阪神間モダニズム展実行委員会(編)『阪神間モダニズム―六甲山麓に花開いた文化,明治末期-昭和15年』1997年,淡交社,p.90
【阪神間に生きた建築家とその作品】村野藤吾:中山悦治邸―モダンに温存された趣味性
中山邸は昭和6年頃より設計が開始され,鹿島組の施工で昭和9年竣工。村野藤吾(1891-1984)は昭和四年に渡辺節事務所から独立しているから,村野作品としては初期の邸宅建築といえる。施主の中山悦治は中山製鋼所の設立者で,村野とは同郷であった。
敷地は精道村山芦屋(現在芦屋市山芦屋町)の傾斜地に盛り土をした800坪である。住居は,大別して接客空間,日常生活空間,使用人諸室の3つの部分からなっており,それぞれに異なる動線が対応している。すなわち,玄関から吹き抜けのある大広間そして応接室へといたる経路,内玄関,中廊下,食堂,洋風居間へといたる経路,そして使用人諸室と生活空間を裏側でつなぐサービス用経路である。
表現としては,陸屋根,タイル張り外壁,列柱,吹き抜け,半円形の張り出し,屋上テラスなどモダンな語彙が使われているが,細部の処理や材料の選択はたいへん趣味的,手工芸的である。たとえば外壁一面に淡色タイルを張る表現は,当時の新傾向の建築にしばしばみられるが,中山邸では「特注凸凹モザイツクタイル」が用いられている。それは「平滑にして単調に流れ易きモザイツクタイルに雅味と軟調」を加えるとされる。それは,玄関で用いられたイタリア産トラバーチンや,大広間のチークや銀箔モミ紙,ホワイトブロンズといった材料と,さらには暖炉や建具や手摺にほどこされた彫刻や象巌といった手工芸とのバランスを考慮した結果である。さらに,庭園(茶室を備える)や客間,家族居室のいくつかは和様であるため,和洋の折衷にもこの方針が貫かれる。
こうした手法にみられる自由な設計態度は,のちに村野流の現代数寄屋に連続してゆく。それは,村野のモダニスティックな精神である。(梅宮)
中山邸の大広間 芦屋市
空間構成の統辞法はモダンスタイルである。しかし、そこに漂う雰囲気は、渡辺節の様式主義からけっして遠くない。村野が渡辺に学んだのは、この趣味性をモダンのなかに温存する技術であった。