池田は建築物を実用新案とすることへの違和感と,坂本が「特許」という文言を用いて円形平面の独占を「威圧」的に主張していると批判した。ついで『芸術新潮』は,池田の投稿にも言及しながら同趣旨の匿名記事を掲載した【表3】。
 池田の投稿および坂本の反論(後述)では敢えて曖昧な表現とされているものの,両者の対立の直接的原因は,樟蔭中学校円形校舎の設計・監理受注をめぐって生じたトラブルであったことが窺われる。すなわち問題の核心は,純粋な建築論議というよりもむしろ建築界における自営建築家同士の筋の通し方にあったことを強く感じさせるのである。

坂本の実用新案申請の動機

 池田の批判に対する反論記事や前掲『建築文化』の記事からは,実用新案登録以前から業界内にはすでにこれをめぐって議論があったことが窺われるが,建築ジャーナル上に実用新案登録に関する坂本の見解が現れたのは,1957年6月の反論記事が最初である(【表3】参照)。
 坂本が同記事で述べる実用新案登録の動機を整理すると,次のようである。1)円形校舎の機構を理解せずに外見のみを模倣することは不適切。2)自分の円形校舎がジャーナリズムで喧伝されると,これを前例として不十分な円形校舎の設計に対する建設許可を当局に迫る者が現れ「由々しき問題を惹起」している。3)これへの対策として,円形校舎の正しい理解が定着するまでの方策として「心ならず」も出願することにした。加えて,他者の円形校舎設計に対して「協力を惜しま」ず,「報酬など求めた事は唯の一度もない」とも述べている。この動機を,実用新案出願のタイミングに重ねてみると,坂本の第一作,第二作を追うように登場し始める他の設計者による円形校舎に対するある種の危機感が坂本側にあったことが推測される。
 わけてもそれは萩光塩学院の円形校舎に対してだったと思われる。同校円形校舎は,藤木竜也氏の研究(注2)によると,坂本の円形校舎を参照しながらもそれとは異なる設計がなされており,この設計者独自の考えと判断が窺われる。坂本の実用新案「登録請求の範囲」と異なるのは,黒板・教卓が扇形教室の側壁にあり従来型の机配置である点と,外周にベランダがない点である。
 萩光塩学院の円形校舎について坂本は「その後キリスト教系の学校より円形校舎の建立の話がでると必ずといつてよい程,萩市の欠点が持ち出されて中止となるのが例である」(注3)と書いている。「欠点」の具体的内容には言及がないものの,自らの設計業務に支障を来す原因になっていると言いたげである。萩光塩学院の円形校舎と坂本設計の円形校舎との相違を,坂本は設計論上の考え方の違いとして納得することができなかったようだ。

坂本の実用新案登録の意図と建築理念

 坂本は実用新案登録の意図を,自らの建築理念と関連づけながら次のように述べている。「建築には芸術面と機械面とあり特に後者については創作者の細かい意向が十分に実施される様保護育成されて然る可きではあるまいか。(中略)芸術面の取扱方は勿論自由ではあるがこの様にメカニックな建物になると色彩,造型共に相当制約されて来る事も見逃せない」(注4)。
 文中の「機械面」や「メカニック」という用語は,建築物の機能,構造,施工,経済性に関わる技術的側面を指していると考えられる。坂本は,少なくとも学校施設(のような「メカニック」な建物)の設計においては,この技術的側面は「芸術面」にあるような恣意性を排した客観的なものであり,したがってその客観的正当性が確立されるまでは「保護育成」が必要だと主張する。
 一方,自身の円形という「造型」は「能率,経済を考えて,必然的に円形に落ちつく」のであって「少しも作為や故意にやつているわけではな」いと述べる(注5)。

おわりに

 本稿では実用新案「円形校舎」の「登録請求の範囲」と主張された効果を整理したうえで,次のことを明らかにした。
1)出願・登録のタイミングは,戦後初期における教室不足を背景として,坂本考案の円形校舎が脚光を浴び始め,ほどなく追随者が現れる直前であった。
2)実用新案登録は当時の建築界に賛否両論の波紋を広げたようだが,実用新案と特許が混同されたまま,建築設計に実用新案を適用することに対する違和感が坂本への批判となって現れた。
3)この批判に応えるかたちで坂本が述べた申請・登録の動機は,自身の設計に次いで現れ始めた他の設計者による円形校舎が,坂本には形態の模倣にとどまり円形校舎の健全な発展を阻むものと受け取られたため,正統な円形校舎を保護する必要があるというものだった。
4)この動機の背景には,坂本に独自の合理主義建築理念がある。



1)「主要作品略歴」『坂本鹿名夫作品集 円形建築』日本学術出版社,1959年
2)藤木竜也「萩光塩学院円形校舎(昭和30年竣工)の建設経緯と建築的特徴について」『日本建築学会大会学術講演梗概集(九州)』2016年
3)「私の提言」前掲『坂本鹿名夫作品集 円形建築』p.10
4)「『円形校舎』の特許(新案)について」『建築雑誌』847号(1957年6月)p.49 
5)注4に同じ