著作リスト/梅宮弘光

日本における建築のモダニズム

円形校舎―異形の学校建築

所収:『大阪人』第59号(2005年1月) pp.26-29
発行日:2005年1月

雑誌『大阪人』の「戦後建築」特集号表紙

円形校舎――異形の学校建築
梅宮弘光

 教育基本法とベビーブーム。一九四七年に始まるこの二つの事柄。いずれも、戦後の学校建築を大きく規定してゆく要因であった。
 制度は確立しても学校施設の実情は惨憺たるもので、校舎の戦災復興は進まず、制度的前身を持たない中学校では施設不足が深刻だった。小中学校校舎の九割は木造で、応急のそれは台風のたびに倒壊した。ベビーブームがそれに追い打ちをかける。後に団塊の世代と呼ばれる彼/彼女らが就学年齢に達しても、教室不足は解消されていない。それを、一つの教室を午前・午後に分けて二クラスで使う二部授業でなんとかしのぐ。一九五〇年代前半の学校風景である。

 この状況を受けて、文部省は学校建築の標準づくりに乗り出した。省内に教育施設部を新設、建築学会に委嘱して「鉄筋コンクリート造校舎の建築工事」(一九五〇年)をまとめた。その中で提案されたのが、七×九メートルの教室を三メートル幅の廊下南面に並べる形式。なじみ深いあの校舎の形式である。
 この標準設計策定の過程で、もうひとつのプランが生まれていた。円形平面中央にホール、その周囲が扇形の教室。長い廊下をつくる必要がない分、建設費が抑えられる。これが円形校舎の登場である。
 しかし、このアイデアが標準設計に採り入れられることはなかった。採光、通風、音響、施工…、さまざまな面で問題が指摘されたからである。学校建築はその後、建築計画学の一領域として確立されていくが、アカデミズムにおいても円形校舎は完全無視の感がある。
 にもかかわらず、円形校舎は一九五〇年代後半から六〇年代前半にかけて多数建設されていった。北海道から九州まで。小学校から大学まで。その数、優に百を超える。困難な条件下で教室面積を確保できる。しかも戦後の気分にふさわしい明朗なたたずまい。それはまことに時勢に適うものだったのであろう。
 その円形校舎を創案し改良を重ねて推進したのが建築家・坂本鹿名夫(一九一一~八七年)である。彼の信念は「最も経済的に造る」であった。最小限の経費で最大限の成果を得ること、それを彼は「純粋機能主義」と呼んだ。さまざまな平面形の中で、同じ面積であればその周長が最も短くなるのが円。それはまさに彼の思想を体現するかたちだったのである。

 かつて関西には坂本設計による円形校舎が点在していた。しかし竣工より五十余年を経て、今では失われたものも多い。大阪市内には、清風学園(一九五七年、天王寺区)、と大阪芸術大学短期大学部(前浪速短期大学、一九五九年、東住吉区)が現存する。両者ともに四階建て、一~三階に扇形の教室を配置して各階を中央の螺旋階段で結び、最上階に載せた円形講堂を鉄骨造のドーム屋根で覆う。坂本による円形校舎の典型の一つである。

 清風の円形校舎では、竣工時、教室の外周はすべてテラスであった。現在では外側にアルミサッシュが入り半屋外の廊下として使われている。これが効を奏したか、その内側には竣工当初の木製建具が残されている。床から天井までいっぱいにとられた開口部のガラス戸を細い竪桟がリズミカルに区切る。坂本の円形校舎に明朗な印象を与えているのがこの建具のデザインだった。扇形の教室では中学生が学ぶ。その机の配置も当初のまま。最上階の講堂は、今は「円形体操練習場」。オリンピック・メダリストを多数輩出してきた名門体操部の拠点である。校舎すべてが現役で活用されており、往事の円形校舎の雰囲気を活き活きと伝える。

清風学園中学校・高等学校の円形校舎

清風中学校・高等学校にあった円形校舎中央ホールの螺旋階段
清風中学校・高等学校にあった円形校舎に残る木製建具

 大阪芸大短大部の円形校舎は、同大が外国語科と保育科から出発して間もなく建設された。円形の大学校舎としては初めてのものである。外観は、階高いっぱいにガラス戸がはめ込まれている。現在はアルミサッシュに変更されているが、当初はここでも竪桟が繊細なリズムをつくり出していた。室内の照明に浮かび上がる透明な円柱、夕暮れ時の往事の光景はさぞやと思わせるものがある。最上階の大講堂は当初の状態をよく残しており、舞台背面も含めて周囲はすべてガラス開口部、窓外に三六〇度のパノラマが広がる。

大阪芸術大学短期大学部の円形校舎

大阪芸術大学短期大学部円形校舎の平面図

大阪芸術大学(旧浪速芸術短期大学)のホール天井
大阪芸術大学(旧浪速芸術短期大学)最上階



 坂本鹿名夫は「只々美を造る事のみを目的としたような建築を嫌悪する」という。美は結果として生まれるものであって創り出すものではないのだと。しかし、その後の建築思潮は必ずしもこの方向で展開したのではなかった。日本的伝統の近代的表現、構造技術を駆使した大胆な空間創造…。機能の充足は諸技術によって底上げされ、建築家には新しい美の創造が求められていった。その展開の中で、建築家・坂本鹿名夫も円形校舎も忘れ去られようとしている。
 一九五〇年代。それは「純粋機能主義」と、その結果としての清廉の美が輝くことのできた最後の時代だったかもしれない。
(うめみや・ひろみつ/近代建築史/神戸大学発達科学部助教授)

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